これは私が所有するダウンビート誌1949年9月9日号に掲載された、マイケル・レヴィンとジョン・S・ウイルソン両氏によるパーカーへのインタビュー記事を、熱狂的
なバード・ファン、山田チエオ氏に翻訳していただきました。
チャーリー・パーカー - 1949年ダウンビートインタビュー
ニューヨーク発 - チャーリー・パーカーは語る「バップはジャズの申し子などではない」
2週間以上にわたったインタビューの中で、バップの創造者はわたしたちに、「バップというのはこれまでのトラディショナルジャズとは完全にかけ離れた代物だよ」という自らの捉え方を語って
くれました。バップは、ジャズをほとんど継承していないしルーツにもしていません。この5年間で国際的に自身の名を知らしめた小太りのアルトプレーヤーは、バップはほとんどの場合スモール
バンドで演奏しなければならない、と付け加えました。
「ガレスピーのプレイは、ビッグバンドの前で固まって演奏するスタイルから変化したよ。彼はすばらしいミュージシャンだ。ヒョウ柄のコートとワイルドなハットは、彼に興行収入をもたらす
ためにマネジャーたちがいつもやるルーチンのひとつにすぎない。同じことは数年前にもあって、そのときはマネジャーたちが彼の名前をわたしの曲のタイトルにくっつけて、彼の評判が商業的に
上がるようにしていたよ。」
数晩にわたり話をしたあと、わたしたちはバップの定義を聞いてみました。チャーリーはまだ、自身の定義を正確に語れませんでした。
「単純に音楽さ」と彼は言いました。「きれいに演奏しようとし、いい音を探すことさ。」
さらなる質問で攻めると、彼はバップの特徴はビートに対する強烈なフィーリングだと言いました。
「バップバンドのビートは音楽とともにあるものであり、音楽とぶつかるものでもあり、音楽を支えるものでもあるんだ」とチャーリーは言いました。「ビートが音楽を押し出す。ビートが音楽
を助ける。助けるというのは大きなことだよ。ビートがずっと続くことはないし、ステディなチャグ音だってないよ、ジャズにはね。だから、バップはとても自由自在なんだ。」
彼が認めるのは、音楽は究極のところ無調音楽なのかも知れないということでした。パーカー自身はパウル・ヒンデミットの熱心な信奉者です。パウル・ヒンデミットは新古典主義のクラシック
の音楽家です。チャーリーは、ヒンデミットの室内音楽やヴィオラとチェロのためのソナタを激賞しています。一方で彼は、バップはモダンクラシックとして同じ道を進むことはないだろう、と
断言してもいます。彼が感じ取っているのは、ジャズというものはもっと自由自在であり、もっとエモーショナルであり、もっと生き生きとしたものだということです。
彼が繰り返し述べたのは、バップというのはひとつの流派として形成されはじめたばかりだということと、今日のトレンドにすぎず、ましてや未来を予言するものではないということでした。
起きるかもしれないことを最もパーカーらしく的確かつ学術的に表現するなら、それは、彼はヒンデミットの正確で複雑な旋律構造と張り合いたいが、それはモダンクラシックに欠けていると彼が
感じているエモーショナルな音色と大胆なシェーディングを使ってのことだということです。
崇高なジャズの伝統に対するパーカーのこだわりのなさは、間違いなく彼の熱心なファンを驚かすことになるでしょう。しかし実際問題、彼自身はトラディショナルジャズをルーツとは全くしてい
ません。トラディショナルなジャズマンと一緒に仕事をした数年の間、彼は魂を失ったようにさまよっていました。自身を確立していく数年の間は、彼は若いジャズマンに影響を与えると思われて
いたトラディショナルジャズを聴くことは決してありませんでした。ルイもビックスもベニーも、一切です。彼が最初に憧れたミュージシャンは、ルディ・ヴァレーでした。ルディに彼はとても感
動し影響を受けて、11歳のときに初めてサキソフォンを購入しました。
このようなバックグランドの彼が30年代の半ばにジャズの世界に飛び込むと、そこには立ちたいと思う場所はありませんでした。3年間にわたり彼は不器用で手探り状態を続けましたが、あるとき突然、
自分に訴えかけてくる音楽に出会いました。それは、彼には意味あるものでした。チャーリーはこう断言しています。「音楽というのは自分自身の経験や考え、そして知恵なんだよ。それを生かした
くないと思えば、こうした音はサックスからは生まれてこない。」
チャーリーのサックスが最初に日の目を見たのは、1939年12月に139丁目と140丁目の間の7番街にあったチリハウスでの演奏でした。彼はビディ・フリートというギターリストと一緒にジャズを演奏し
ていました。そのとき彼は当時使われていたお決まりのチェンジに飽き飽きしたと、チャーリーは述べています。
「何かほかのやり方が必ずあると、ずっと考えていたよ」と、彼は振り返っています。「ときどきはそれが聞こえてきたが、演奏することはできなかったよ。」
フリートと一緒に「チェロキー」を演奏しているときでした。チャーリーが突然気づいたのは、メロディラインとして高音域のコードを使い、チェンジでそれらを適切に補強することによって、
「聞こえていたもの」が演奏できるということでした。フリートは彼の背後でピックを取りました。こうして、バップが誕生したのです。
つまり少なくとも合理的には、これがバップの誕生だったと考えられます。手に入るあらゆる事実が、これが真相であることを示しています。しかし、すばらしいことに対しては出しゃばらないお
となしい性格のパーカーは、このことについてはあまり多くを語らないでしょう。最もパーカーらしい言い方をすれば、こういうことでしょう。「わたしは、今もなおパイオニアのひとりという
そしりを受けている。」
けれども、避けがたい事実に彼は束縛されるようになりました。彼は、自分はいつも大なり小なり、今と変わらない方法で演奏してきたつもりだと述べています。1940年に(デッカに)ジェイ・マク
シャンとレコーディングした最も初期のレコードが、これを裏付けています。レコードによって明らかになったことは、基本的なスタイルは現在の作品にも通じていて、同じような作品では間違いな
くそうだということです。軽いタッチとビブラートを控えたトーンでフレーズを走らせ、元気よく向きを変える--リズムは複雑で、構造はハーモニックです。
1939年から1940年まで、チャーリーは次々と発見を繰り返しました。彼はこの期間、ほかのジャズマンとは違う演奏をしていたと思うと認めています。それまで誰が何を誰のためにどのようにして
やったのか話すというのは吐き気がするというのが、わたしたちの質問に対する彼の答えでした。わたしたちはこう質問したのです。「ディジーもその期間、ほかの連中とは違う演奏をしたのです
か?」
「そうは思わないな。」とチャーリーは答えました。そして少しして、こう付け加えました。「わからないな。その可能性もあるよ。わたしがイエスと言ったことにしておいてよ。」
ディジー自身は、1942年以前はバップチェンジの演奏には気がつかなかったと述べています。
彼が認めようが認めまいが、カレンダーを見る限り、バップと呼ばれることになるものを始めたのはチャーリーだったということになります。いくつかのグループの中では彼こそが唯一、正真正銘の
バッピストだと考えられています。
「本当にバップを演奏しているのは、たったひとりだけだ」と、あるニューヨークのリード奏者が最近述べています。「それはチャーリー・パーカーだよ。バップを演奏していると言っているほかの連中は、
みんな彼の真似をしようとしているだけだ。」
彼には誰も下に見るつもりはありませんでしたが、誰か他人が彼の音楽をこれ見よがしに商業的にアピールさせようとしていると思うと、ほんのわずかな苛立ちがいつもなら愛想の良い態度のチャーリーに
忍び寄りました。商業的にチャーリーを悩ませ始めたディジー・ガレスピーの外向思考が、彼をさまざまにイラつかせることになります。ディジーの成功の一部分として、チャーリーは「アンスロポロジー」、
「コンファメーション」、そして「ショウナフ」などの作品にガレスピーの名前を加えることを強いられます。
チャーリーによれば、ディジーはこれらの曲には全く関わっていなかったということです。
多くの人々にバップを表現しているように見せる戦略を、チャーリーはシニカルに見ています。
「ある連中は『これがバップだ』と言ったよ」と、彼は説明しています。「びっくりだよ。連中は『これは金になる』と言い、『こいつはコメディアンさ』と言い、『おかしな話をする奴だ』と言っていたよ」。
チャーリーは、悲しそうに首を振りました。
チャーリー自身は、ビッグバンドからは距離を置いていました。というのは、彼はバップに適しているのはスモールグループだと感じているからでした。彼いわく、ビッグバンドは大編成になりがちで、
そうなればバップは消えてなくなります。チャーリーの見立てでは、1944年にビリー・エクスタインがバップを演奏したときだけは、かろうじてビッグバンドの体を成していました。彼いわく、今では
ディジーはバップを演奏していますが、もっと落ち着いて、もっと個人的な好みを殺せばもっと上手なのに、ということです。
「ディズには、ビッグバンドは向いていない」と、彼は述べています。「ビッグバンドは、メンバーみんなをのんびりさせる。十分に演奏するチャンスがないからね。ディズはその気になればいくらでも
アイデアが浮かんだよ。だけど、ビッグバンドに留まっている限り、自分が演奏したすべてのことを忘れてしまうだろうさ。彼はまだ音の反復はできていないが、演奏パターンの反復はできているよ」
彼が感じているのは、ビッグバンドの唯一の可能性というのは本物のビッグバンド、特にいろいろなストリングスを加えたシンフォニー編成のものだけだということです。
「これには、スタンダードなインストゥルメンタルジャズよりも、ずっといろいろなことができるチャンスがあるよ」と、彼は述べています。「ストリングスを加えることでとげとげしさがなくなり、さまざまな
色付けができるんだ。」
チャーリー・パーカーは、1921年(原文のまま。チャーリー・パーカーの生誕年は1920年)に、カンザス州カンザスシティに生まれました。一家の周辺は、当時としては快適な環境に恵まれていました。チャーリーは7歳のときにミズーリ州カンザスシティのオリーブ
ストリートに両親とともに引っ越しました。彼の一家にミュージシャンはいませんでしたが、彼はハイスクールバンドに入るとバリトンサックスとクラリネットを演奏しました。彼はバリトンサックスには、特
に愛着がありました。バンドの中で際立ったミュージシャンに贈られるアウォードメダルを勝ち取るのに有利でした。彼はサックスが特に上手だったわけではありませんでしたが、大きく荒々しい音でバンド
じゅうに響きわたったので、審査員は怖くなって彼が上手ではなかったことを不問にしました。
1931年、ジャズと出会ったチャーリーは、ルディ・ヴァレーのものまねにはまっていました。彼がルディのように演奏できるように、母親は45ドルでアルトを買い与えました。彼はアルトを手にしませんでした。
というのは、Cメロディはカッコ良くないと感じたし、テナーはうまく弾けそうにないからでした。しかしながら、彼のアルトへの興味だけは短い間でしたが続くことになります。ハイスクールのサックス仲間
がアルトを貸してくれて、彼は2年間それを持っていたからです。ハイスクールをやめてそれで生活費を稼ぐ必要に迫られるまで、そのことをチャーリーはすっかり忘れていました。
話はスクール時代にさかのぼりますが、彼が言うには彼の名前はさまざまな変遷の末にバードに落ち着きました。チャーリーはこう再現しています。チャーリーからヤーリー、ヤール、ヤード、そしてヤード
バードとなり、最後にバードとなりました。
少しの間ヴァレーにウキウキしたチャーリーは、ブギウギのレコード以外、興味ある音楽を一切聴かなくなりました。1935年にハイスクールを中退すると、14歳のときにアルトで生計を立てようと家を飛び出しま
した。これまで述べたとおり、彼は誰ひとりとしてジャズの巨人たちから影響を受けることはありませんでした。彼らの音楽を聴くことはまったくありませんでした。生計を立てなければならないということだ
けが、唯一彼に影響を与えました。それで彼は音楽を選びました。カッコよく見えたし、簡単そうだったし、まわりにはほかに簡単なものは何もなかったからでした。
初期のチャーリーが巨人たちの影響を受けなかったことは、その後の数年間も続きました。彼が聴き憧れたサックスプレーヤーは、ハーシャル・エバンス、ジョニー・ホッジス、ウィリー・スミス、ベン・ウェブ
スター、ドン・バイアス、そしてバッド・ジョンソンでした。誰もがはっきりとビブラートを効かせて演奏する人たちです。しかし、うわべだけのビブラートがチャーリーのスタイルにわずかにでも影響すること
はありませんでした。
「ビブラートを意識したことはなかったよ」と、彼は述べています。「(白人バンドには一般的な、指先を使ってビブラートをかけるのとは正反対に、)カンザスシティじゃ、意識しなくてもよく顎を使ってビブ
ラートをかけていたからね。わたしはビブラートが好きじゃなかったし、これからも使おうとは思わないよ」。
チャーリーのお気に入りのリード奏者は唯一、レスター・ヤングでした。レスターは、バードのビブラートを使わないスタイルに近かったのです。
「レスターには夢中になったよ」と、彼は述べています。「彼の演奏はとても清らかで、美しいものだよ。でも、わたしはレスターの影響は受けていないよ。わたしたちは違う道を行っていたからね」。
チャーリーがカンザスシティでミュージックシーンに初めて入ったころ、安酒場は夜9時から朝5時までフル回転していました。特別なゲストは1ドル50セント稼ぎましたが、通常は一晩1ドル25セントが相場でした。
街にはおよそ15のバンドがいました。サンセットカフェのピート・ジョンソンのグループは、最も人気のあったグループのひとつでした。当時、街にはハーラン・レナードのほかに、ジョージ・リーやバス・モーテン
のスモールバンドもいました。レスター・ヤング、ハーシャル・エバンス、そしてエディ・ベアフィールドが、あちらこちらで演奏していました。地元のトップピアニストはローゼル・クラクストン、メアリー・
ルー・ウィリアムス、エディス・ウィリアムズ、そしてベイシーでした。
チャーリーは数か月の間、アルトを手に取りました。1935年のサンクスギビングデイの晩、彼は初めて稼ぐチャンスをつかみました。エルドンでのギグをやっていたスモールグループに参加したときのことです。
彼は一晩7ドルでオファーされました。彼は上手ではありませんでしたが、実際のところカンザスシティのミュージシャンは誰もがその晩仕事をしていて、チャーリーを雇った男はその日の出演予定を埋めるために
人探しに躍起になっていたからでした。エルドンへ自動車で向かう途中で、彼らは交通事故に遭遇しました。ふたりが死に、自動車から投げ出されたチャーリーは肋骨を3本折り、サックスは破壊されました。
彼を雇った男は彼の治療費を払い、彼のために新しいサックスを買いました。
1936年2月、チャーリーはほかのグループと一緒に、ふたたびエルドンに向かいました。そして、このときは無事にやり遂げました。そのコンボのほかの連中はチャーリーよりもかなり年上でした。ベースプレーヤー
のJ・K・ウィリアムズは72歳でした。あとは30台と40台でした。チャーリーは15歳でした。けれども、グループにとってかわいいベイビーの彼は、気をつけるべきことやアドバイスをたくさんもらいました。
彼はギター、ピアノ、そしてサックスの教本を手にして楽譜の読み方を真剣に学びました。ピアニストのキャリー・パウエルはピアノを弾きながら、彼にシンプルメジャー、マイナー、センブンス、そしてディミ
ニッシュコードを教えました。
4月にエルドンでの仕事が終わるころには、彼は素早くではありませんでしたが正しく楽譜を読むことができるようになりました。彼はカンザスシティに戻ると、18番通りとパナマかフロリダブロッサム(彼はどち
らか思い出せていません)にあったリディアのクラブで初めて仕事をしました。一晩75セントでした。
「その仕事を思いついたのは主に」と、チャーリーは振り返っています。「そこにいて金を稼ぐためだったよ」
このあとすぐに、彼は初めて22番バイン地区にあったハイハットでセッションを試みました。彼は少しだけ「レイジー・リバー」と「ハニーサックル・ローズ」を知っていましたので、できる演奏をしました。
チェンジを聞き取るのは難しいことだということが、彼にはわかりませんでした。というのは、楽節は簡単なものばかりで、リードマンたちはブラスセクションのためだけのリフを演奏して、決してリードのソロの
バックに回ることはありませんでした。同時に2本のサックスがジャムを行なうことはありませんでした。
「わたしは、『ボディ・アンド・ソウル』をダブルテンポでやろうとするまでは、順調だったよ」と、チャーリーは述べています。「みんな、笑い転げたよ。わたしは家に戻って泣いたさ。3か月間、ふたたび演奏
することはなかった」。
1937年、彼はジェイ・マクシャン・バンドに加わりましたが、2週間でやめました。その後、彼はタクシー代を支払わなかったことで逮捕されました。そのときの振る舞いを許せなかった母親は、彼を助けませんでした。
それで、彼は22日間刑務所に入れられました。刑務所を出た彼は、サキソフォンを残したまま、ニューヨークへと放浪の旅に出ました。
3か月間、彼はハーレムにあるジミーズ・チキン・シャックで皿洗いをしました。このとき、アート・テイタムがシャックの常連を魅了していました。チャーリーの週給は9ドルと食事付きでした。そして仕事をやめると、
彼はしばらくどこででも眠りながら放浪しました。
「警官とは何のトラブルもなかったよ」と、彼は振り返っています。「ラッキーだったな。たぶん、ずいぶん若く見えたせいだと思うよ」。彼は17歳でした。
ニューヨークに8か月いたあと、ジャムセッションにいた連中が彼にサックスを買ってやりました。それを持って、彼はキュー・ガーデンでの仕事を得ました。それは4か月続きました。1年半、彼がサックスに触れること
はなかったにもかかわらずでした。それから、彼はドラムのエべネザー・ポール、トランペットのデイブ・リディック、それに2、3人の男と一緒にモンローズ・アップタウンハウスに移りました。モンローでは無報酬
でした。ときどきは、チャーリーは一晩に40セントか50セント稼ぎました。うまくいったときは、稼ぎは6ドルになったかもしれませんでした。
「当時は誰も、わたしに気をかける者などいなかったよ、カウント・ベイシーのトランペットプレーヤーのひとりだったボビー・ムーアを除いてはね」と、チャーリーは述べています。「彼だけが、わたしの演奏を気に
入ってくれた。ほかの連中はみんな、わたしにベニー・カーターのような音を出させようとしていたよ」。
このころ、1939年の半ばに、彼は初めてバッハとベートーベンの作品を聴きました。彼は、バッハの音楽形式に感動しました。
「気がつくと、そのとき連中がジャムセッションしていた曲はとっくに終わらせられていたよ。でもほとんどの曲は、もっと上手にできていたよ」
1939年の終わり、ビディ・フリートとのチリハウスでのセッションが終了すると、彼はメリーランド州アナポリスに行き、バンジョー・バーニーと一緒にホテルで仕事をしていました。そのとき彼の父親が亡くなり、
彼はカンザスシティに帰りました。そこで彼はふたたびマクシャンにジョインすることになりました。
チャーリーが初めてマクシャンと一緒にレコーディングしたのは、1940年夏、ダラスにおいてでした。彼の初めてレコーディングしたのは「コンフェッション」、「フーティー・ブルース(これは彼の作品でした)」、
「スウィングマティズム」、そして「バインストリート・ブギ」でした。
マクシャンとの演奏で彼がソロを取ったのは、「フーティー」、「スウィングマティズム」、「セピアン・バウンス」、「ロンリー・ボーイ・ブルース」、そして「ジャンピン・ボーイ・ブルース」でした。
そのとき彼は少しだけアレンジを試してみましたが、アレンジというものがほとんどわかっていませんでした。
「曲を終えるときは、リードセクションがトランペットセクションを上回るブローをするようにしたものだったよ」と、彼は説明しています。マクシャンバンドはテキサスを皮切りに両カロライナ州からシカゴへ行き
カンザスシティに戻ると、今度は東に向けてインディアナを通ってニューヨークへ行きサボイに到着しました。カンザスシティからの道中、チャーリーは楽器運搬車を運転しました。サボイで演奏している期間、
チャーリーはモンローでも演奏していました。そこではピアノのアレン・テリー、トランペットのジョージ・トレッドウェル(サラ・ボーンの夫)とビクター・クールセン、ベースのエベネザー・ポール、そしてドラム
のモールが一緒でした。
1941年の終わりにマクシャンを離れた彼は、1942年初めにニューヨークでアール・ハインズに加わりました。このハインズバンドには、ほかにディジー、ビリー・エクスタイン、そしてサラ・ボーンが一緒でした。
チャーリーは以前からディジーとは何となく知り合いでしたが、ふたりがミントンズでセッションをするようになったのは、このころでした。
このニューヨークを訪れていた1942年の暮れのことでした。そのころまでに彼は複雑なハーモニーについて基礎的な研究を始めていましたが、ジギー・ケリーが「火の鳥」を彼に聞かせたときに、初めてストランビスキー
を耳にしました。
マクシャンから離れたチャーリーは、ハインズといた10か月間、テナーを演奏しました。彼は、それまで見たこともないような金を稼ぐようになりました。週に105ドルでした。マクシャンと一緒のときは55ドルから60ドル
でした。しかし、パブストブルーリボンサルートのパッケージツアーで陸軍キャンプにラルフ・クーパーと一緒に派遣されると、彼らの報酬は下がり始めました。いさかいが続き、結局バンドは解散の道を歩むことに
なります。1943年、チャーリーはワシントンで離脱し、クリスタルキャバーンズでチャールズ・トンプソン(「ロビンズ・ネスト」の作曲者)と一緒になります。
その後、彼はニューヨークに戻り、マクシャンとのレコーディング以来久しぶりにレコーディングを行ないます。タイニー・グライムスの「レッド・クロス」と「ロマンス・ウィズアウト・ファイナンス」のセッションで、
サボイにレコーディングしました。仕事を終えたチャーリーは、1943年と1944年、ニューヨークで活動することになります。1944年春には、彼は52丁目のスポットライトで演奏しました。スポットライトはモンローズの
クラーク・モンローが経営していて、かつてのフェイマス・ドアの跡地にありました。スポットライトではドリス・シドナーがハットチェック係をしていて、興味津々の眼差しで彼を見つめていました。ドリスによれば、
チャーリーはまったく気に留めなかったようです。
「彼は、とても冷たくあしらったわ」と、彼女は述べています。
ドリスは我慢強い女性でした。彼女は初めてチャーリーと会ったとき、彼がどんな楽器を演奏しているのかさえ知りませんでした。けれども、彼女は自分の蓄音機にバードとレスター・ヤングのレコードを積み上げていて、
彼らのしていることが理解できるまで聴き込んでいました。彼女とチャーリーは、1945年11月18日にニューヨークで結婚しました。
結婚してすぐに、チャーリーはビリー・バーグズで演奏するために、ディジーと一緒に西海岸に行きました。彼はバーグズでの出演が終わっても、そこに留まりました。
西海岸にいる間、彼はロス・ラッセルのダイアル・レーベルにレコーディングを始めますが、1946年8月に身体(精神?)を壊して病院に担ぎ込まれます。ダイアル・レコーディングに対する彼自身の評価は低いものでした。
「『バード・ロア』と『ラバーマン』は失敗作だった」と、彼は述べています。「これらは、入院する前にレコーディングしたものだよ。ウィスキーを1クオート飲まなきゃ、無事にレコーディングできなかったよ」。
チャーリーは、1947年1月まで病院で過ごしました。精神科医と弁護士を雇ったラッセルは、彼を退院させて自分の監視下に置くと、バードのためにチャリティーを行ないました。多少の金と東へ帰る飛行機のチケット
2枚になりました。
けれども、バードはそのチャリティーでのラッセルの役割を苦々しく思っています。彼は、ダウンビートのチャーリー・エムジにも同じぐらい助けられたが、ラッセルは彼がふたたびダイアルへのレコーディング契約をし
ないうちは、退院書類にサインすることを拒んだと述べています。のちに彼は、解放されるのに外部の助けはまったく必要なかったと述べています。
最初にラッセルと契約したとき、チャーリーはすでにサボイレコードのハーマン・ルビンスキーと契約を交わしていました。ニューヨークを出発する前に、30曲レコーディングするという契約をルビンスキーと交していたのです。
そのうち4曲は、彼が西海岸へ行く前にレコーディングされました。「コ・コ」、「ビリーズ・バウンス」、「ナウ・ザ・タイム」、そして「アンスロポロジー」でした。ルビンスキーは1曲50ドルでこれら4曲全部をチャーリーか
ら買い取りました。
今日では、チャーリーはやりたいことを一巡した感があります。1939年に7番街のチリハウスでバップをやり始めたときと同じように、彼はもっと行き着く先があるはずだと考え始めています。彼はふたたび、まだ演奏できて
いない曲をいろいろと聴くことでしょう。チャーリーがまだ演奏できると確信できていない新しい曲のことです。しかしながら、現在彼が関心を抱いている音楽の方向性--ヒンデミットなど--からすると、彼が目指そうとし
ているのは無調音楽のように思われます。チャーリーは自分がヒンデミットと同じ文脈で語られると抵抗を見せます。しかし、ふたりはスタートラインが全く異なっているにもかかわらず、彼はヒンデミットと同じ頂をめざ
しているのかも知れないと認めています。
このことは、チャーリーがバップを通過点と捉えているということではありません。彼は、バップはまだまだ完成形からはほど遠く、バップがさらに発展していくには彼が歩まなくてはならないステップがいくつもある
と考えています。
「音楽には越えられない一線があると人は言う。」と、彼は述べています。「だけど、芸術には越えられない一線なんてものはないさ。」
将来のために、彼はパリ・アカデミー音楽に数年行き、それからしばらくリラックスし、そして作曲活動したいと考えています。彼の書くものはどれも、ただひとつの点に集約されることでしょう。それは「温もり」という
ことです。彼は曲を書きながら、実験的にスモールグループと演奏したいと考えています。理想を言えば、1年のうち半年はフランスで過ごし、あと半年はここで過ごしたいと考えています。
「そんなふうに過ごすべきさ」と、彼は説明しています。「仕事ではここにいて、リラックスではフランスで過ごすということだよ。」
リラックスというのは、チャーリーがずっと憧れてきたことでした。リラックスできていない中でのレコーディングはほとんど失敗作だった、と彼は考えています。そう言われれば、彼はこれまで決していい作品を残したとは言
えません。コンチネンタルレーベルに残したいくつかの作品はほかのものよりもずっとリラックスしてレコーディングできたと、彼は考えています。けれども、彼が創作したどのレコードもまだ改善の余地がある、と彼は述べて
います。わたしたちは、彼を追い詰めてみました。彼に、少なくともほかよりもましな作品名を挙げさせることでした。
「誰かがわたしたちのところに来たとしましょう」と、わたしたちは言いました。「そして、彼がこう言ったと想像してください。『ここに4ドルある。それでチャーリー・パーカーを3曲買いたい。何がいいかな?』と。わたした
ちは、彼に何と言えばいいでしょうか?」と。
チャーリーは笑いました。
「貯金しときなよ」と、彼は言いました。
まとめ
わたしたちはふたりとも、パーカーの音楽に対する考え方が十分説得力を持っていて明快なことに、とても印象を深くしました。音楽家は、クラシックであれジャズであれ、創造した作品を分析してみるということを伝統的
にしないものです。けれども、パーカーは自分がどこに行きたいのか、そして何をしたいのか、明確な考えを持っています。彼自身、厳密にはどんな結末になるのかはっきりわかってはいませんが。
彼にとって厳密にバップとは何か。このことについて彼が執拗にあいまいな態度をとっているのは、決してポーズではありません。パーカーは、独自の表現方法を追求して奮闘しているミュージシャンで、まだスクールを終えて
いないものの、豊かな才能に恵まれ、音楽的本能の命じるままに身をまかせて完全かつ独自に大きく成長した男なのです。
不可解な彼を正しく理解するなら、パーカーが感じていることは、トラディショナルジャズに決定的に欠けているのは、多くの練習量とアイデアの扱い方だけでなくパーソネルの多様性と経済性ということで、これらはパーソネルの
有り様を重視するモダンには見いだせるものだということです。一方で彼は、今日のシンフォニーにはドライブ感(たぶん、彼のいうダイナミズムの概念にある要素です)と温もりが欠けているとも感じています。そして、彼の
ジャズグループがこうしたトラディショナルの側面をジャズシーンに吹き込む一助になるだろうと感じています。
バップはジャズとはまったく関係がないというパーカーの強い思いは、萎縮感を感じ自分の役割が見えないと感じるパーソネルの中で演奏している若手ミュージシャンにとって、興味深い例示となっています。
彼は疑いようもなく、真剣にパーソネルの有り様と民族音楽の融合を追求しています。それができれば、彼はすぐにでも音楽界で成功を手中に収めることでしょう。
すべてのすばらしいミュージシャンがそうであるように、彼は異常なまでにテクニックを心に刻みつけます。彼は、音色豊かなストリングスが大好きです。彼はストリングスを多く起用していますが、彼の好みであるジミー・
ドーシーのような卓越したミュージシャンたちによって、音楽はバランスの取れたものとなっています。
パーカーは、あらゆる形の麻薬の話題にとても強い思いを抱いています。彼はわたしたちに、彼がまだカンザスシティにいた子供のころに、それが何なのかほとんど知らないまま見知らぬ男から男子トイレの中で勧められたと
話してくれました。彼は、1946年の交通事故まで何年もの間、それを使ったり使わなかったりしました。彼は、これで子供を食い物にする連中は掃討されるべきだと、苦々しく述べています。
パーカーは、わたしたちにこう断言しました。「マリファナだろうが注射だろうが、麻薬をやってとても上手く演奏できていると言うミュージシャンは、明らかに大嘘つきだよ。わたしは飲みすぎると指を動かすことさえ上手く
できなくなるし、ましてや、まともな演奏なんかできなくなる。わたしは、麻薬を常習していたころは麻薬をしていないときよりも上手に演奏できていると思っていたのかも知れないが、今レコードを聴き返してみると、そうでは
なかったとわかる。頭の回る若い連中は、すばらしいサックスプレーヤーになるには麻薬ですっかりハイになるべきだと言うが、彼らは単に麻薬に夢中になっているだけだよ。そこに真実はない。わたしにはわかっている、
本当だ」
パーカーは、まっすぐに正直に、そして鋭くわたしたちに打ち込んできました。彼はつねに、自身の作品やまわりの音楽に満足してはいません。この先何が起きるか、彼の驚異的な才能が彼をどこに連れて行くのか、今のところ
彼自身にもわかりません。
けれども、彼が発見し正し進歩させるという努力を絶えずしているということは、唯一、彼自身と往年のジャズの先駆者にとっては幸先の良いことと言えるでしょう。
終
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