027: レナード・フェザー「ヤードバード・フライズ・ホーム」
(メトロノーム、1947年8月)

Updated on 03 July, 2021



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 数年前から見かけるyoutube映像ですが、これは1947年8月発行の雑誌「Metronome」に掲載されたLeonard Featherの記事、"yardbird flies home"を朗読したものです。
私が所有する同誌から、おなじみ、このNoteでお世話になっております熱狂的なバードファン、山田チエオ氏に翻訳していただきました。
youtube映像はこちらから。https://www.youtube.com/watch?v=hI36O-0bvAU 

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Carl Woidek

「CHARLIE PARKER His Music and Life」の著者、カール・ウオイデック氏が"CHARLIE PARKER Companion"誌に この記事を紹介しておりますので、冒頭の紹介文を記載します。

 恐らく彼自身がミュージシャンだったということが理由のひとつなのでしょう、レナード・フェザーは早い段階からディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーの音楽の良き理解者でした。1947年4月、チャーリー・パーカーがカリフォルニア州のヘロイン中毒治療病院からニューヨークに戻ると、フェザーはこのサキソフォニストとのインタビューの機会を得ました。

 インタビューの収穫は、以下に示すように、何よりも記事の大半がパーカーの人生観と音楽観に割かれたことでした。1949年の「バップはジャズの申し子などではない」という記事と同様に、この中でもパーカーは自身の音楽とジャズとは異なると位置付けているようで、彼は純粋に「音楽と呼ぶ」ことを好んでました。

(このインタビューでのジャズ談義は、ジャズに勝る「本質」というものがあるのかないのかということにまで及びました。ニューオーリンズから派生したジャズの支持者たちは、1930年代のビッグバンドジャズの発展をべた褒めしてきました。1940年代半ばにパーカーやガレスピーといったミュージシャンたちの音楽が出現すると、ニューオーリンズジャズファンの批判の矛先は、新しい音楽が生まれることに対しても向けられるようになりました。)

 この記事はまた、おそらくチャーリー・パーカーが西洋クラシック音楽に関心を持っていることを初めて示すものでもあります。西洋クラシック音楽は、死ぬまで彼を魅了し続けた音楽表現のひとつでした。

 いつもながら、フェザーはパーカーの私生活に切り込みます。「神経衰弱」と診断されたのは、実際にはドラッグとアルコールによるものでした。また、「11歳のときのパニック」はパーカーのヘロイン摂取ゆえのことでした。残念ながら、パーカーが叶えられたのは、彼が目標に置いたもののうち、後半の「さあ、音楽をやろう!」という部分だけでした。(C・W)




 チャーリー・ヤードバード・パーカーがニューヨークに戻ってきました。何とも嬉しい限りです。彼は数多くのミュージシャンのアイドルであり、最も輝かしいモダンジャズのアルトサキソフォニストです。彼は帰ってくると、新たなキャリアと生活をスタートさせました。それはきっと、過去のイメージを払拭するものとなるでしょう。

 チャーリーは4月下旬に戻ってきました。彼の旧友ですら彼とはわからないほど、見違えました。体重は127ポンドから192ポンドに増え、健康的で幸せそうでした。

 この偉大なミュージシャンの復活の背景には、何があったのでしょうか。

 その答えを見つけるべく、わたしはある土曜日の晩、ボブ・バッハのWNEWジャムセッションに現れたバードに会い、番組終了後に一緒に52丁目近くの6番街にあるバーまで歩いて行きました。チャーリーは喜んで話に応じてくれました。彼は、誤解を恐れずに思いの丈を話してくれました。

 この打ち明け話はオフレコでした。彼はいつも私に、自分を道徳者や改革者かのように扱わないでくれと釘を刺していました。彼の話には雄弁と分別があって、歯切れの悪いミュージシャンとの対話にはつきものの、いいかげんなことばかり話す無知や不敬の類では決してありませんでした。

 「事の始まりは、1920年8月29日だった」とバードは話し始めました。「カンザスシティで……私は小学校に行った。ハイスクールで3年過ごしたが、結局フレッシュマン[グレード9]で終わった。私は、スクールバンドでバリトンサックスを演奏した。本気でアルトサックスを始めたのは、1935年に母親が買ってくれた15歳のときだった」。

 彼のキャリアは早くに始まりました。1937年にジェイ・マクシャンがカンザスシティに来ると、すぐにチャーリーは彼のバンドで仕事し始めました。マクシャン・バンド以外にも、ローレンス・キーズやハーラン・レナードのバンドで仕事をしました。翌年はふたたび東海岸にいて、サボイでジェイ・マクシャンと一緒に演奏しました。このバンド在籍中に、デッカに最初のレコーディングを行ないました。

 1942年にはアール・ハインズ・バンドでテナーを演奏しました。ディジーやシャドウ・ウィルソン、エクスタイン、そしてリトル・ベニー・ハリスも一緒でした。しかし、レコーディング禁止令が続いていて、この特徴あるグループはレコーディングができませんでした。その後、チャーリーは、クーティ・ウィリアムスやアンディ・カークと短期間仕事をしたあと、1944年はオリジナル・ビリー・エクスタイン・バンドで、1945年の終戦後は52丁目あたりで仕事をします。そして、ベン・ウェブスターやガレスピーと一緒に仕事をした後、マイルス・デイビスをフィーチャーした自身のグループを率いてスリーデュースで仕事をします。そしてふたたび、ディジーと一緒になって西海岸へ行き、ディジーが戻ってきた後もそのまま西海岸に留まります。このころから頭が朦朧とし始めると徐々にひどくなり、昨年にはすっかり神経衰弱になってカリフォルニア州のカマリロ州立病院で7か月間治療を受けます。

 簡単に彼のキャリアを紹介すると以上のようになりますが、昨年の事態に至った経緯をさらに詳しく知るには、カンザスシティ時代の初期のバードにまで遡る必要があります。

 チャーリーは子どもの頃から、何かショーをまわりの人々に披露していました。「ナイトライフを覚えるには、私は若すぎた」と、今でこそ彼は言います。「大人にならないうちに、その世界を知ることになった。不覚だった」。

 チャーリーの刺激物への欲求は、1932年から早くも始まります。これは、次に1935年に芸人仲間が彼に新しい刺激物を勧めて、より深刻な転換点になることにつながるものでした。ある朝、気分が悪くなって目が覚め、何故だかわからずにいた直後のことでした。パニックが起きました。彼の11年間の人生は引き裂かれ、取返しのつかないものになりました。

 「何が起きたのか、わからなかった。……突然のことだった。私はまわりの人間からカモにされたのだ」と、彼は語ります。「ハイスクールの連中は、何もわかっていなかった。わからないままそうしているうちに、人生の最も大切な歳月、クリエイティブな可能性のある歳月は失われていくのだ」。

  「自分がそういう歳月をどのように過ごしたかは、わからない。私は、怒りやすくなり、他人に厳しい冷淡な人間になった。私は、いつもパニック状態だった。服も住むところもなかった。昨年西海岸を出たときも、どこにも住むところがなくて、ようやく誰かが私を改造したガレージにかくまってくれた。ストレスは、どんどんひどくなっていった。最悪だったのは、西海岸では誰ひとりとして私たちの音楽が理解できなかったことだった。彼らは私たちの音楽が嫌いだったのだよ、レナード。どれほどニューヨークが恋しかったことか、どこから話せばいいかわからないほどだ」。

 レコーディングセッションのあと、事態は最悪に達しました。そのセッションで、チャーリーは不安定な精神状態の兆しを見せていました。その晩、彼の精神状態は完全にコントロールが利かなくなりました。その後の数日のことは何も思い出せませんが、彼はダイアルレコードのロス・ラッセルが取り計らってくれたことに感謝しています。

 ラッセルのおかげで、当局はヤードバードにカマリロへの収監を言い渡します。しばらくすると、そこで肉体労働を与えられ、彼は心身ともに子どものとき以来なかったような健全な状態にまで回復します。

 すっかり良くなって退院したチャーリーがまず考えたことは、ニューヨークに行くことでした。「私が西海岸を離れるとき、ビリー・バーグズではバンドが演奏していたよ。誰かがバスサックスを吹き、ドラマーがテンプルブロックとライドシンバルを叩く音が聞こえていた。ニューオーリンズスタイルの昔のジャズだった。客たちのお気に入りだった。これで、ますます頭が変になった」。

 今日のチャーリーは、かつての悪夢の時代には決してなかったような情熱と野心を背負っています。彼は、何からも影響されていないときにこそベストの演奏ができると断言します。(このことは、すばらしいミュージシャン誰もが、早晩認めるところです。)彼が気の毒に感じるのは、「誰かが何かをうまく演奏をしているから同じように演奏すべきだと考えて、自分もすばらしく演奏しよう」と考えるミュージシャンでした。

 彼はまた、人生をより重要なものにしてくれそうな友情にも出会いました。彼の良き友人であり優秀なマネジャーでもあるビリー・ショウのことを彼に尋ねても、彼は何と言って感謝を表現したらいいかわからないでしょう。「本当にすばらしい男だ。それがすべてだ」と、彼は言います。

 チャーリーはパニックの時代に2度結婚し、カンザスシティで自分の母親と同居している最初の妻との間には9歳になる息子がいます。2番目の妻とは別れました。彼の母親はチャーリーに言わせれば、誰よりもすばらしい女性です。「ショービジネスに関わりのない彼女はただの母親だが、私には本当に母親そのものだよ」。彼の父親は、すでに亡くなっています。チャーリーが幼いころの家庭生活は決して不幸なものではなく、道を踏み外すということとは無関係な幼少時代でした。

 既述のとおり、チャーリーはある農場で何週間もかけて周到な準備をしていました。彼は一緒にやる52丁目のすばらしい仲間ふたりを説得したいと考えていました。ドラマーのマックス・ローチとピアニストのバド・パウエルで、ふたりともチャーリーと同じような経験を持っていました。その農場はフィラデルフィア郊外のウィロー・グローブ・パークの中にあって、パウエルの母親の所有地です。バードは戻ってくると、スモールバンドを結成してコンサートを行ないました。「ビッグバンドでは限界があった。コンボの方が、もっと多くのことができたよ」。

 彼は並行して、ジャズ以外のことも述べています。「シェーンベルクを聴いたことがあるかな? 彼は、女優が朗読するドイツ語の詩に合わせて五重奏を演奏しているのだが、すばらしい作品だ。『プロテウス』という作品だったと思うよ」。

 そして、話はクラシックに及びます。「ドビッシーの『子供の領分』は聴いたかな? これこそ、まさに音楽だよ!……ドビッシーとストラビンスキーは、私の大好きな音楽家だが、ショスタコーヴィチも好きだし……ベートーベンも好きだよ。今日では当たり前のことが、音楽家にはとても残酷なことだった。ベートーベンは死の床にあったとき、拳を天に向けて突き上げたと言われている。彼が理解されることはなかった。彼が生きた時代に、彼の書いた作品はひとつも高く評価されることはなかった」。

 チャーリーは、ジャズの世界では、セロニアス・モンクのことを、今日ビバップと呼ばれているものの一要素となった多くのコードチェンジへの貢献者としてレスペクトしています。しかし、バードはこうも言っています。「ビバップと呼ぶのはやめて、音楽と呼ぶことにしよう。人々は何年もの間ジャズを聴き慣れてきたが、そのようなとき誰かが『違うことをやろう』と言い、新しいアイデアが出て変革が始まった。すると、人々はこれにビバップというレッテルを貼って潰そうとしている。しかし、異論の余地はないと思うが、同じ構造がジャズの置かれているポジションそのものにも当てはまるのだ。単なるスタイルの違いでしかないのだ。ジャズは誰かが発明したものだとは思わないよ。私はニューヨークに来る前から、何年も同じスタイルで演奏してきた。スタイルを変えることを意識したことはないな」。

 今日的なスタイルのミュージシャンの代表格として彼が挙げるのは、ソニー・スティット、ファッツ・ナバロ、そしてマイルス・デイビスです。また彼は、カーリー・ラッセル、チョコレート(ベーシスト)、バド・パウエル、そしてモンクについては、「オリジナリティ」を追求する存在だと指摘します。  彼の好きなアレンジャーは誰でしょうか。彼の答えは、こうでした。「ジミー・マンディ、……それに、カルビン・ジャクソンだ。ジャクソンはMGMのアレンジャーで、自ら演奏もしている。……それにラルフ・バーンズだ。3人ともディジーのビッグバンド、そしてもちろんディジー自身にもアレンジを提供している」。

 彼自身のレコーディングに関しては、チャーリーは、こう語っています。「まだ満足のいくものは、全然できていないよ。いつかはと思っている」。彼はニューヨークに戻る前に、レコーディングセッションを2回ダイアルに行ないました。ひとつは馴染みのないグループとのもので、彼にはあまり満足のいかないものでした。しかし残りの方は、エロル・ガーナー・トリオとのもので、彼は上々の出来だったと確信しています。

 26歳になったチャーリーが思うことは、これからの新しい人生がすばらしいチャンスをいくつももたらすだろうということでした。何よりもまず彼がしたいと思っていることは、農場で肉体労働をたくさんするということでした。理由を尋ねると、「太りすぎたからね」という答えが返ってきました。そのあと彼がしたいと考えることは、たったひとつだけでしょう。その考えは、これまで彼の影響を受け、これからも彼を指針とするかも知れないすべてのすばらしいミュージシャンの間に浸透することでしょう。その考えとは、こういうことです。

 「さあ、音楽をやろう!」


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