1950年11月、やり手のショー(ビリー・ショー)はスウェーデンに一週間の駆け足旅行という目先の変わった 仕事を持ち込んだ。ロイ・エルドリッジが並んでフィーチュアされると言う。それぞれ、スウェーデンの演奏 家を相手にアメリカのジャズを披露するという趣向だった。行き先の寒さを考慮して新調したハリス・ツイ ードのコートを着込み、チャーリーはSASの飛行機で北欧に旅発った。(「バードは生きている」草思社 池 央耿訳から)
ここからは、Martin Westin 氏のブログ、" Charlie Parker in Sweden "(2007.07.08)
からの引用となります。
Martin Westin 氏は、" Orchestra Journal "への寄稿者で、
スウェーデンのジャズ史の
ためのグループの秘書です。
スウェーデンのジャズ雑誌「エストラード」の発行者、ニルス・ヘストロムがこのコンサートの後援者である。 彼は長い間スウェーデンにチャーリー・パーカーを連れて来ようと腐心していたが、ようやくパーカーのため にスウェーデン旅行を手配することが出来た。パーカーのエージェント、ビリー・ショー・アーチストとの交 渉は大変だったようで、ファースト・クラスの往復航空券代金785ドルに加え、ギャラは1,000ドルを請求され、 彼はためらったがその条件をのみ、短期間で契約し実現した。 この契約書のコピーはジャズ博物館に保存されているという。当時のレートは、1ドルは5.18クローナで、パ ーカーは5,180クローナを得たことになる。しかし、この半額は前もってニューヨークのエージェントに支払わ れていた。ストックホルムに残された2,590クローナは、11月19日の到着時に865クローナと22日、26日と3回 に分け支払われた。
1950.11.19 Sunday Stockholm
11月19日、ストックホルム近郊のブロンマ空港に降り立ったパーカーは、スウェーデンのミュージ シャンや評論家、ジャズ愛好家達の熱狂的な歓迎ぶりに大変驚いたようだ。ストックホルム中心街にあるStureplan 広場の近くにある、ホテル・プラザにチェックインした。パーカーは到着時に貰った865クローナを懐に、その日 はプログラムが無かったため、トランペット奏者ロルフ・エリクソンを誘いニルス・ヘストロムに勧められた、 街で最も高級なレストラン、“バーンズ・サロンガー”で最も高価な食事をしたそうです。 最も高価なアイテムは10クローナで、当時の男性店員の1ヶ月の給料は平均507クローナ、女性店員は340クローナだったという。
1950.11.20 Monday Stockholm
concert program
concert program back [Mr. Norman Saks]
到着翌日の月曜日11月20日、コンサートはストックホルム繁華街の大きなホール、"コンセルトフセット"
で行われました。切符の売れ行きも良く、二回の公演を行った。パーカーは「オーケストラ・ジャーナル」誌へ寄稿
しているミュージシャン、カール・エリック・リンドグレンとドラマーのジャック・ノレンと共に
“スチューレバデット” というサウナに行き、その後、夜の二回の公演のためコンサート・ホールでリハ
ーサルを続けた。この大きなジャズ祭のスタートは、ピアニストのチャーリー・ノーマン指揮のスウエーデンのスウィング
・バンド。さらにこのグループにロイ・エルドリッチが加わり演奏。休憩の後新しいグループ、アルトのアルネ・ドムネラ
スのグループで、ロルフ・エリクソン(tp)、ロルフ・ブロムクヴィスト(ts)、ラース・ガリン(bars)、グンナール・ス
ヴェンソン(p)、イングヴェ・アケルベルイ(b)、ジャック・ノレン(ds)の面々。3番目に登場したパーカーは、エリクソン、
スヴェンソン、アケルベルイ、ノレンのクインテットで演奏。Anthropology, Cool Blues, Cheers, Loverman, Stupendous
の5曲を演奏した。
(注) この5曲は1回目か2回目かは不明で、さらにこの演奏は録音されたかどうかも不明です。
コンサートの後、パーカーとロイは、ストックホルム・ジャズ・クラブのメンバーと、食事と飲み物
が待つ、オールドタウンのレストランで、ジャズ・クラブの“van der Lindeska valven”
に行く。大人気のパーカーには、盛大に料理が運ばれ、ピルツエン・ビールやワイン、スウエーデッシュ・シュナップスは飲み放題
だった。食事の後はジャム・セッションが始まり朝4時まで続いた。
(注) 参加メンバーは、Roy Eldridge, Leppe Sundewall(tp);Charlie Parker(as);
Lars Gullin(bs);Rolf Larsson,Reinhold Svensson(ラインホルト・スヴェンソン)(p);Yngve Akerberg,Simon Brehm(b);
Jack Noren(ds)でしたが、この時の録音の存在も不明です。
しかし、パーカーがその晩オールドタウンの地下に消えたことについて、ナレン(ストックホルムのダン
スとジャズの会場)のマネージャー、トプシー・リンドブルムは大変不満に思っていた。ストックホルムを訪問する音楽家は必ずと言っていい
ほど、このナレンで無報酬で演奏していました。トプシーは、パーカーが来ることを確信して、前日の朝刊
“Dagens Nyheter”に大きな広告を出していた。“コンサート・ホールのチャーリー・パーカー。ナレンの新
しいオーケストラの同時デビューは、スウエーデン・オール・スター・バンド。Rolf Ericson , Rolf Blomquist
(ロルフ・ブロムクヴィスト) , Arne Domnerus , Lasse Gullin , Gunnar Svensson , Yngve Akerberg and Jack Noren
達です。我々は、月曜日の夕方の ジャムセッション のために彼が来ることに期待しています。” と。
(注) ナレンの最近のHP
http://www.nalen.com/
ナレンには、パーカー目当てと、そうではない人達が大勢集まりました。拡声器は、まもなくパーカーが到着しますと、がなり立 てていましたが、とうとうパーカーは現れませんでした。トプシーは、何としてでも損害を取り戻そうと考え、ニルス・ヘストロム に交渉し、契約しなければと結論を出した。しかしパーカーの滞在最終日の少しの時間しかなかったのですが、有名人の来訪を実現 のため、支払いは強制されたが合意に達した。
スウエーデンの2つのジャズ雑誌、「エストラード」と「オーケ ストラ・ジャーナル」の彼らのコンサート批評は大げさだったようです。日刊紙の多くの批評家はポジティブだったよう だが、スウエーデン人の虚栄心は認められた。日刊紙“Dagens Nyheter”の“today's news” は、「コンサート・ホールでの30歳の黒人は驚異的なアルト・サックス奏者であると報じ、しかし昨夜の成功の主な理由は、リスト で一番のアルト・サックス奏者アルネ・ドムネラスとトランペット奏者ロルフ・エリクソンと何人かのスターのソリストから成る新 しいスウェーデンのオーケストラの導入でした。」と報じた。
「そこで、チャーリー'The Bird’が登場し、強烈なビー・バップ音楽のフレーズを滝のようにどっと吐き出した」と 夕刊紙"Aftonbladet"の記事です。
「彼は驚くほど元気で、特に、二回目のコンサートの間、全力疾走するように次々に演奏した時、観客が歓喜するあまり、演奏会
場が倒壊しそうなくらいであった」とも言った。
日刊紙 "Svenska Dagbladet" は、「この Charlie Parker という人物には考え(信念)がある。だから、猛スピードで演奏ができる
のだ。また、ほとんど常に実にすばらしい演奏をする。だが、それは、青少年の調和とバランス感覚を向上させて、この種の音楽を多
く聴くようにすすめているわけではない」と書いている。
1950.11.21 Tuesday Gothenburg
11月21日(火曜日)は、彼のツアーバンドのミュージシャンと一緒に Gothenburg (ヨーテボリ)行きの電車に乗っていました。
彼らは、トランペットのロルフ・エリクソン、ピアノのグスタ・テセリウス、ベースのトーレ・ジェデルビーとドラムのジャック・
ノレンだった。ジェデルビーはツアー・マネージャーであり、アルネ・ドムネラスもグループの一員でした。ツアーのコンサートは
ドムネラスと他のスウェーデン人で始まり、休憩の後、パーカーは、ドムネラスの代わりに入りました。また、ロイ・エルドリッジ
がチャーリー・ノーマンと共演した2つのコンサートが、ヨーテボリのコンサート・ホールで行われました。
(注) この時の演奏も録音されていたかどうかは不明です。
ヨーテボリを訪問したピアニストのチャーリー・ノーマンは、パーカーがウオーミングアップ・ルームでロイ・エルドリッジの歌に 参加し、“サタディー・ナイト・フィッシュ・フライ”を演奏していたと、語った。そこにいた熱狂的なビバップ・ファンは、パー カーがそのようなスイング曲を知っていることに驚いていたようだ。
パーカーがウオーミングアップ・ルームでサインをしている1分の長さの16mmの無音フィルム・クリップが存在します。それは当時
16歳で後にスウエーデン・テレビのカメラマンとなった、ボ・タクによって撮影されたものです。
(注)
[BIRD LIVES...] BO TAK GALLERY
http://www.birdlives.co.uk/index.php/component/option,com_zoom/Itemid,134/
http://www.botakphotogallery.com/english.html
(注) このサインをしている映像の一部が、1991年9月発売の "Celebrating Bird / The Triumph of Charlie Parker" (VHS ビデオ・VAVJ-286--KK ビデオアーツ・ジャパン) の中に、ボーナス・トラックとして収録された、"A film by Francis Paudras" で見ることが出来ます。後にDVDで発売された同タイトルのものには、収録されておらず、このVHSテープでのみ です。( "A short filem with Charlie Parker and Miles Davis" その一部を右部分でご覧ください。1分40秒 )
日刊紙"Goteborgs-Posten"の記事は、「Charlie Parker は、アメリカで育ったアルトサキ ソフォン奏者の最高峰の一人であることは疑う余地がない。彼の技巧は名人芸の域まで達している。そしてかつて殆ど聞いたことが ない音色を持っている。しかし、これらの熟達した音楽家なら演奏できると思っていたスーパー・ジャズを想像していたので、その 音楽を聞いた時、時間を無駄にしてしまったと真に悔んだ。その宵が、このような延々と上下するだけの薄片の連続ではなく、プロ グラム通りの伝統的、いや、本物のジャズであったなら、一定の利益を還元することができただろうに」と書いた。
" Goteborgs Handels- & Sjofartstidning "は、パーカーの無限で豊かな革新性とブラインド・テクニックを称賛した。この新聞 はまた、「Rolf Ericson がトランペット・パートを驚異的な見事さで担当したが、彼の立位置からしてダイナミックな黒人と比較 されると、青白く見えてしまう」と思った。と書いた。
1950.11.22 Wednesday Malmo --- Lund
11月22日(水曜日)、メンバーはマルモ行きの電車に乗っていました。その日の夕方、数千人が集まったマルモの
“アミラーレン・ダンス・ホール”で演奏しました。 メンバーは、Arne Domnerus (as)、 Rolf Ericsson (tp)、
Gosta Theselius (p)、Thore Jederby (b)、 Jack Noren (d) にバードです。ダンス音楽は真夜中まで続いたという。この日の演奏の
一部は録音され、スウエーデンのレーベル、“オクターブ”ほかいくつかのレーベルで発売されました。
(注) Promote Articles Art Page の Charlie Parker - The Bird によると、Erik Hellborg
がワイヤー・テープ・レコーダーで録音したとなっている。
コンサートの後、若い法科学生 Bjorn Fremer は、ジャムセッションのために近くの大学の町ルンドへ行くよう、パーカーを 説得することに成功した。
Fremer と彼の友人、パーカー、ノーレン、テゼリュウス、ドムネラスとエリクソンの数人は、大学の文化会館アカデミスカ・フォレニ ンゲンに向け2台のタクシーに乗りました。
Lars Terje は、そのときの参加者で、現在は引退した地方検事の1人だが、" 数人のジャズの熱心な人に起こされ、呼び出された のを思い出します。彼らと一部の仲間は、サンドイッチと1本のスウェーデンのアクアビット を手配しました。" と語っている。
ジャム・セッションが行われ、スウエーデンの演奏家達はやがて発想が尽き、順々に抜けパーカー一人が残り延々とインプロヴィゼ ーションを展開した。 (この時の演奏も録音されたかは不明です。)
その後、その学生 Bjorn Fremer はパーカーに、「ありがとう」と、手紙を渡しました。
「貴方が我々音楽好きの数人の学生と、昨晩を過ごしたことは、素晴らしい夢であると皆は思います。我々は、貴方が我々の一人と
同じように、それほど人間的だとは思いませんでした。天才でスター、であるがゆえにです。
あなたの演奏、あなたの話、あなたの素晴らしい微笑、あなたの幸せの叫び、あなたが私とそして、たくさんの他の人達に、人生で
最も幸せな瞬間を与えてくれました。」
パーカーは長い間その手紙を保存していました。そしてそれはチャン・パーカーとフランシス・ポウドラによって発行された
「to Bird with love」(1980年発行) の211ページ に掲載されました。
マルモの新聞は、すべてポジティブでした。"Skanska Dagbladet" の見出しは、「Amiralen のチョコレート・ブラウンのビーバップ王」というものでした 。 夕刊紙"Kvallsposten" は、「チャーリー・パーカーとスウェーデンのジャズのエリートのた めの成功 」と述べました。 記者がパーカーに、アルネ・ドムネラスをどう思うか尋ねると、ウインクをして「彼は、私と同じくらい に良いね」と答えた。
1950.11.23 Thursday Copenhagen, Denmark
11月23日(木曜日)は、海峡を渡ってデンマーク入り。コペンハーゲンの "K.B.ハーレン"で 大規模なコンサートに出演した。
ホテル・コスモポリタンに宿泊したパーカーのもとに、デンマークのジャズ研究者エリク ・ウィーデマンが訪問した。短い面談でした が、エリクは、ダイアル・レコードに残された Klacto - veeseds - tene の曲名について質問したが、パーカーはそれはただの名前だ と答えた。また、ウイズ・ストリングスの録音にいぶかりました、というと、パーカーにとってこれらは大部分が商業的な問題だ、と 答えた。
二つのコンサートの入場者は少なかった。ホールの半分が埋まる程度でした。このコンサートは大きなスカンジナビアのお祭りでした。 パーカーとエルドリッチに加えて、トランペット奏者 Jorgen Ryg のいるレオ ・マチーセン ・オーケストラ、デンマークからのヘルガ ・ヤコブセン・ジラフ・トリオ、トランペット奏者ローランド・グリーンバーグと一緒のノルウェーからの the Lasse Gerlyng Ensemble と現在 Estrad - Orkestret として 名をつけられるスウェーデンのグループで観衆はもてなされた。 スウエーデンのグループが単独で演奏、それにエルドリッチが参加し、パーカーは3曲に参加した。その後全てのミュージシャンが参 加し、ジャムセッションとなった。(この時の演奏も録音されたかどうかは不明です。)
デンマークの日刊紙"Berlingske Tidender"は、スウェーデンのグループを称賛して、才能のあ るソリスト、アルネ・ドムネラスとロルフ・エリクソンを、夕方のスカンジナビアのオーケストラから上げられると考えました。パーカ ーは全てから明白な評価を受けた。
Nationaltidender は、ビ・バップ王のその素晴らしく丸いビブラートによる表情豊かな楽器の音を、ホールの一番遠い隅に届かせた時、 観客の息が止まったと書いている。 これは、本当にビー・バップでした。建物の構造物さえ含めて全てがスイングしていた。しかし、夕方のメイン・アトラクションに もかかわらずパーカーは3曲のみの演奏であったため、新聞は失望していた。
K.Bホールを出たパーカーは、デンマークの歌手グループ、"ゴットリーブ・クインテット" に会った。彼らはディレクター Gorgen Gottlieb によって書かれた、“パーカーに拍手”を歌った。パーカーは感激し、シャンペンを ご馳走するためホテルに来るよう誘った。 彼らが帰る時は、翌日の昼食も一緒にと誘った。
その後、『Yhard Bhurd 』という名前で、1週間のメンバーになるため 5クローナを支払った、ナイト・クラブ「アドロン」へ出かけ ました。
トーレ・ジェデルビーが語る。「そしてパーカーは、デンマークの若い子がいる、ラブリー・ハウスに向かった」と。ジェデルビーは、 どうやら連夜の冒険後の彼に、金曜日朝早く彼らが朝食を取りに行った Hotel d’Angleterre の正面で会った。そして彼らは休息のため、 Hotel Cosmopolite に戻った。
1950.11.24 Friday Helsingborg
11月24日金曜日、パーカーは、ホテルでゴッドリーブ・クインテットを昼食に誘いました。他の客は、ニルス・ヘストロムとデンマー ク人の写真家ヘルガ・マスでした。
昼食の後に、クインテットは宴会設備でチャーリーのために、いくつかを歌いました。パーカーは感激して、彼は、即座に、クインテ ットが、米国とヨーロッパで彼が聞いた何ものをも、凌いでいたと述べた推薦状を書きました。ヘストロムは自分の雑誌「Estrad」に その推薦状を掲載した。そしてトプシー・リンドブルムは、そのクインテットをナレンで歌って貰おうと誘いました。その結果彼らは スウエーデンでの長いギグに至ったという。
その日午後パーカーとスウェーデン人はスウェーデンに戻りました。そして、ノルウェーのトランペット奏者
ローランド・グリーンバーグを彼らと一緒に連れて行きました。
夕方、2つのコンサートが予定されている Helsingborg (ヘルシングボルイ)のビア・ガーデン兼ダンスホールの
"フォルケッツ・パーク" へ行きました。
コンサートの前に、パーカー、ジェデルビー、ドムネラスと数人は、映画を見に行きました。 アルネ・ドムネラスは、以下の通り記憶して います: 「J・チャンドラーがアパッチ族の酋長として出演した『ブロークンアロー(折れた矢)』(1950年)という映画を見まし た。 映画の中で、チャンドラーは人種差別をめぐる長い論争をします。 そして、Bird は最初から居眠りをしていた。人々に囲まれ るとき、彼は常にとてもリラックスしました。 それで、彼は寝入ってしまい、バンドを負かすような大きないびきをかきました。 しかし、その映画の中の論争で大声を出したとき、彼は起きました。 そこで、他の観客は、黒人を追い出すように我々に言いました。」
肯定的な論評は、ヘルシングボルイ公演の後も続きました。
日刊紙 "Helsingborg Dagblad " に記者は書き込みました:
「スウェーデンのバンドは夕方からスタート、“ファイン・アンド・ダンディ” からコンサートを開きました。そして、何人かの他の
アーチストにあったような、過剰に売り込むという考えではなく、パーカーと他のすべての演奏者は、自分たちは評判通り良いというこ
とをここで証明しました。」
パーカーの自身のコメントは以下の通りでした:
「スウェーデンは、世界で最高の国です! 私は、他のどこにもこんなによく受け入れられませんでした!」
"Skanska Socialdemokraten " に彼は意見を述べた。
「私がスウェーデンにとどまることができるかどうか想像してください。私は、これらの数日の間にあなたの国が本当に好きになりま
した。 可能性を得るとすぐに、私は戻って来ます!」
ヘルシングボルイ・コンサートは、メタル・ワイヤー・レコーダーで記録されました。コンサートの後、ジャム・セッションが公園の レストランで行われました。これも同様に記録されました。そして、両方の記録は後にリリースされました。
1950.11.25 Saturday Jonkoping
11月25日土曜日、さらにもう一度のワン・ナイト・スタンドがありました。ローランド・グリーンバーグを連れて Jonkoping (ヨンシ ョーピング)に向け電車に乗りました。その夜2,800人のリスナーのための、スポーツ・ホールでのコンサートでした。 このコンサートのトランペッターはローランド・グリーンバーグであると、 "The Smalands Folkblad" は報告している。 ロルフ・エリクソンは、彼の唇(おそらくパーカーとプレーしている6日間の激しいバップの後、あまり驚くべきでないが ) に問題を抱えていたようです。言い換えると、ローランドは、ロルフに夕方の休みを与えるために入りました。
パーカーが、その夜のステージに近づく直前に、姿を消したという。トーレ・ジェデルビーによると、しばらく探していると、彼 がボーリング場にいて、ピンをセットしていることが分かった。
しかし、アルネ・ドムネラスはそれを異なって覚えています。パーカーは、シュナップスを飲むまで、ステージに近づくのを拒否した。
と述べている。 スウェーデンのエルサレムとして知られている都市の土曜日の晩に、それを手配するのは簡単なものでありません。
ついにジャーナリストをレストランに送って合法的に入手し、テーブルの下のボトルの中にそれを注いで、スポーツ・ホールに急
がせた。
そして、聴衆にパーカーを紹介するのは、最終的に可能でした。 彼は夜に入って、ダンスの間、数曲をバンドと共にプレーしました。
パーカーのインタビューの後、地元紙の" Smalands Folkblad" は、タイトルを「有名な黒人」
とし、彼の絵をフロントページに印刷しました。
パーカーへのインタビューでは「私が生きてる限り、バップ音楽は死にません!」というコメントでした。「それに関しては、
バップ音楽に、取り組み続けている多くの他の音楽家がいます。私がアメリカに戻ると、私自身でそれをします。
ビー・バップが消滅しかかった傾向であるという議論は、いいかげんな話です...。」 「私はちょうど今いくつかの録音をストリング
のセクションで録りました、しかし、それはバップを展開することの一部でありません。それは、それらの録音が、商業的にうま
くいくことを確認するためのものです。」
スウェーデンのミュージシャン達と、スウェーデンで演奏することについてどう感じたか?という質問に、彼はこう答えた。
「どこへ行ってもニューヨーク精神を感じることができたよ。たとえヨンショーピングのステージに立っていても52番街の我が家
にいるようだった。スウェーデン人、そしてノルウェー人であるローランド・グリーンバーグというミュージシャン達はとても素
晴らしかった。今回のツアーは今まで受けてきた仕事の中でも最高でした。」
パーカーはスウェーデンについて言葉では表現しきれない時、手(ジェスチャー)をまじえて語っていたよ。 彼の表現の仕方はまるで床から天井いっぱいを使うほどの動きで、最後に彼はキスを投げていた。
その週、パーカーの調子は良かったんだけど一緒に演奏するのは大変だったかもしれない。
アルネ・ドムネラスはそのことについてこう説明してくれた。
「実はバードは若干の浮き沈みがあったんです。まあ、彼に休まる時がなかったことを理解してほしい。
夜になると彼はイライラしてしまって、一人では眠れなかった。
もしかしたら私達のドアを一晩中たたき続けていたかもしれない。
だから幾晩かは、座っておしゃべりをしていたよ。
今までの自身の経験やアメリカでの生活などを話すとき、彼は大抵オープンに語ってくれた。
白人にどんなにひどく扱われていたかもね。
一緒に演奏していると、彼は時々、私達が彼を支配していると感じてイライラしてしまうこともあった。
でもしばらくすれば仲直りするんだけどね。」
1950.11.26 Sunday Gavle
11月26日(日)早朝。まだ暗くて寒い。列車が Jonkoping (ヨンショーピング)を出る前に、一行は駅のレストランでコーヒーを飲 んだ。パーカーは「君の笑顔にね」と言いながらウェイトレスにチップをはずんだ。
一行は Gavle (イエブレ)行きの列車に乗り込んだ。そこで「8時きっかり、人民広場で」という宣伝文句のツアー最後のコンサート が開かれる。 ローランドはオスロ行きの汽車に乗った。途中パーカーとジャック・ノレンは食堂車に行った。
ある地点で列車が向きを切り換えた。ドムネラスとジェデルビーが窓から外を見ていると、反対側の列車にいるパーカーとノレンが見 えた。その2人はやっとストックホルムに到着し、そこでニルス・ヘルストロムを呼び出し、渋る彼に無理やり頼んで Gavle まで運ん でもらった。
コンサートの開演は遅れたが、地元新聞 " Arbetarbladet " によれば、それは大成功を収 めた。『巷では Bird が翼を失い、単調で商業的な演奏スタイルに成り下がってしまったという噂が飛び交っていた。しかしそんな噂 はすべてただのたわごとにすぎないということがパーカー自身の反論(実際の演奏ぶり)で証明された。しかし、コンサートの成功は パーカー一人だけの力によるものではなかった。スウェーデンの優れた音楽家たちが音楽的な背景や枠組みを力強く支えてくれたおか げだったのだ。』
1950.11.27 Monday Stockholm
11月27日月曜日に、グループはストックホルムに戻りました。 契約では、パーカーは、この日ニューヨークに戻るはずでした。 しかし、ニルス・ヘストロムはその晩ナレン出演を彼と契約していたので、パーカーは余分にストックホルムに泊まることになりました。
トプシー・リンドブルムの広告は、以下のようでした。: 「今夜はナレンの聴衆が先週の月曜日に逃した感覚を共有する可能性 があります。 誰でも歓迎です! マフィア・スタイルの誘拐犯を除いて! 賢いファンは、11時過ぎに。」
その日ニルス・ヘストロムは、残りのパーカーへの支払い金の精算をした。ホテル経費とシャンパンのチェックすることを含む最終的な会計
をしました。
それで、わずかに残った 55クローナがパーカーに渡されると、悩んでいるベース奏者のジェデルビーでした。
しかし、チャーリーはコメントなしにお金を受け取って、メッセンジャーに感謝して、心から笑いました。
金額は非常に少ないようです。しかし、スウェーデンの給料ともう一度比較するならば、店員の10分の1以上の月給と一致しました。
パーカーはカール・エリク・リンドグレーンとスウェーデンでの彼の最後の午後を過ごしました。そして、 夜は
Putte Wickman (P・ウィックマン)のバンドがプレーしているナレンに、彼は約束
通り現れました。トゥーツ・シールマンスも、その場にいました 。
ナレンの夕方のイベントと、それに続いた夜は、ウィックマンのドラマー、 Sture "Stubben" Kallin
によってこう述べられている。
「パーカーは『アンソロポロジー』から始めたんだが、俺はあんなぶっ飛んだ経験、後にも先にもしたことがなかったよ。」
「その日は、カリビアンの黒人ジャズ・バンドもナレンで演奏したんだ。そのバンドのリーダーもやっぱりドラマーで、名前は
cab Kaye (キャブ・ケェイ)。奴はパーカーが奴のバンドで演奏するべきだ、と感じてたらしく、
二、三曲終わったところで、俺のところまで来て、演奏したい、と言い出したんだ。」
「でも、俺は一生に一回のパーカーとの演奏をしてる訳で、奴に言ったんだ。『失せろ』ってね」。
「で、仕舞いには、奴がステージに上がってきて、俺のことを突き飛ばしたんだ。その騒ぎでジャムセッションはおじゃんになったさ。」
「そのあと、ウオームアップルームでも奴は俺を襲ってきやがった。俺たちは互いに罵り合って、俺は奴の首を絞めてやった。トプシー
(ナレンのマネージャー)が止めに入ってくれて、俺たちは離れたが、俺はケェイに『ソーリー』て言ったよ」。
「その後、パーカーが俺と話をしたいと言ってたんだが、結局、パーカーのホテルの部屋に、リンドグレーンとサイモン・ブレームと Leppe Sundevall も付いてきた。午前四時ごろ、俺らはナイトカフェに行って Falu ソーセージ(falukorv)を食べ、ライトビールを幾 らか飲んでから、キャブ・ケェイのホテルに行き、奴を起こした。パーカーはものすごい剣幕でナレンでの態度を罵った。それから、 パーティーは午前中続いたんだ。」
1950.11.28 Tuesday Stockholm - Bromma Airport
11月28日火曜日、パーカーはスウェーデンを出発する日でした。
彼が直接ニューヨークに帰る代わりに、パリへ行くための飛行機に乗るブロンマ空港に、カール・エリク・リンドグレーンと
Leppe Sundevallは彼と一緒に行きました。
彼はフランスの首都で混沌とした週を過ごしました。しかし、それは他の物語です。
今まで一週間の旅行と言われていた、スウェーデンのパーカーの滞在は11月19日から28日まで続いたことを確認ことができました。
スウエーデン公演にはこんなエピソードも残されている。---バードをはじめ大勢のミュージシャンを乗せた自動車が田舎道を走って
いた。そのとき誰かがバードに「牛も音楽が好きなんですよ」と言った。するとバードは運転手に自動車を止めるように頼み、サッ
クスを組み立てると畑の中へ足を踏み入れた。そして、牛に向かってまるでダンスの相手を頼むようにうやうやしく頭を下げた後、
モダン・ジャズをほんの少しばかり吹いて聴かせたという。
この話は、ルンド大学の法学生 Bjorn Fremer が話したという。彼はパーカーをルンドに向かって、車に分乗して連れて行った時のこと、
マルモからルンドに向かう途中の、Arlov、Lomma、という農業地帯を通過したときであろう。
Martin Westin の記事では、自動車のラジェターの水を補給するため、とある農場に立ち寄ったとき。としている。
さらに彼は、ジャズの研究者のためのさらなる記念と、ほら話がジャズの世界でどれくらい簡単に広がったかという証明として、牛の
ためにプレーしているパーカーについての話が、ジャズの歴史でケン・バーンズのテレビ・シリーズで出てきた点に注意すると、
面白いです。
ノールウエイのトランペッター、ローランド・グリーンバーグによれば、パーカーは、悪魔のように止まるところを知らずに 吹き続け、絶えず夥しいシュナップスを喉に流し込んだ。当時スウェーデンではアルコール飲料が厳しく制限されていた。 彼が飲んだ大量の酒はあちこち手をつくして調達された闇の酒だった。(「バードは生きている」草思社 池 央耿訳から)
グリーンバーグとリンドグレンが空港に彼を見送った。最後の三十分、彼らは空港のバーで、つきぬ思い出を語り合って名残を
惜しんだ。出発便の案内が響いた時、三人はまだ笑い合い、冗談を飛ばし合っていた。搭乗ゲートでリンドグレンはチャーリーを
抱いて言った。「オルヴワール、チャーリー。もちろん、知っているだろう。これは、また会う日までと言う意味だよ。本当に、
近いうちにまた会いたいと思っているよ」
チャーリーはふっと真顔になった。彼はリンドグレンの目をじっと覗き込み、深刻な声
でゆっくりと言った。「駄目だよ、カール。ぼくたちは、もう二度と会えない」彼はサキソフォン・ケースを取り上げ、後をも見ずに
機上の人となった。スゥエーデンでの幸福な一週間は、遂に生涯、二度と彼に訪れることはなかった。(「バードは生きている」
草思社 池 央耿訳から)
パーカーはニューヨークに戻って胃潰瘍が再発し、しばらくメディカル・アーツ病院に入院したが、多分スウェーデンで気持ちよく 飲み過ぎたのではないかと思われる。パーカーのスウェーデンの演奏は、多くのファンやミュージシャンを熱狂させたにもかかわらず、 パーカーが去った後、ミュージシャンたちのプレイにほとんど影響を与えなかったという。これについて Lars Werner (注:ソネット 原盤のライナー・ノート著者)はいう。 「もうクール時代は始まっていた。ウディ・ハーマンの《アーリー・オータム》、スタン・ゲッツの《イエスタディズ》、マイルス の《ゴットチャイルド》、トリスターノの《ワウ》がスウェーデンでは人気の的だった。当時のスウェーデン・ジャズを聴くと、そう した影響がパーカーの来演よりもずっと大きな影響を残していることがよくわかる」 確かにそうだ。50年代初頭、スウェーデン・ジャズはプレスティッジを通じ世界に紹介され、絶賛をあびたが、ウエスト・コースト 的(つまりクール・ジャズ的)であったのがひどく印象に残っている。それはフランスのモダン・ジャズがよりイースト・コースト的 であったのと好対照をなすものであった。(ストリービル・レコード日本盤、ライナー・ノート、油井正一氏解説より)
Bird surrounded by Swedish musicians. L to R: Thore Jederby(b),
Arne Domnerus (as), Gosta Theselius(p/ts), Rolf Ericson(tp), Jack Noren(ds).
22 November Malmo session, Rolf Ericson (tp), Charlie Parker (as), Thore Jederby (b), Jack Noren (ds), Gosta Theselius (p) is Out of shot.
2012年2月、マシュマロ・レコードの上不三雄氏から"Orkester Journalen"の'om jazz' を 3冊お借りしました。その中の、ナレンで演奏するパーカーなどの 珍しい写真を紹介します。
(左)1965年3月号 "Parker I Sverige" (スウエーデンのパーカー)
av Rolf Dablgren
(右)1998年10月号 "NALEN" (ストックホルムのダンスとジャズの会場、ナレン特集記事)
2000年12月号
"parker dag for dag" (スウエーデン訪問時のパーカーの日々 − 特集)
Martin Westin氏の記事です。
下の写真は、ストックホルム・コンセルトフセットのステージ写真 に、パーカーがサインをしたものです。
'NORRIS'とあるがそれはアメリカ生まれのドラマー、ジャック・ノレンのようだ。
Roy Eldridge, Bird and Rolf Ericson
Nils Hellstrom owned the Swedish jazz journal " Estrad "
Berns Salonger
“バーンズ・サロンガー Berns Salonger”
ストックホルムのアイコンとも言えるこのバーンズは、ホテルであり、レストラ ンであり、また1886年よりストックホルムのエンターテイメント・シーンに大きく貢献してきた。 フランク・シナトラから、マレーネ・ディートリッヒ、ルイ・アームストロング、最近では、ボン ・アイバー、ボブ・ディランなどのアーティストがこの素晴らしいステージでライブを行ってきた。 スウェーデン語では「バンチ」と言う。
“スチューレバデット Sturebadet”
ストックホルムで100年以上に渡り、最も有名なスパクラブとして知られてきた“スチューレバ デット”。オスカル2世やグレタ・ガルボといった多くの有名人がここを訪れたことで知られている。 この豪華なスパクラブは、1885年医師であるカール・キュールマンが設立した。彼はストックホル ムの人々に、健康のためにエクササイズやプールで泳ぐ機会を提供するためにこのスチューレバデ ットを始めた。
Stockholms konserthus
Concert ticket [Mr. Norman Saks]
In concert at Stockholm's Konserthuset, L to R; Gunnar Svensson (p), Bird, Rolf Ericson (tp),Jack Noren (ds),Yngve Akerberg (b).
van der Lindeska valven
Nalen 1964 Topsy Lindblom 1960
Charlie Norman
Orchestra Journal
News Paper "Dagens Nyheter" evening paper "Aftonbladet"
News Paper "Goteborgs-Posten" "Skanska Dagbladet"
"Amiralen - 40's"
from "Bird's Diary"
アクアビット [シュナップス]
スウェーデンの主な特産品は、醗酵させた穀物やジャガイモから作られる蒸留酒のブレンヴィン("燃えるワイン"の意)
である。アブソルート・ウォッカ(Absolut Vodka)やエクスプローラー・ウォッカ(Explorer Vodka)の様なブランドの
ウォッカは最高級のブレンヴィンであり、低級のブレンヴィンはアクアビットとして知られるハーブで風味をつけられたも
のである。これは通常シュナップス(snaps、nubbeとしても知られる)として伝統料理(特にニシンの塩漬け)と共に小さ
なショットグラス(shot glass)で飲まれる。
"Akademiska foreningen at Lund University"
[To Bird with Love] & p 211, A fan writes from Lund
News Paper "Kvallsposten" "Berlingske Tidender"
K.B. Hallen is a multi-purpose venue in Copenhagen, Denmark.
Gottlieb Quintet
Folkets Park - Helsingborg
Unknown restaurant, Halsingborg [ photograph - Mr. Norman Saks ]
Lennart Nilsson(p),Rowland Greenberg(tp),Gosta Theselius(ts) and Bird
Unknown restaurant, Halsingborg [ photograph - Mr. Norman Saks ]
Lennart Nilsson(p),Rowland Greenberg(tp),Gosta Theselius(ts),Folke Holst(b) and Bird.
Norwegian trumpeter Rowland Greenberg Helsingborg Dagblad
News Paper "Skanska Socialdemokraten" "smalands-folkblad"
Jonkoping
Gavle oldtown
Arbetarbladet
Putte Wickman
1924.09.10--2006.02.14Sture Stubben Kallin
1930.06.05--1996.09.01
Bird, Cab Kaye and Roy. from Melody Maker Dec. 2, 1950
Parker at Nalen ( from "Orkester Journalen - OM JAZZ" December 2000 )
◎パーカーと共演したミュージシャン達
Arne Domnerus (as)
1924.12.20--2008.09.02Rolf Ericson (tp)
1922.08.29--1997.06.16
Rolf Blomquist (ts)
1925.12.07--Lars Gullin (brs)
1928.05.04--1976.05.17
Gunnar Svensson (p)
1920.02.03--1995.08.18Yngve Akerberg (b)
Jack Noren (ds)
1929.10.19--1990.03.17Simon Brehm (b)
1921
12.31--1967.02.11
Thore Jederby (b)
1913.10.15--1984.01.10Gosta Theselius (cl,ts,p)
1922.06.22--1976.01.24
Reinhold Svensson (p)
1919.12.20--1968.11.23Rolf Larsson (p)
1918.01.28--1991.05.05
Rowland Greenberg (tp)
1920.08.28--1994.04.02Sven bollhem (ds)
1926
12.14--
The jam session in the cellar of the Stockholm Jazz Association with Lars Gullin (bs), Simon Brehm(b),
Rolf Larsson (p), Sven Bollhem (ds) is out of shot.
上の写真と、このレコード・ジャケットに使用された椅子に座って演奏するパーカーの写真は、11月20日のコンセルフセットの演奏の後、
オールド・タウンの"Von Der Lindeska Valvet"で行われたジャム・セッションの写真です。(マシュマロ・レコード上不三雄氏談)
OJ(Om Jazz)2000年12月号に掲載されている写真。左から Gunnar Nyberg (ds), Rolf Ericson (tp)。右端は不明。