023:  CHAN PARKER interviewed by WILL THORNBURY    和訳

Chan Parker
表1

CONVERSATIONS IN JAZZ
/ Number One

- CHAN PARKER
interviewed by
WILL THORNBURY


ISBN: 0-938331-25-6
国会図書館 図書カード番号:
94-43726

本のサイズ;幅12cm・
高さ19.7cm・厚さ3mm

日本語訳:
熱狂的なバード・ファン、
山田チエオ氏

Chan Parker
表4

Chan Parker
中扉1

表4; WILL THORNBURY
ウィル ソンベリー:
ジャズ会話集 について
ディスクジョッキーであり、作家であり、ジャズの記録保管人そして非凡なインタビュアーでもあるWill Thornburyは、30年以上に亘り、 ジャズの世界において最も唯一無二の才能や個性を持った人物との詳細な会話を何百時間も記録し放送した。一連のジャズの会話集は、一切の編集なしに、 単発のインタビューから数年に亘る複数回のインタビューに至るまで、起きた出来事をそのまま正確に伝えている。そこには、 これらのインタビューがなかりせば失っていたであろう膨大な量の情報や知識で溢れている。

Chan Parker
中扉2

Chan Parker
表2

写真とイラストは以下による。
表紙: Charlie ParkerとChan Parker(1951年頃)
Chan Parker "To Bird with Love"、Gary Giddens "Celebrating Bird"から転載。William Morrow の好意による。
中扉1,2: Chan Parker(1981年頃)
Bob Parent撮影。Don Parentの好意による。
表2、3: Capitol Songs, Incより転載。Ed Colverの好意による。
表紙4: Will Thornbury(1992年頃)Ray Avery撮影
印刷: Mark Wilder/Celeston Dark Lab, Torrance, California
製本: Area Trade Bindery, Burbank, California

Chan Parker
表3

1981年8月2日     The Beverly Wilshire Hotel, Los Angels
ビバリー・ウィルシャー・ホテル、ロサンゼルス (書き起こし 1987年 Michael Sheppard)

WILL THORNBURY

Birdは、ヨーロッパはどんな感じだったのでしょうか。パリに行った時、そしてストックホルムに行った時ですが。

CHAN PARKER

― そうね、彼は、自分が一人の人間として受け入れられたとわかったし、そしてそのことが彼にとても影響を与えたわ。最初彼は上流の中産階級の家々に 招かれて大いにご馳走され、自分が突然価値ある人間になっていたということがわかったの。居心地はよくなかったけれどもね。で、またヨーロッパに 行ってそこに住みたがっていたわ。そんなふうに一人の人間として扱われるなんて、初めてのことだったし、彼の音楽も、当時ここでは間違いなくあり 得ないくらい尊敬されていました。

 かの地でのジャズ批評家たちやフランスの聴衆との長期に亘る論争を想像してみてください。

― Panassie、Moldy figs等々が聴かれていたの。ええ、もちろんそれは続いていたけど、Birdを求める聴衆もありました。彼は1949年にMilesと行って います。しかしSidney Bechetが同じショーにいました。ここではあり得ない組み合わせの彼らが、かの地では折衷し得るということです。 Big Chief Russell MooreやSidney Bechetを聴きに来る同じ人々が、同じようにBirdやMilesやDon Byasに憧れました。

Birdには、Bechetはどうな感じだったのでしょうか。

− わからないわ。あの人は彼については何も語らなかったわね。けど、最近書き終えた本があるんだけど、その本を書いている時に気がついたの。 そのツアーでBirdとBechetが一緒に写っている写真ではどれも、BirdはBechetのことをとても奇妙に見ているの。きっと何かあったのね。あたしの最近 の推定は、単にBirdはBechetを見ているか見ていないか、どちらかの光景が残っているにすぎないということよ。わからないわ。写真からそう感じただ けよ。彼は決して語ることはなかったわ。

 最近、Tadd Dameron / Miles Davisのパリ・コンサートが再発されました。いつも私の考えが傾斜しているのは、パリ あるいはBirdのいるフランスというよりも、むしろスカンジナビアの方です。

− そうでしょうとも。彼は1949年のパリ・コンサートの後戻ってきました。1950年にスウェーデンに再訪したんですが、その時、パリでコンサートをす ることにもなっていました。実際にパリには行ったんですが、コンサートは行われませんでした。彼はとても具合が悪く、コンサートとなる前に戻り ました。でも、Klact-Oveeseds-Teneは、スウェーデンの人々に敬意を表した作品です。家に戻った彼は、彼らが本当に素晴らしい人たちだということ と、彼をよくもてなしてくれたということを、いつも話していました。彼はスウェーデンを愛していました。

 Klact-Oveeseds-Teneというのは、どういう意味なんでしょうか。

−意味なんかないわよ! 意味なんて考えてみたこともないわ。でも、スウェーデンの言葉ではないのは確かよ。単にBirdがスウェーデンを感じる言葉の 響きにすぎないと思うの。

 思うに、理解しようとして誰もが説明を長々としたタイトルがありますね。そのひとつは、Ah Leu Chaです。

−あれは、I'll eat cha って言っているのよ。そりゃ、とても明らかにね。(笑)

つまり、the L-E-U fools you(訳注:アルファベットL-E-Uが君をばかにする)。

−それがBirdの言い方だったのよ。つまり、I'll eat chaってね。だけど、多くのタイトルは、スタジオを出た後につけられました。

 先日オフィスであなたが正確に発音してくれた時まで、そのタイトルの重要性については考えてもみませんでした。

−(笑)ユーモアに溢れているのよ。ミュージシャンのユーモアでもあるし黒人のユーモアでもあるけど、この国でうまくやっていくのには必須のたしなみの類ね。(笑)

 ある晩に、私はそれを披露してみたんです。ちょっと難しかったんですが、聴衆は約3人ばかりの商業目的外の場所でね。 で、下品な意味も同時に併せ持つタイトルを披露したんです。Beaver Junctionに、Warm Valleyに、Two Teas on Toast、果ては……

−Ice Meets Redね。(笑)

 そうそう。そして、もちろん、麻薬に関する言い回しは山ほどありますね。

−ええ。

 驚きですね。どこから始めましょうか。

−そうね、Si Siというのは実際、"Charlie Chan"と考えられていたのよ。転じてS-I-S-I となった。もともとのタイトルは、"Charlie Chan"でした。

 本当ですか? 知りませんでした。もうひとつ、わからなかったことがあります。あなたはもうほとんど十分に教えてくれていますが、 どこから始めるべきでしょうか。私が始めようとしているのは今私が調べようとしている領域の中にあると思いますので、次の話題に変えましょう。 1940年代のLos Angelesの思い出は、どのようなものでしょうか。

−とても不快なものでした。お腹にはKimがいたし、Birdとはかつて仲たがいがあって結婚はまだ仮の状態だったし。でも、Birdはとても魅力的で私が我慢できなかった。 3,000マイルも距離があると、彼から離れていることができませんでした。で、遂に私は本性を出した。でも、すごい環境だったわけじゃないの。私は妊娠3か月か4か月で、 Birdはええっと、ああ神様、思い出せないわ。確か、Gene Montgomeryの住んでいたところ、たぶんWatts通りかCentral通りだったかしら、そこに住んでいたの。 彼の住所を持って、その場所に行ったけど、聴こえて来る音の方に引き寄せられて街に行ったの。彼が演奏していたわ。それから、彼が部屋の中で演奏するのを聴いたのは、 後にも先にもこの訪問の時一回だけでした。彼は家では決して演奏しませんでした。思うに、それは私たちどちらにも好ましくない時間だったし、音楽的にも、Birdは、 彼自身の音楽を家では受け入れなかったし、それにビバップは放送禁止だったんです。彼はよくFinale Clubやそのようなクラブでステージに立ったけれども、大して仕事は しなかったわ。彼を受け入れるところなんて、確かにどこにもなかったわ。私は出産のためニューヨークに戻らなくちゃならず、もう永久にここに来て暮らすつもりはなかった。 だから、特別に幸福な時としての思い出はないの。良い時間だったと覚えているのは、Birdが演奏しているクラブへ足を運びその種の音楽を聴くことだった。 それは、Chuck ThompsonにRoy Porterといった連中や、WardellやGene Montgomery、Shifty Henryとの競演だったの。だから、こうした連中との幸福な時間は覚えているの。 特に、Red CallenderだったかLeroy Vinnegarだったか、もう忘れちゃったけど、徒党を組んでいたわ。だから、それは良かったわ。だけど、Birdには幸福な時間ではなかったの。 それで、私にも間違いなく幸福な時間ではなかった。これらの連中と連んでる以外はね。つまり、すごかったんだけど、音楽的にはここは全くもって実を結ばない場所だったのよ。 Birdの健康も良好ではなかったし。私たちの関係は以前のようではなくなった。もうダメかと思ったわ……

 Billy's Berg'sについての新聞の反応やミュージシャンの話を聞いたことはありましたか、そして何がそこで起きていたのでしょう?

−それほどないわね。嫌なことだけど、私にはBirdの話を始める人々を遮ってしまう傾向があったからね。私が知っているのは、Birdの健康がすぐれなかったということ、 そうだわね。それと、彼はいつも暇を作れたわけじゃないけど、ちゃんとしばしばそうしたわ。彼らの音楽は受け入れられたわけじゃないけど、初日の晩は恐らく大勢の聴衆が 押しかけたと思うわ。でも、商業的にはそれが成功を収めた契約だったかどうかは怪しいわね。私は彼らの音楽が受け入れられたとは思わない。恐らくBirdは彼の音楽が受け入 れられなかったばかりか、とても幻滅もされたと思うの。事実、Milt Jacksonは彼が出演しない時の代役をやっていたわ。(笑)彼らは5人として契約をした。それで6人に なったのよ。誰かがそんなことしたら、あなただったらどのくらいワクワクするかしら?

 それは知りませんでした。私はMilt Jacksonの代役にLucky Thompsonが入ったのかと思ってました。

−そうね、たぶんLuckyだったと思うわ。けど、それは、契約要件を満たすために、追加でもう一人ホーン奏者がいたということだわ。それは、あなたに子供がいて、 けど信じきれないような場合、その子からは多くのものを得ようとはしないのと同じようなものよ。

 Billy's Berg'sの契約終了後、彼らはみんな帰りました。Dizzyも帰りました。なぜ、Birdは帰らなかったのですか?

−恐らく、飛行機のチケットを換金しちゃったからだと思うわ!(笑)覚えているのは、話したように、この時私たちが連んでいた連中はみんな、夜は食卓を囲みニューヨーク に戻ることを話していたものよ。それが夢だったのよ、ここを抜け出してニューヨークに戻るということがね。みんな、そのために食費を切り詰めたわ。 私は、それはBirdの身にも起きたことだったと思うの。彼は誘惑に駆られてここを抜け出すと、戻る金を作れなかった。それはBirdに限ったことじゃなかったわ。つまり、 これらの連中の何人かはみんなと同じ行動を取っていたわけではなく、単にここにいて誘惑にかられた類の連中で、単純にここを抜け出してニューヨークに戻ることをいつも 話していたの。私が動いたのよ。母がお金を送ってくれたの。(笑)

 当時の景色は、全く活動的なものではなかったですか?

−ええ、そうです。Joe Albanyはここでの仕事をやり遂げ、彼らはFinaleで演奏していた。ほかにもいくつかクラブがあったと思うわ、名前は忘れちゃったけど。 だけどFinaleはうまく営業が続いていたわ。覚えているけど、私はとても堂々とした初老の紳士と知り合いになったの。で、彼と夜にデートしたの。だから、 彼は私にBirdを聴かせようと連れて行ったの。中に足を踏み入れると、BirdはWe're in the Moneyを取り込んで演奏していたわ。(笑)だけど、その曲つまら なかったわ。私は19歳よ。何がわかるって言うの?(笑)私は単にジャズが聴きたかっただけ。

 すばらしいですね。私がいつもBirdに行き着くのに参考になるものです。Lover Manを取り巻く、鍵となる瞬間瞬間を考えることは簡単です。 つまり、Lover ManからRelaxing at Camarilloまでの間のことですが、ここは彼の人生において最も重要な章です。私は、飛び回って、Chuck ThompsonやRed、それにBirdの到着と 出発のことを大統領暗殺や戦争布告を覚えているような感覚で記憶しているすべての人に話しかけました。これらは本当に鍵となる思い出です。彼らがどこにいていつこれらのこと が起きたのか、語ってくれます。彼らにインタビューすると、彼らはいつも、まるでBirdが時間を費やしたところだったかのように、Howard McGhee バンドのことを話します。

−彼がそうだったなんて、全然知らなかったわ。彼は、Howardとはある種奇妙な関係だった。当時、彼はHowardと奥さんと一緒に簡素に暮らしていたと思うわ。 彼女の名前は忘れたけど。思うに、BirdにとってHowardは安全な避難場所だったのよ。彼がHowardと演奏したかは全然わからないわ、その日以外はね。思うに、Howardはそこに いてその日を調整し、その日前後にバンドリーダーを務めたと思うわ。というのは、Howardはそこにいて日を調整しある種の責任を負うことになったからね。 で、Birdは何年もの間、その日のことを憤慨していたわ。私が言いたいのは、Ross Russellはかつても今日も私の友人の一人だけど、もし私がBirdと一緒に いて、Rossのところに駆け込んでも、私は彼に、こんにちはとは言えなかったと思うの。彼は、Rossが嫌いだった。というのは、以来、音楽的にはリリース されるべきかされないべきか私はずい分悩んだんだけど、結局Rossはリリースしてしまったからだったわ。その曲は確かに私に喜びを与えてくれたし、また、 苦悩の中にあって創造性豊かな才能へと向かう洞察力を与えてくれたわ。そしてコーラスも完璧だった。実に美しいコーラスで、とても繊細で感動的で音 楽的に美しかった。私が確かだと思うことは、Birdは自尊心の強い人間で、それが親しい間柄の関係の瞬間に現れたということね。そんなで、彼は決してリ リースしたRossを許すことはなかったわ。事実、彼は数年後にそれをレコーディングしたけど、その時はオリジナルの時とほとんど同じ譜面を書いて演奏し 始めた。オリジナルの方を無効にするために、そうせざるを得なかったということなのよ。

 おかしなことがありました…。Med Floryは最終的にSupersaxを結成した時、長い間そのグループはLover Manには触れなかったんですが、 するとMedは結局ある晩に聴衆にこう言ったんです。自分たちはLover Manの演奏を避けて来たが、それはこの曲を演奏することがBirdに失礼に当たると感じたからだった。 だが、自分がこれを聴いた後にグループのために管弦楽に作曲すると、そこには信じがたいほど美しいソロがあることがわかった、とね。

−美しいソロだわ。だけど、彼らはオリジナル以上にゆったりと演奏する必要はなかった。彼らは葬送歌として演奏した−それでBirdは葬ったのに。(笑) 彼は忌み嫌ったのにね−だからMedは演奏する時はいつも、うまく見えたわ。彼は悪いことを葬ることに照準を合わせて演奏したからね。でも、私は嫌だわ。人間の魂の 表現としてBirdの演奏を聴くことはできるけど、Supersaxの演奏は聴けないわね。彼らには、Lover Manを演奏するだけの音楽的な正当性というものが少しもないわ。

 それについて、こういう考えがあります。伝統的な音楽への誰かの捧げものだと思うのですが、彼らは3、4年前にCharlie Christianとこの 曲を試したのです。それはChristianのラインを演奏するギターグループだったんですが、その背景にある哲学というものが私には皆目理解できませんでした。 Time-Lifeからの再発の演奏を聴くようなものです。もし、お聴きになるのであれば……

−オリジナルを聴けばいいんじゃない? そうよ。それが私にはしっくり来るの。私にはとてもいい友達がいるの。アルト奏者よ。正確な名前が言えないけど。 彼は何年も前に、そう1973年にとても重要なコンサートをしたの。彼はそのコンサートにBirdのストリングスのヒットチャートを借りたがった。スミソニアンでの コンサートだったわ。で、私は言ったの。「自分の音楽を演奏なさい。故人の音楽を演奏しちゃダメよ」ってね。私には、クリエイティブなミュージシャンがそれを 否定するかのように、他人の曲を再製しようとするのが理解できないわ。だから、伝統的な音楽を演奏するのを聴くのは好きじゃないわ。そして、 Scott Hamiltonはとっても上手な演奏家だけど、私は彼の演奏を聴くのも好きじゃないの。彼らは自分自身の音楽をやるべきだと思うの。 私は伝統の中で気楽に生きている人々には我慢ならないのよ。私自身は伝統派ですけどね。私には、過去に戻って20年前にしていたことをするなんてできないわ。 で、私には、クリエイティブな芸術家が再製をするということが理解できない。人々は自分自身の声を発見すべきよ。私は頑固者だけどね。

 Birdとストリングスについてですが、私が様々なレコードをかけるディスクジョッキーをしていた若い頃に、 このアルバムがいろいろ出ましたが、私は遠ざけて聴くことはありませんでした。LesterやBen WebsterやBirdやすべての人々がストリングスと演奏したがりましたが、 そのアレンジメントはまるでエレベーターの中でできてしまうようなものだったことが、いつも私を悩ませました。それは、巡業しているミュージシャンがミルクを 買い求める合間に演奏するような音楽だったのです。

−うん、うん。そうねえ、私の感じもほとんど同じよ。私もそれには同じような反応をしたわ。まず第一に演奏者たちだけど、スウィングしているストリングス を見出だすことは、とても難しいことだわ。何人かはいるわね。Sam Kaplan、彼はよくBirdと一緒に仕事してたわね。あら? ヤだわ。彼、何ていう名前でしたっけ。 Lukowsky?

 Harry Lukowskyです。

−そうそう。PontyやDidier Lockwoodのような人たちは、確かにスウィングのできるストリングスの演奏家だわ。編曲の方は、……Normanはアレンジャー達を雇ったの。 Birdはストリングスを好んでいたけど、同じ理由でこのアレンジャー達を好んでいた。彼らは正統派だものね。ストリングスの出演契約は、地下室で演奏することに対する Birdによる反発だったと思うの。彼は、より大きな楽団になっていくことを望んでいたわ。彼は、オーケストラによる演奏向けの曲作りをすることを望んでいたの。 彼はこれでほとんど、当時4人編成のリズムセクションのコンボから脱け出せるようになったわ。それで、彼はそこから次の段階に進んだのよ。そして、彼はストリングス やアレンジの数々を好んだわ。とても好んだの。けれども、私の反応はあなたと同じで、私はBirdのストリングスとのコンサートでの演奏のテープをたくさん持っている わ。私はRockland Palaceのテープを持っているけど、Birdはまさに飛んでいるわ。もう彼は止まらないの。ね、彼は曲の中から飛び出してストリングスの頭上をまさ に飛んでいるの……。そうね、Tommy Maceはとっても上手いオーボエ奏者で彼と一緒だったけど、演奏を聴いてみれば、いかにしてBirdが彼ら全員が演奏している曲から 抜け出ているかわかるでしょう。でもBird自身は、彼は何にも手間取らされることなく、ちょうどMaxと一緒に演奏するのと同じように、彼らとただ美しく演奏している のよ。

 そこが問題なのです。例えば、Joe Lipmanによる編曲や数々の編曲に織り込まれているものは本当に退屈だなと思いました。 しかし、一つの鍵として、私たちがオフィスで話し合ったことがあります。つまり、こういうことです。私はNeal Heftiが書いたたくさんの作品が好きですが、 Repetitionはさほど好きじゃありません。ある種、眠気を誘う独創性に欠けた曲だと思ったのです。特に、Nealにとってはね。とはいうものの、そこには私がこれまで 耳にしたことのない最も美しいコーラスが含まれています。オフィスで貴女は私に仰いましたね。Birdと彼らの演奏を聴いても、Birdはただ彼らと美しく演奏している わけではなかったはずだということの証明はできなかったと。

−違うわ、それはNorman Granzが出したThe Jazz Sceneの限定販売アルバムでのこと。5,000枚プレスされたと思うけど、Gjon Miliによる写真が複数含まれていた アルバムよ。美しく包装されていたわね。当時にしては高価なもので、いくらで売られていたか、もう忘れたわ。

 25ドルです。

−そうそう。1枚目の片面がColeman HawkinsとBud PowellのUn Poco Loco、その片面がBirdだったわね。タイトルはThe Birdだったかしら、少なくともそう呼ばれ ていたわ。それから、2枚目の片面がGeorge Handy、その片面がNealだった。Nealが自分の曲をやっている最中にBirdがやって来て、彼らが「やあBird、こっちへ来て 第2コーラスをやれよ」って言ったかどうかはわからないけど、そのように実現して終わったわね。そして彼はNealによるスケールの小さな編曲を持ち、そこを出て仕 事をした時はその編曲を自分のストリングスのために使ったの。彼は私にJoe Lipmanが編曲の仕事をしていることを話してくれた時、とっても誇らしげだったわ。 ハリウッドの編曲家よ。正統派であることがBirdにはとても重要だったし、尊敬の念とその世界に首尾よくもぐり込むこともね。さらに言うと、彼の音楽には悪口を 言われないことも重要だったわ。だから彼はいつでも既にエスタぶった人と何らかの関係を持つ機会があった。ああそうだわ、例えば正統派のハリウッドの作曲家な どは、彼にはまさに打ってつけだったのよ。

 私たちは、人々がBirdについて語る時に話題に上がる多くの音楽家の名前を耳にします。その一人が、Bartokです。彼はよく、 聴いていました。

−そうそう、それは彼お気に入りの作曲家の一人だったわ。彼はBergやWebernや、現代曲の作曲家たちを聴いていました。彼が家で19世紀の作曲家や18世紀のバッハ を聴いていたという覚えは全くないわね。そうね、彼らはスウィングしているのよ。だからBirdは彼らの曲をよく知っていたし、こよなく愛していたわ。彼は、 Vareseと会ったことがあったの。それから、Black Mountain Collegeで教鞭を取っていた、当時現役だった他の現代作曲家にも会ったことがあったわ、あらヤダ、 何ていう名前だったか覚えていないわ。彼はそういう人たちのことを、とても尊敬していた。彼は音楽の組成をより大きくして行った人々を尊敬しました。彼は自分 の価値がわかっていたけど、ナイトクラブの状況下でカルテットの形に縛られていたのよ。だから、私にはわかるけど、彼はその状況を打破しようと何でもしようと していたわ。ヨーロッパに渡ってパリ国立高等音楽院に行くことさえ考えたの。

 多くの人々がそうしました、当然にね。Nadia Boulangerに師事するためにね。

−そうね、たくさんの人がNadiaに師事したわ。Quincyとかね……。ところで、Nadia Boulangerの姉妹を、あなたご存知かしら? Lili Boulangerっていうの。 彼女はもう故人ですけど、ずい分若い頃に亡くなった、確か26歳かそこいらでね。信じられないような音楽家で、Francisは彼女のレコードをたくさん持っていたわ。 彼女は格別だったの。

 Francisも素晴らしい男で、私は彼と会うのが楽しかった。

−Birdの他には、私の知り合いでは最も並外れた人物だわ。

 今のコメント、取っておきますね。で、彼に送ってあげます。

−ぜひとも!… 彼、わかりますわ(笑)

Charlie Parkerについて考えてみましょう……。数年前にHawkinsにインタビューした時、私はCharlie Parkerの話をしてみたん です。その後、HawkinsはSonny Rollinsと一緒にやり、そしていつもしたこと、つまり、若い駆け出しのミュージシャンたちと仕事をしました。だから、人々は Coleman Hawkinsというのはスウィング期の産物だとか、古い時代のミュージシャンだとか考える傾向がありました。私がインタビューしたのは、そうしたことよりも 以前のことです。で、そのようにCharlie Parkerの話をしてみると、彼の反応は好奇心をそそるものでした。とうのは、そこには当時にしては全く異なる世界があった からです。今となっては彼らのしたことはすごくも何ともないと思えますけどね。私は尋ねました。「Charlie Parkerについて、どう考えていましたか」って。 彼はCharlieのことをニューヨークにやって来たミュージシャンの参考にしていました。彼がニューヨークにやって来たCannonball Adderleyの話をしていた時ですが ね。みじめにも初めてつまずいて、フロリダに帰らざるを得なくなりました。人々はNatの演奏も好きでしたが、Cannonballほどには考えていませんでした。それ から次に、彼がインタビューに訪れて来た時は、彼は身構えていました。で、彼はこう言ったのです。「さあ彼の演奏を聴いてみな、彼は演奏できるよ」ってね。 そして、私がCharlie Parkerについて彼に尋ねると、彼は同じ話を繰り返しました。それはもう、昔ならばのことなのにね。彼はJo Jonesのシンバル事件の話、 あるいはBody and Soulのコーラスの話をしていたと思います。で、インタビューでは他の人間のことは話さないということを言っていました。彼は自分以外の人間 については温かな思い出と尊敬の念を持っていました。ところが、私が「Charlie Parkerを初めて聴いた時、どう思いました?」と訊くと、彼は少し間を置いて、 私のことをまるで、私がこれ以上ないような最も愚かなことを話しているかのように見ました。もちろん、そう尋ねたのは確かです。で、彼は言いました。 「そうだねえ、彼がサックスを吹けるということは知っていたよ」とね。

−ん、あなたは16歳か17歳のBirdを聴いたのよ。17歳より上ということはなかったし、ある人は16歳と言ったけどね、彼が何歳だろうと、後になって演奏したのと違わない 演奏をしていた。だからその話は全部、私はこれまでの生涯で彼らの音楽を聴いたことがあるけど、彼らはBirdを聴くことのできなかったミュージシャンたちよ。Birdの演奏 だとは思わないわ。当時、彼はビバップを演奏していたので、確かにビバップを創造し確立したの。たぶんミュージシャンたちは、それは中国の音楽だとか、彼は間違った変化 を演奏していて正しい奏法を知らなかったとか思ったのね。思うに、ミュージシャンたちの聴く耳はその程度だったのよ。

 それは信じがたいような……。Francisのしたことの一つは、その特別なショウを聞く多くの人々をうんざりさせたことでした。 彼はそれを持ち込んで、どのようにしてそのレコードを入手したか話し、1937年という日付を掲げたのです。で、私はそれを聞いて、心の中で「Francis、それは不可能 なことだよ」と思いました。1937年はまだ誰も、特にBirdはそのようには演奏していなかったのです。それはかねてよりすっかり定評のあるNoble Sissleの一時代を侵害 するものであることは、明白なことでした。

−BirdはJimmy Dorseyが好きだったわ。それは彼への影響という点では無関係なものだったわ。家ではKay Kyserをよく聞いていました。けれども、Kay Kyserも彼へ の影響とは無関係だったわ。なぜそうかと言うと、私たちはSlow Boat to Chinaのレコードを持っているけど、それを聴けば彼は変化を好んだとわかるからよ。けれども、 Birdは変幻自在に変化を好む人間だったわ。彼が初期に影響を受けたのは、Buster Smithだったの。私はBuster Smithの演奏を一回も聴いたことがないけど、でも、彼は Noble Sissleのようなところは全くなかったし、Birdはいつもそのようなことを概念的に考えていた。たぶん、追いついていなかったのは、ミュージシャンかどうかは別 にして聴く側の方だったのよ。Birdはうまくやり遂げるために、練習を積まなくちゃならなかったわけじゃないの。Birdはいつだってうまくやり遂げていたわ。

 Birdには、いつも異なる生き方がつきまとっていたように思います。カンサスシティーの伝統と真のカンサスシティーのミュージシャン たちのことを考えてみましょう。Joe TurnerやBasieや、そういった人たちです。もちろんBirdもカンサスシティーですが、その町出身の他のミュージシャンのようでは ありませんね。

−Birdはどこの出身のミュージシャンとも違うわ!(笑)Birdは普通のマナーや形をした人類とは違うの。彼は生命体より大きいの。いつもそうだったわ。 彼は超越した人間だったわ。彼は残りの私たちとは無関係だったの。

 あなたがオフィスでしてくれた話に、私は本当に困惑したことがあります。最初から最後まで、誰もBirdに本当にずっと近づけなかった というコメントのことです。あらゆる人々の中で誰よりも親しく、たとえ手を伸ばさなくても身近にいたのは、あなたです。このことを、カンサスシティーに当てはめて 考えてみたいと思います。ある人は、二つの時期に革命があったと考えています。カンサスシティーがその一つ、もう一つはジャズの革命という点でその震源地となった ミントンズですが、Birdはまだ、ミントンズではさほど演奏していませんでした。彼はアップタウンハウスにいたようですね。

−Birdは生涯を通じて、身体的な機能にさまざまな問題を抱えていたと思うの。そのことが関係したのかも知れないわ。健康に関しては、Birdは資金的に機能すること ができずにいたの。私たちみんなが生活しているような、一日一日を生活し存在することがBirdには問題だったの。多くの理由がそれだったの。Birdはね、二人で話して 来たように、プライベートな人だったし、私はいつも彼のプライバシーを尊重しなければならないと感じていたの。それで彼が亡くなった後はそれが理由で、長い間、 彼のことを人々に語らないようにしていたわ。実際、誰かが「Birdについて尋ねていいですか」と言えば、文字通り、私の耳は直ちに塞がり頭は閉じたわ。彼らが何言って いるのかさえ聞かなかった。それが反応だったの、Birdの反応だったのよ。これまで出版されてきた書物を侵害したために、それはBirdが亡くなってから続いて来たけど、 最終的には一つの結論に到達したわ。Bird Livesはフランス語に訳されたの。それはセックスと麻薬と暴力についての探偵小説としてPhilip Pscquiによって販売されたけ ど、私はこれ以上沈黙を続けることができなくなったの。私が尊重して大事にしてきたBirdのすぐれてプライベートなことが侵害されそうになったからよ。私が本を書き ショウとインタビューを始めたのは、その時だったわ。しかし、4年前にはフィルムが創られるプロジェクトが持ち上がったの。でも、よかったわ、内容がつまらないもの になりそうだったから実現しないで済んだの。で、私は当時は沿岸部にいたんだけど、唯一知的な質問というのは、John Calleyからのものだったわ。彼は当時、 Warner Bros.のトップでしたね。彼は今も健在なのかしら。彼が私に訊いたの。「BirdはPicassoのところに行っていたのかい? 当時、Picassoはアカデミックな状況 の下にかくまわれ、尊敬され、ヨーロッパに住み、大学で名誉教授の学部長をしていたがね。BirdはPicassoとは違う何か、役割を果たしていたのかい?」ってね。 ええ、もちろん彼はそうしていたわ。彼の音楽は恐らくPicassoと同じだったわよ。演奏すべき方法で演奏したからね。でも彼はね、手堅く仕事をこなし、より多くの 作品を生み出して、確かに瞬間瞬間を生きていたの。そしてBirdにとっての悲劇というのは、生きなければならなかった世界で生きなければならなかったという、 ただそれだけのことね。それでも、そういったおぞましいすべてのものに逆らいながら、彼は創作を続けたの。

 私と同じようなことを、貴女も感じていたのですね。間違った方向へ導くということではないのですが、1950年代から1960年代の どこかの時点で私に起きたことは、Birdについて語っている多くのミュージシャンよりも、違うタイプのミュージシャンの音楽を聴いていたということでした。 というのは、Charlie Parkerについて語った多くの人々というのは、本当に音楽を大切にしてはいないようでした。

−あの、仰っていることがわからないわ。

 彼は、ある種、教祖の様相を呈するようになりました。それは芸術家の、もがき奮闘する悲劇の物語のようで、それはたとえその 詩の一篇も読まなくても、Francois Villonに通じるようなものです。

−そうね、私はそのような人々と連むことはなかったわ。いつもミュージシャンたちと連んでいたの。だから私が知っている人々は、Birdの音楽ゆえに彼を愛した人々 だった。だから、その質問には答えられないわ。

 私の場合はもっと特定の事情でした。Kerouacを読んで、Birdの音楽に副次的な効果が生まれたようには、Kerouacが音楽に副次的 な効果を本当に及ぼしたとは全く感じませんでした。

−そう、もちろんよ。Kerouacは作家で、音楽家ではないしね。

 でも、貴女にはまだ、これら両方の可能性がありますね。少なくとも貴女は作家でもあれば、音楽に心を動かされもします。 私はJohn Keatsに心を動かされます。もちろん、Charlie Parkerにも感動します。

−わかるわ。だけど、Kerouacは縛られすぎていると思うの。芸術の体裁ではなく彼が作り上げたライフスタイルなの。だけど、それが彼の最終目的になったわ。 そして、それがKerouacの悲劇だった。彼は自分の芸術の発展よりもライフスタイルをより重視したから、それで決して高みに行くことがなかった。それは、Birdが抗っ ていたものよ。Birdは自分のライフスタイルを克服して自分の芸術を演奏し作品を創造したわね。

 Birdの習慣やライフスタイルといったものへの自身のコメントは、繰り返し繰り返し、人としての生活に向けた、ある種の教訓 として引用されていますね、まるでBirdがとても罪悪感を深く感じているようにね。私はこの麻薬とかそういった領域についての決まり文句に立ち入るのが嫌いです。 しかし、私が当時若くて今も現役のミュージシャンにインタビューした事実からわかったことは、彼らの多くがそれは通るべき道だと感じていたということでした。 もしも、それがCharlie Parkerを形成したものだとするなら……。

−……素晴らしいわ、さぞ彼らはすごい演奏ができたのでしょうね。考えがまるで成熟していないじゃないの?(笑)

 ええ、彼らは決してCharlie Parkerではないということの証になるかも知れませんね。

−(笑)

 伝承された麻薬の知識全体が、これは本当に私は近づきたくない部分ですが、単に死につながるだけで、何も解決しないと思います。 私を捉えたBirdへの好奇心は、カンサスシティー時代、彼が若い頃に中毒になったということです。この時期に彼は常用していたようですし、見るからに明らかな弱点が 彼にはありました。ある者はJo Jonesのシンバル事件の演奏を聴き、ある者はその彼をジャズ史の中に位置づけ、そしてある者は彼を一人の人間として捉えます。 貴女の考えは、「Charlie Parkerにとっては、そのシンバル事件は信じがたいトラウマとなるような経験だったに違いない」ということですね。

−真実はわからないわ。Birdが私に言ったのは、初めて彼が演奏するとスタンドの離れたところから笑いが起きたということで、彼はシンバル事件のことは何も 話さなかったわ。それは、彼が忘れたいと思ったことだったということかも知れません。私も彼を質すつもりもないし。でも、本当の話だったという可能性はかなり 高いわね。彼は嘲笑の的になったので、それが彼のトラウマとなったのね。シンバルを投げつけられようとなかろうと、仲間たちからは受け入れられなかった。けど、 前に話したように、たぶん彼の仲間たちは彼が何を言っているのか聞いていなかったか、そのつもりがなかったのよ。だから彼は出て行って、秘密裏に猛練習したの かも知れないわね。いやそうしたのよ。彼が私に言ったのは、彼はバンドと一緒にツアーに出かけていて、その時、車で交通事故に遭った。彼は秘密裏に猛練習して いたけど、それは単に学ぶだけのものだったと思うの。彼が新しく知った曲は、Up the Lazy Riverとあともう1曲だけ、主音が1つだけだったかしら? だけど、彼 は自分のコンセプトのために猛練習したんじゃないと思うの。彼のコンセプトはもうあったし変化するものでもなかったと思うの。彼はハーモニーを綴ることを学ん でいたのか知れないわ。彼はハーモニーそのものを学ぶ必要はなかった。ハーモニーはもうそこにあったから。でも、ハーモニーの綴り方、すべてのキーを使っての 演奏を学んでいたのかも知れないわ。

Birdは盗作されれば訴訟を起こすことができるというTristanoのコメントを考えたり、明らかにすべてのミュージシャンたち から彼は尊敬されていたと思う時に、すべてのミュージシャンたちの生活を彼が変えたというのは、面白いですね。Konitzはこういうフレーズを使っていたと思います。 「何人の生活を彼は変えたか」ってね。KonitzはLesterとBirdについて、二人は本当に音楽的には影響を与えることはなかったが、人々の生活の精神性には影響を与え たと語っていました。

−私自身が変わったわ。(笑)彼ら二人のおかげで。

 そしてさらに、Charlie Parkerについてミュージシャンたちに話しかけると、彼と親しいミュージシャンたちですが、2つの感触 があります。1つはスポットライトの中で(正典に対する外典に相当するような)宗教的な言説が形作られたという感触、もう一つは、彼と一緒に多くの時間を過ごした 人間は本当は彼のことをあまり知らないという感触です。

−彼はとてもプライベートな人、とても自尊心のある人だったわ。私たちがB通りに一緒に住んでいた頃、誰も立ち寄らなかったわ。私さえ彼は入れたがらないエリア だった。彼の中ではなく彼の周りのエリアのことで、例えるなら、ジャングルの中に出現したようなエリアだったわ。彼がドアを開けて入ると、そこは彼の城だった。 そこは彼の家で、誰の侵害も受けなかった。で、彼はとても成熟した大人だった。私は彼と会った時、彼たぶん25歳だなんて信じることができなかったわ。彼はいつも 私より年上に見えたわ。たぶん、それが私が彼に魅かれた理由ね。彼は他人の干渉を受けずとも自制心のある人だった。で、私の知っているジャズ狂はみんな私と同い 年、情緒的に同い年で、違っても数年のものだったわ。でも、Birdはとても違ってたの。彼は既にひとかどの男だったし、十分な気品を備えていたわ。そして、彼はそ こに割って入るようなものは、何も欲しがらなかった。何とも言えないわ、言いようがないわ。あなたが天才なら……、つまり、美術学校の中でPicassoがどうやって ネコとブラブラ過ごすって言うのってこと。そこに、並の妥協点なんて多くはないわね。あの人たち、気の毒ね……。(笑)

 それは、素晴らしい発想です。そんな風に考えてみたことは、ありませんでした。私はJon HendricksにCharlie Parkerについて 話しかけたことがあります。最初は彼がCharlie Parkerを聴いた時、そして彼が後にパリで彼に会った時です。

−Jonはパリで彼に会ったの? 1949年に? あら本当に。

 彼は、それについてたくさん話してくれました。Birdの思い出にまつわる多くの話をね。人々の思い出や出来事の思い出をね。で、 Hendricksは気さくにたくさんの信じられないような話を私にしてくれました。それには尾ひれがいろいろ付いたか、あるいは後から見直したかのように、何が起きたのか そのまま正確ではないものでした。Birdへの熱意と彼自身の投影がどこかに流されてしまっていました。

−あ、そうなの。もしあなたに知らない人がいて、親交があったならよかったのにと思うなら、何か作り話する以外ないでしょ。つまり、Birdの人生において自分 自身を重要な存在にするということね。それから、もしあなたが(本当は知っているべきだったのに)知らずにいた人がいるような場合は、大切なことは何らかの関係 を築くことね、音楽に関することか、あるいはBirdに感動するようなことでね。で、あなたはそうすべきだと思うわ。私は彼らの言うことを理解しないの。私自身は、 Birdの話をすることが嫌いなの。私は愛した人の話をすることが、その人が誰であれ、嫌いなの。Birdが私一人の夫ではなかったことがそうなった原因ね。それでも 人々はやって来ると言ったわ。「最も面白い…… 待って…… 私にその晩に起きたことを言わせてください」ってね。私はただこれが嫌いなだけなのよ。私は耳を塞 ぐの。ただ聞きたくないだけ…… 人々はそれでも私にそれを繰り返すの。私はパリでTony Scottと一日過ごしたんだけど、私はBirdが買ってくれたイアリングを付け ていたわ。すると、そのイアリングがすぐに「ddnnngg……」って鳴りだしたの。私が「聞きたくないわ」って言うと、Tonyは「ああ、そうだね。君は繊細な感性の持ち 主なんだね」と言った。私は「そうじゃないの。私は一緒に暮らし愛し愛された男の話を聞きたくないのよ!」つまり、私はBirdを知っているけど、あなたが彼とどの ような関係かなんて聞く必要がないの。私はそういう話が嫌いなの。ただ嫌いなの。Birdがプライベートなことはわかっているし、誰も彼を知らないし触れようともし ないということもね。だから、人々がこういう粗野な話を持ち出すと、本当にウンザリしちゃうの。

 彼を崇め取り巻いていた人々からBirdの話を聞き出すにはどうすればいいのでしょう。Birdがあなたから意図的に学んだものは、 音楽以外のことに抱いたすばらしい興味ということでした。

−そうなの。彼はアートを愛していました。私もね。だから二人ともお金がなかった。ステレオさえ持っていなかった、でしょ? 当時はピックアップって言って たかしらね。壁にはプリントを貼っていたし。絵画は本の中で持っていたわ。誰もBirdのそんな一面を知らないと思うの。彼はグラフィックのアーティストでした。 そうそう、彼が見比べられるのは、詩人のFrancisかしら。すごい作家だけど、画家としてもすごくて、私が持っているのは唯一、彼の絵画で唯一完成されたものよ。 未完成の絵画は持ってるわ。人々はそれを見て、Modiglianiだと思うわ。そして私は、それは私がModiglianiを愛していて、私たちは壁にModiglianiのプリントを貼り、 それが彼に影響を与えたかも知れなかったからだと考えたいの。彼はクラシック音楽を愛していたわ。興味があったのね。彼は政治色のある人間ではなかったけれど、 この世の中に起きていることに興味を示していたし、近所のバーでは、ソビエトからの移民と世界情勢について話をしていたわ。彼は詩に興味があり、ヨガに興味が あったわ。だから、アカデミックな環境ではないけれども、音楽の周辺で彼が愛したことを追求できた環境で生きて行くことができないことほど、彼にとって恥なこと はなかったの。

 彼は、取っ組み合いでばらばらになったと思うんですけど。

−彼は身体的に存在するように、すべてのエネルギーを費やしていました。私には、もし私がその時に他に代えがたい何か計画をもっていたなら、という自分の経験 からわかるわ。で、もしBirdが彼のエネルギーを創作活動や興味を持ったものに注いだならば、と思うわ。代わりに、彼は賃料を支払い、麻薬を常用していたなら次の麻 薬を注射するためにだけ、金を稼ごうとしたわ。そうでなきゃ、黒人の彼がホテルにチェックインできたかしらね。もし、こういうプレッシャーが全然なかったならば、 彼は生涯においてもっともっと創造的なことが恐らくできたのにね(笑)。他のほとんどの人には無理だと思えるような活躍をしたと思うの。でも残念なことだったわ、 彼には大切にしていたことをもっと深く追求するだけの自由がなかったの。

 彼は療養に6か月要しましたね。カマリロから退院し、健康になって、申し分なく健全になりました。この期間には、どんな思い 出がありますか?

−そうですね、わかったわ。彼がカマリロに入院した時っていうのは、私は出産で入院していたの。で、二人共通の幾人かの友人たちから電話があって、Birdが今死亡 したって言うのよ。噂は西海岸からニューヨークに届くと、完全に炎上したわ。で、もちろん、Birdがカマリロを退院すると、彼には新たな人生を始めるチャンスが到来 したの。というのは、彼はBilly Shawとサインをし、Norman Granzとの契約にサインしたもの。そして、彼はそれを、全く新しく再出発するチャンスとも捉えたと思うの。 けど、彼は私生活では幸福ではなかった。彼は幸福な状況にはなかったので、すぐさま52番街のかつて彼がいた頃と状況の変わらないThree Deucesに戻ったの。彼は依然 として同じクラブで同じ金のために演奏を続けたの。それはある意味、過去に戻る第一歩だったの。

 私たちは少なくとも、いくつかのBird with stringsコンサートの海賊契約を知っています。いくつかはApolloと思われるものですし、 それ以外のものもあります。そういった状況下でのBirdや、クラブやそういう場所ではなくて、聴衆を前に演奏する別の方法であるJazz at the Philharmonicや一連の KentonツアーでのBirdについて考えます。彼には魅力的なものだったでしょうか? コンサートホールより以前には、大学キャンパスの前で行われるやり方が発達してい ます。

−ええ、そうね。それは、型にはまらない方法なのよ。そして、サックス奏者はみなこう言うでしょうね。ビッグバンドの中のサックス部門の中ほど、いい居場所は ないとね。彼らがどんなにビッグなスターであっても、そして、彼らのコンボがどんなにすごいものであってもね。私は最近、Buddy TateとNorth Seaで会ったわ。で、 彼は亡くなる5週間前のBirdに会っていたの。彼はビッグバンドのレコーディングの出演契約をしていて、Birdにその話をしていたわ。その時、彼は言ったの。「誰も俺 に、ビッグバンドへの出演契約を結ぶ声をかけて来ないよ」それでBuddyはこう言ったの。「たぶん彼らは、その、あなたが5,000ドル欲しがっていると思っているのです」 とね。彼は言った。「俺はそのくらいのスケールのことをするよ」と。Philはよく、それは消防車について回る消防局の老犬のようだと言っていたわ。私はその話に共感 するわ。部門の中で演奏するというのは本当にすごいことに違いないわ、特にあなたがリードのアルト奏者ならばね。

 彼は過去について、たくさん語りましたか? 彼はJay McShannやEarl Hinesについて語りましたか?

−ええ、少しだけね。大した話じゃないわ。いい? 人々が私に質問するのは、かつてBirdがあれやこれや語ったことだわね。それと、家では私たちは子供たちのこ とや、晩御飯は何を食べようかということを話したわ。私たちは家では本当にごく普通の家庭生活をしたの。で、音楽についての私の関心はいつもすごかったけれど、 で、クラブのステージへ出かけると、彼はいつもいろいろなものをいじっていて、私が彼の話していることを聞いているといつも喜んでいたわ。それが、私が本当に聞 いているかチェックする彼のやり方だったんだと思うの。でもね、つまり、音楽的には私たちは対等に分け合っていたわ。でも私たちは、Cherokeeの第3コーラスを誰か が演奏していることについて話したりして、無為に時間を過ごすことはなかったわ。わかるでしょ? 私たちの生活はとてもブルジョアの家庭生活だったわ。

 初めて彼のことを知った時、つまり初めて彼に会った時ですが、彼は既に大変な評判になっていたのですか?

−まさか!(笑)違うわ。彼はまだカンサスシティーから出て来たばかりで、彼の評判と言っても、それはまだ隠れたものだったわね。「カンサスシティーからやって 来た、この子猫ちゃんの演奏を聴くまで留まっててよ」というようなものだったわ。いや、そうじゃなくて、彼は全くの無名だったの。そして、多くのミュージシャンが もちろん「カンサスシティー出身のこの男の演奏を聴くまで留まっててよ」という言葉を聞き、彼の演奏を聴くために中に入って行ったの。「おや、彼は何て変な音なん だ……知らないなあ……」彼はアングラにおいても教祖ですらなかった。いやいや、そうじゃなくて、彼はほとんど知られていなかったの。極々内輪の隠れた教祖だった わ。

 貴女はジャズのどこに興味をもったのでしょう。すべての始まりはどのようなものだったのでしょうか?

−母がCotton Clubで働いていたの!(笑)私はCabとDukeとともに成長したの。Bunny Berriganも好きだったわ。それが私の生活のすべて。私が6年生の時、やらなけ ればならなかった企画があったのね。大きくなったら何になりたいかってノートブックを創作する企画だったわ。私は、バンドリーダーになりたかった!(笑)わからない わ。みんなはどこでバンドリーダーになるの? あなたはそうならないと思うわ。運命というものだもの。

 私はCharlie Parkerについて考える時はいつも、音楽のことを考え、それを饒舌に話す彼ではなくて、彼の生活がどんなだったか だけを考えています。

−いいわね! ヨーロッパ人はそれを理解しないの。彼らはいつも私にこう訊くの。「彼は家の周りでも演奏しましたか?」って。ありえないわ。彼はそんな必要な かったもの。夜、彼は眠っている時、彼は私の腕の上に自分の指を置いたわ。彼の指が動き出すの。私の腕がサックスのようにね。食べたり呼吸したりするのと同じで、 自然なことだったの。頭を使う作業ではなかったのよ。なので、彼は音楽的には次の方向を考えて見出す必要がなかったわ。音楽家でない人に説明するのは、何だかとて も難しいわね。彼は、家では全然、練習しなかったわ。ええ、全くね。考えもしなかった。つまり、それが彼がしていたことなの。彼がしなくちゃならなかったことな の。

 貴女のほかに、彼に本当に重要な影響を与えた人は誰かいますか?

−Buster Smithね。

 先生ですね。

−あと、彼の母親。

 少しだけ、この本について話したいのですが……

−ええ、よろこんで。

 この本は……とても不思議なんですが、Charlie Parkerについて書かれた、私が本当に愛しているエッセイでして、その作者が これまで書いた中で最も型破りなエッセイです。で、それはReisnerの本のRalph Ellisonによる書評です。

−知らないわ。

 それは、Shadow and Actという、Ellisonが書いたものを編集した本の中に登場します。Ellisonはとても寄り付きにくい人物で す。彼はInvisible Man(透明人間)を書くと姿を消して、誰も……、私は1960年年代の終わりにニューヨークで彼と会いました。で、彼が言ったことは、新しい小説が 間もなく出るよ、伝道者の巡回地区やテントでの集会のあるエリアで出るよということでしたが、決して出ることはありませんでした。

−そう、彼は姿をくらましたわね。

 Invisible Man(透明人間)の後は何をするんですか? 貴女の場合は、傑作を携えて最初のひび割れから出て来ても、持ち歩く には大変な重さになるに違いないでしょうね。わかりませんが、確かなことは、彼は多作の作家ではありません。しかし素晴らしいエッセイストです。そして Shadow and Actには、非常に変わった雑誌High Fidelityに向けた彼のエッセイがいくつか含まれています。その一つで、彼はオクラホマにおけるJimmy Rushingと Lester YoungとCharlie Christianについて書いています。彼は彼らを知っていましたからね。そして記述は見事なものでした。彼は自分のしていることがわかった 作家として書き、成長をともにした連中のことを話していました。連中の仕事のことが彼は大好きだったんです。彼はCharlie Parkerに行き着き、そしてReisnerの 本の書評を書きました。彼がその本の中で唯一好きになったのは、いくつかのTed Jonesの詩の断片と、ほかにいくつかの断片です。私がこれまで読んだものの中で、 最も不明瞭で、最も奇妙で、そして最も連続性の欠いた論説を書いていると思います。ほとんどJoyceのようで、彼が完全な迷路から抜け出しつつある、ということを 認識するのに長い時間を要するような論説です。

−あら、本当? 私に送ってちょうだい!(笑)

 素晴らしい論説です。大変に素晴らしい。まだ理解できていませんが……。石のない象形文字を読んでいるようなものです。

−Reisnerの本では、私はとってもグラフィックの才に長けているのよ(笑)

 しかし、その本は、本の蒐集家には別の参考文献でもあるのです。その蒐集家の愛情というよりむしろ、陥る迷路に関する本だからです。

−わかるわ。怖い本だったわ。家に置きたいとは思わないわ。子供たちに読んで欲しくないもの。その本の私の感覚は、汚れている、だわ。

 私がこの本をお持ちしたのは、これが、興味を持つクリエーターを誘うというよりも、ある種、迷路をの利己的に利用する一例に なるからです。聴いている曲は……オリジナルのKo-Koには好奇心をそそられます。あるミュージシャンが私に、これはCharlie Parkerが音楽以外のことに興味を持った ことを示すものだと言いました。Ko-Koは明らかにアフリカの歴史において重要な作品です。そして、Charlie Parkerはそのことを知っていました。それが彼の贈り物な のです。

−Birdがその曲のタイトルを付けたとは思わないわ。Birdのタイトルじゃないわ。(笑)アメリカインディアンって言うなら、彼は大事に思っていたのよ!(笑) Cherokeeは国歌なの。私はCherokeeのコードを学ぶためにアメリカに戻ったの。

 素晴らしいことをなさいましたね。それはBirdの身に起きたことですから、その宗教的な言説がまさに貴女の目の前で紡ぎ出され ているのですね。

−わかってるわよ!

 結局、Savoyから究極のマスター集がリリースされた時、貴女はCherokeeのテイク1のの紹介部分を聴きテーマが始まると、こう心 の中でつぶやきましたね。「ああ、神さま」ってね。

−その通りよ! まさにそう思ったわ。(笑)そんな風に起こったと思うの。たぶん、それはいいテイクじゃなかったし、途中でカットされ、Birdはただもう頭から やり直したくなかったんだろうけど。

 彼は、自分が口笛を吹けることをレコードで示しています。

−(口笛)彼は口笛の名手だったわ。私はそれがとても好きだった。「ちょっと待って、ちょっと待って」面白いのよ。娘のKimが、Birdが亡くなった時7歳だったと 思うけど、彼女が長いこと言っていたわ、本当に何年もね。「ダディーの声を思い出すことができなかった」ってね。だから、彼の口笛がレコードから聞こえると、Bird の声はすぐに彼女に蘇って、彼女はとても幸せに浸って彼の口笛を聴いていたわ。

 Charlie Parkerのインタビューについてですが、海賊版の一つに掲載されているものがあります。Symphony Sidによるインタビュー だと思いますが、この時期のものと思われます。海賊版ということですが、どのような状況だったのでしょうか? Benedettiのレコーディングは、どのようなものだった のでしょうか?

−そうねえ。まずもって、あなたは私がCharlie Parkerのレコードを買うのを断っているということを信じなければダメよ。だから、私のコレクションはとても限られ たものなの。全部の海賊版を持っているわけでもないし、それらを聴いたわけでもないわ。

 私は、他人を食い物にする人には、本当に嫌悪感を覚えます。

−あらまあ、私もそうよ。私は信じがたいほど素晴らしいBirdの曲を大概持っているけど、その多くは既に海賊版でリリースされたもので、Birdは私のマイクに向か って録音したものだったわ。彼はリールのマイクに録音し、音はとても信じられないようなものだったわ。だから、これら海賊版はどれも、誰かが聴衆と群衆の雑音に紛 れて小さなテープレコーダーで録音したものから作られているの。私は全然好きじゃないわ。そう言いたいわ。好きじゃないの。第一の理由は、それら海賊版は搾取的な 感じがするということね。私には全然お金にならないし、会場の関係者も誰もお金にならない。一部の人間が全部お金を持って行くからね。

 一方で、別のエリアにもぐり込むと、そこは海賊版の作成者たち向けの場所ではありませんが、私はそこの何人かを知っていますが、 彼らは海賊版を作って一儲けしようという輩ではありません。でも、聴衆が本当に聴きたいと思っていながらリリースされていないものも本当にたくさんあります。

−そうねえ。なら、彼らは私に、私のテープをリリースさせればいいんじゃないかしら?

 もう貴女に接触して来た人がいるんじゃありませんか?

−確かにね、でも私は会場の関係者じゃないから。法的には多くの難題があるのよ。宝の山なのにね。

 いくつかでいいんですが、いくらぐらいするんでしょうか、可能ですか?

−私はとても……好意的よ。(笑)

 騙されているのかなあ。例えば、Francisは私に、彼はクラシック作曲家の曲を演奏するBud Powellを20時間から30時間分持って いると言いました……。

−あら、250時間分よ!

 じゃあ、あの時はますます騙されていたのかなあ。彼はレコーディングの話をしていました。それらのものは私たちが道々手に入 れたものでしたが、Francisは録音の権利を与えられた者よりも多くの録音をしていました。私は、Joe TimerといるBirdに付いている貴女と、私たち誰もが聴きたくて仕 方がないこれらすべてのものについて考えると……

−そうねえ、まもなくリリースされるわ。私はそれに関係していないわ。娘がたまたま録音のコピーを手に入れて私に持って来たの。でも、私は関わっていない。まも なくリリースされると聞いたの。

 突然ですが、利用できる宝の山について考えたくなりました。

−そうね。でも哀れね。人って、お金にガツガツすることを抜きに、一緒になって音楽について考えることができないなんて、哀れなものね。

(了)

Chan Parker


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