chan Parker

011     チャン・パーカー・インタビュー

場所:フランス   日時:1998年5月

JAZZ    ケン・ヴァ−ンズ より



チャーリー・パーカーの第一印象はどうでしたか?

あの...そう、知ってたわね、彼の噂については知ってました。ドン・バイアスがスリー・デューセズ、いや、そうじゃなくて、オニックスを去ってから、彼を待ってました。連中は“カンザスから小僧が来るぜ”って言ってたわね。そこで待ってたんだけど、バードは現われなかったわ。

それで遂に彼が見つかって、誰かが52丁目西5番地の私のアパートに連れてきたんですけど、その時私は天井を塗り直すためにハシゴに乗っていて、あのバードが私の足元にいたのよ。私もとても若かったのね。

 

彼の何に惹かれたのですか? 彼のどんな点が魅力的でしたか?

私は、いえ彼は、彼は不可抗力的だったんです。そう、男も女も誰でもがバードには“ノー”は言えないのよ。彼には生命力、信じられない生命力があって、全てのことを、支配してたわ、音楽を...知ってたの。彼のことを好きな人にも嫌いな人もダウンさせたわ、ほほ笑みながら。彼はその、彼は、私は抵抗できなかったのよ。(笑)

 

彼は音楽をどうしましたか? 彼は変えましたね。

音楽は完全に革命的でした。ジョニー・ホッジスとベニー・カーターのサウンドに慣れてたんですけど、そして、そしてバードを聞いたら、ああ神様!最初に聞いた時、そのサウンドはとても奇妙に聞こえましたけど、プレイの内容は、オー!ただただ私を圧倒しました。圧倒したのよ。

 

彼は何をしましたか?、 何を発見したんですか?、 端緒をみつけた...?

ええ、そうねえ、何年ものあいだ、オー、2/5くらいしか知らなかったわ。そう、これは技術的にね。だけど、何をしているかが遂に理解できたのは、つまり、コードの上のほうの9度、11度、13度を使ってコードチェンジを統合して演奏するのが実感できときだわ。

そうやるのが分かった人は沢山はいませんでした。だけどヴェテランの連中でベン・ウエブスターやコールマン・ホーキンスはとても良く理解しました。

 

彼は聞いていた...?

コードの上の部分をね、上のほうよ。

 

しかし技術的にだけでなく、彼を駆り立てたのは何だつたですか?

バードはそれらを探求したとは思わないわ。彼にはそのサウンドが聞こえていたと思うのよ。わかるでしょ、彼にはあの上のほうのサウンドが聞こえていたのね。それで私にもそのことはとてもわかりやすかつたのね、なぜって子供の頃ピアノを習ってバッハを愛していて、それで...レパートリーの大半を習わされたの。それからガーシュインのラプソディ・イン・ブルーもピアノ教師に習ったわ。私はもう一つのサウンドを探し求めていたのね。バードはただ上のほうのサウンドを聞いたのだと思うわ。

 

52丁目のことを聞かせてください。

(笑う)52丁目は私の生涯の豪奢な時期の一つです。そこに私のアパートがあるという巡り合わせがあって、そこには全てのクラブがあったつていうわけ。

そう、毎晩、各クラブにはふたつづつバンドが入っていたので、いつも休憩時間にはバンドの連中がアパートに来たり、ストリートを歩き回ったり、ちょっと喫ったりしたわ。それで、また次のセットを聴きに戻るのね。毎晩、音楽を聴いたものだわ。それはゴージャスでしたわ。

 

それがクラブの状況ですね?

そうなの。

 

誰を聴いてましたか?

アート・テイタムがいて、エロール・ガーナーがいて。マックス・ローチ、ドン・バイアス、ジョージ・ウォーリントンやもつとおおぜい。ビリー・エクスタイン、チャーリー・ヴェンチュラのビッグ・バンドなんかも...

 

そしてチャーリー・パーカーですね

そう、チャーリー・パーカー。

 

彼の特別な天分は何でしたか?

どういうふうな?

 

彼の音楽的天分、人間的天分。この人の何が他者と区別できるのですか?

バードは巨人でした。彼は巨人でした。今まで知った全ての人から隔絶していました。

年令よりずっと成熟していました。実際、ある日“おれは君が慣れてた若者たちとは違うんだ”と言ったので、私は“ううーっ”となりましたよ。(笑う)

彼はね、彼は支配者だったのよ。

彼の音楽の中に悲しみや苦しみを聞きましたか?

悲しみは聞きません、ノーです。皆がシナトラのバラードを聞いて悲しさを感じるようには、ノーです。つまり、エンブレイサブル・ユーのことだと思うんですけど、それは命の抱きしめで、悲しみは聞きません。私が聞くのは喜びです。

 

彼がストリートを一撃したときはどんなふうでしたか?

そうねえ、ずいぶん戦っててたようね。古典ジャズファンなんかと。(笑)

それで、キャブ・キャロウェイは常識はずれなコードと音符について記事を書いたし、ルイ・アームストロングも...,カリフォルニァに行った時なんかも、彼は正常だったのに...皆は、皆はラヂオのスィッチを切ったのよ。

 

しかし、認めた人たちもいたのでは...

おーっ、ミュージシャンね、つまり彼に打ちのめされたミュージシャンたちね、ええ。

そう、彼には追従者がいたのね。ですけど、それがバードをどんなふうにも阻害したとは思わないわ。彼は判ってた、やってること全てを判ってましたけど、全てを変えようとはしませんでした。それが彼が聞いたことです、判ってもらえます?

 

彼は至る所から感化されましたね。そうですか?

そうそう、そうなのよ。ジミー・ドーシーとかフランキー・トランバウアーとかを愛好してたし、なんとケイ・カイザーさえ好きだったわ。

 

マリオ・ランザを歌ってたことを話してくれますか?

おーっ、次のレコーディング・デイトでマリオ・ランザと共演したいなんて言って、よく家に帰って来る時に“ビー・マイ・ラヴ...”って歌いながらきたものよ。(笑)

 

そういうこともあるんですね。

ええ、まあ。

 

音楽的には満足していましたか?

どんなときでも音楽的に満足してました。いつでもね。でも、エージェントが地方巡業の時に変なリズムセクションをつけて、ピアノがどうやってプレイしていいか解らなくて、キーもBフラットぐらいしか出来ないときは、ちょっと...

 

彼には情け容赦のない追求と探求を感じるのですが...?

そうでした。テクニック的に音楽知識を拡張したい望んでました。書くのを望んでました。それで、ある日グリニッチヴィレッジにヴァレーズを尋ねて教えを乞いました。

彼は計画してたのね。フランスでナディア・ブーランジェに習いたいともしました。

ビッグバンド・フォーマットで書けるようになりたいと望んでました。

 

ディズとの関係はどうですか?特別なものでしたか?

従属関係的に...?

 

まあ、彼と欠くべからざることがあったように感じるのですが。

ノー。でもそう思うのなら、初めのうちはディズとバードは音楽的親友だったと思うわ、それでちょっとライバル的でした、だけどディズはコメディアンでコマーシャル的でしたわ。

しかし、ディジー対してはバードはどんな敵意でももったとは思いません。ディジーはバードがより偉大なミュージシャンだという事実に心のなかで憤慨していたとは確信するわ。

 

カリフォルニアで何が起こりましたか?帰ってこなかったんですが...?

バードにとつてカリフォルニアはとても面倒だったの。連中は彼の音楽を罵ったのよ。

前にも言ったように、連中はラヂオのスィッチを切り、バードはあっちですごく悪い習慣にひたって、それでヤクもなくなっちゃったのね。それで、たくさん飲むようになり、切れちゃったのね、知ってるでしょう、彼は、彼はカリフォルニアで崩壊して、カマリロに3ヵ月閉じこめられたのね。いいえ、私は信じるわ、彼は...だけど、帰ってきてカムバックしたときは本当に幸せだった、これは言わせてもらいます。

 

ドラッグについて話しましょう。何が彼をドラッグに引き込んだのでしょう?

バードは15才の時に始めたのね。それからずっとその習慣を続けたのよ。ずっと、ずっとね。事実、初めて彼に会った時もその習慣をもっていて、私と一緒の時も止めようとしたわ。時々は成功したわ。だけど、一度私に言ったの、体からは追い出せても、頭脳からは追い出せない、って。

 

彼の常用癖をどう扱いましたか?

バードは私には絶対に何も触れさせませんでした。私の前では絶対に打ちませんでした。私からは完璧に隠していたので、決して試してみようなんてしませんでしたわ、神様有難う。

 

ですが、それは嵐のような関係だったのでは...?

バードとは嵐のような生活ではありませんでした、だって私の保護者だったんですから。いつも散歩に連れてってくれたし...彼はいつも“あれは汚れた外面だ。知りたがる必要はない。”って言ってました。それで我が家にはあれは決して入ってこなかったんです。だから、バードが家に居るときは、愛情深くて、保護的で、甘い善良な父親で、ペットを可愛がって、そして...それは無かったわ、それは、信じてちょうだい。

こういうことは信じがたいでしょうが彼はけっして、けっしてあんなものは持ち込まなかったわ、それで私は何にも...彼のことは心配なかったのよ、本当に。

 

何を聞きましたか?進行中だったあの“あれ”は何ですか?

その何?

 

家庭の外で何が進行中だったかについての話を聞いたときはどうでしたか?

ええ、まあ、私たちはアヴェニューBに住んでました。だけど、いいえ、所帯の中では一切あれは影響しなかったの。

バードが世間の人々と口論になったとしても、バードはいつも正常だったのよ。そして、私はいつも彼の側だったというわけ。

 

カマリロから帰って来てから、彼はニューミュージックの中心でしたね。

そうなのバードは、バードは崇拝されてたわ。全てのビバッパーたちから追従されてた。だけど、それでもまだ仕事を取りずらかったわね。それにあの、ご存じでしょうけど、キャバレーカードの問題、ニューヨークで逮捕されたりなんかしたら仕事ができないのよね、バードには厳しい時期でした。それが地方巡業で悪いリズムセクションといつでもやらされるっていう理由になってしまって、当時ニューヨークでは働きにくかったというわけ。

 

カルト的追従にはどう反応していましたか?

おー、バードは...けっして自分自身をスターだと考えていなかったし、ファンたちをグルーピー追っ掛けだとは考えていなかったわね。彼らは...実のところ、彼は若いミュージシャンたちにとても寛大だったし、けっしてミュージシャンをおとしめなかったわ。

 

とてもたくさんの若いミュージシャンたちが彼のドラッグ癖を真似ることに失望し傷ついていたと思うんですが...?

そうなの、バードはミュージシャンたちにドラッグが回答ではないと常々言ってました。映画でご覧になるように、バードは、レッド・ロドニーが習慣にはまった時に“あれは助けにはならないんだよ。助けにはならないんだ。”って言ってました。

 

40年代と50年代のニューヨークシティで白人女性がひとりの黒人の妻であることの厳しさについてはどうでしたか?

異人種カップルであるというのはタフなことね。だけど、ユーノー、私はけっして悩まなかった。私は生涯を通じてアウトローなのよ。私はウィンチェスター郡の半ユダヤ人だって知ってるでしょ。私は市民権法が無かった時分に市民権のために立ち上がったのよ。

だから、私はただ、気にかけなかったわ。本当に私は、私は気にならなかったし、全然気に触らなかったわね。

 

何が起こり得ましたか?

そう、見てください、ひとは私たちのことを路上の変人と見てたでしょうが、バードは自分自身を誇り高く保ってました、そして私も彼が私の側に居るのだと承知していたので、私自身もあのように行動できました。そして、絶対本当に、私は私に干渉するのをけっして許さなかったのよ。

本当のところは、当時5才だった娘のせいでバードと生活をともにするのに二の足を踏みました。ああいう頃、黒人と一緒なのを心配でした。だけど現在では娘は、子供たちって色盲なのね、彼女は言ったわ“ノー、学校に行く前は吐き気がしたわ、だけど最初の朝バードは学校へ手をつないで連れてってくれてからは問題じゃなくなったの”って。それで娘はバードを崇拝しました。

 

貴女の本でカール・ユングを引用しましたね。覚えてますか?

覚えてないわ、即座には。

 

“もっともフェアでもっとも危険なことの偉大な賜物、人間性の木の果実...”ということです。

はい。

 

“それらはもっとも弱い枝である”。バードにとって悪いときは、それは悪い。バードは何に耽溺したのですか?

前後関係の文脈が理解できません。

 

ただ、一番悪い時期に関してです。それらは何でした?悪魔?違いますか?ああいうたぐいはみなかった?

いいえ。

 

ある人たちはあれについて語りました。キムが生まれた頃の噂について語っていただけますか?

ああ、キムが誕生したとき病院にいたんですけど、バードが死んだという電話がありました。その時、彼はカマリロにいました。ああーっ!どんなに、どんなに感じればならなかったか、判ってちょうだい。だけど、後で単なる噂だとわかりました。

 

彼は常に警察に付きまとわれていたようですね。連中はいつでも色々なやりかたで彼を破滅させようとしました。

たいていのアメリカ人は警察につけられてるんじゃない、クリントンをみてよね。(笑)

 

あなた方は暫らくトンプキン・スクエアの近くに住んでいらっしゃいましたね。隣人としてのバードはどうでしたか?

ええ、私たちはトンプキンン・スクエア公園の向かい側で生活してました。おおぜいのウクライナ人や少数のジプシーやユダヤ教徒がいました。

バードはそういう隣人たちとバーへ行ったりしてましたけど、誰も彼が誰だかは知らなかったわ。彼がチャーリー・パーカーだということをね。そう、名前は覚えたんだけど、彼がバードとはしらなかったので、チャーリーって呼んでたわ。バーへ出掛けてウクライナ人たちを家に連れ帰って民族音楽をもたらしたのよね。(笑いながら)彼は行った先の誰とでも適応したわ。

 

何でもしってたんですね。

そうでした。

 

皆は彼がどんなことについても語れた...車のメカなんか...

そうなの、ヨガの本以外は読書してるのは見たこともないのに妙ね。ヨガの本は今でも持ってるわ。彼は、彼は読書家じゃなかったわ。だけど、何でも知ってた...“おれは乙女座生まれなんだぜ”って言ってました。

いま思うに、どうやって知るのかしら?そう、持ってたのね彼は、彼は写真的な記憶力を持っていたとしか言えないわ。聞いたこと全てを保持したので、どんな場にも適応できたの。

 

家庭生活が彼の音楽を変えましたか?

家庭生活が?変えたとは思いません...

 

彼の感覚に強さともろさの両方ががあると感じるのですが?

バードには強さがあるんです。もろさを見いだすなんてありませんわ。全ての点で、けっしてバードにもろい壊れやすさは見いだしませんでした。もろかったとは思いません。

 

回想録の中で、ある期間彼と離れていたと述べています。彼はトラブルの渦中にあったように見えますが...?

ええ、終末に向かって、苦しんでいました。彼は潰瘍の出血に苦しんでました。たくさんの医療上の問題を抱えていました。

ですが、それは一人の人間としての彼をもろくはしませんでした。でも、バードはいつも強さを維持していたと思います、私もそうです。私は強いと思うけど、そうじゃないとも思えるし、全てにもろくないと思うんだけど...

 

そうでしょうね。なぜドラッグに戻ったんでしょうか?

ドラッグに戻った?何時?

 

ドラッグからの脱却に成功したろうとおっしゃました。ですが、押し戻されたのでは...?

ええ、そうじゃなくて、私も言ったし、バードも言っていたように、みなはあのことを心の中から取り払えないんでしょう。

バードは絶えずドラッグのバード売人につきまとわれていたんですよね。だから、そういう固定観念があるのなら、多分そうするようにそそのかされてたんでしょう。だけど、もろさでそうしたとは思わないわ。そう思うの。

 

もろさの問題は終わりにします。みなはいつもドラッグと音楽を一緒にしたがりますから。

おー、ドラッグ使用は医者が最高にやってると思いません?(笑)歯医者のあいだでは最高の自殺率じゃない?

だから、関連性があるとは思わないわ。もちろん、ジャズミュージシャンには誘惑があるわ、だって、いつもそばにいる誰かが“ヘイ、マン、試してみないか”って言うのよね。だけど、ジャズとドラッグとに関連性があるとは思わないわ。生涯を通じてジャズに巻き込まれてましたけど、ドラッグを使う欲望にかられたことなんかないわ。

 

その頃、健康が悪くなって、私は何かショック療法かなにかがあったと理解してますが?

いいえ、バードが自殺を企てた時、(自殺のことは)あったんですが、(ショック療法は)ありません。彼はバードランドのコンサートにさえ出ようとしてたのよ。

 

彼は何をしたのですか?

そう、アスピリンとヨードを服用しました。それで、ベルヴュー病院を呼んで、救急車で行きました、ズボンを切断されたんですが、とても思いやりのある医師がいました。

最初はバードが誰だかを知っている若い人がでて、それから上司の主治医がきてオフィスに呼ばれました、バードはある期間はベルヴューに入院していられるが、あとは退院するか州立精神病院だって言うの。それでそれから主治医がはっきり言うには“マダム”(これは映画でも引用されています。映画はバードが本当に言ったことをとっていますから)“ショックを施すつもりです”って言うの。そこで私は“この人は創造的芸術家です。そうはできません。そうしてはいけません。”と言いました。バードは絶対にショック療法は受けていません。私が許しません。そして、主治医が“わかりました、彼を解放しなければなりませんね”と言うので、“そうしてください”と言いました。

 

そうして、ショック療法は受けなかったのですね。

そうです。絶対、絶対、絶対に。バッド・パウエルはしました。でもバードは違います。

プリーには何が起こりましたか?

プリーが生まれた頃、彼女はいつも病気でした。医者もどうしてだかわからないんです。そこで心臓専門の小児科医をみつけて、医者は心臓に穴があいているのを発見しました。まだ、心臓外科手術がある前です。そして、今度は膿胞性線維症の徴候があるのを発見されたの、私は膿胞性線維症だったと確信するわ。

 

何がありましたか?

昏睡状態に陥って、病院に担ぎ込まれて、死んだのね。バードにはとてもつらいことでした。

 

彼の電報がありますね...

はい。

 

...胸をさすような。そういう電報を受け取って、どうでしたか?

私にとって、電報は恐ろしいものでした。ショツク状態でした。精神安定剤をもらいました。娘が入院するとき彼女のバスローブを放そうとしませんでした、それから毎時間ごとに電報がきたので私は、私は身の毛のよだつ思いでをしました。

バードもそれを理解できなかったんです。恐怖にとりつかれたんだと信じますわ、それで、それから、次の年に息子ができて...神様、その状態について考えようとすると、ひどいわ。ひどいのよ...

ううーむ。

...だけど、母が病院に検査に連れてってくれて、ある晩バードが家にきて、バードはその頃家にいなかったんですけど、“教えてくれ、息子は死んだのか?”って言うから、“ノー、ノー、ノー、。検査に行っただけよ”と言いました。

 

このプリーの死は彼を荒廃させたにちがいないと思いますが。

荒廃しました。それは、それは...

 

共演した全てのミュージシアンが教えてくれるのには、彼はあのあとただ、彼はただ...本当に変わりましたね。

ええ、プリーは一年と一週間で死にました。バードは、いいえ、彼女は...そう、そして、そのことが私たちの関係を変えました。

葬式で、私は墓から離れようとしなかったの。ただ、あそこへ一緒に行きたかった。そして、バードは腕をとったんですけど、私は“ノー”って言ったの。バードを振りちぎったのよ。

 

そのことに罪を感じましたか?

ノー。

 

ノーですか。よろしい。

はい、母親の正常な反応だと思うわ。絶対に彼女から離れまいとしたのよ。

 

ところで、彼はどういうふうに死にましたか?

バードがどうやって死んだかって?そうねえ、彼はすごく病気で、前から肺炎でしたが、仕事でボストンに行こうとしてました。病気を感じて、ニカのホテルに行き、彼女は医者を呼びました。医者が”この人は入院させなくちゃならん”と言ったんだけど、バードは病院行きを断りました。彼はあきらめたんだと思うの。心臓がギヴアップ状態だったと思うのね。命というのは苛酷すぎたのね。本当に。

 

彼にとって生活はとても厳しかったですか?

全ては...ふーっ、彼にとって生涯つらかった事は何ですかって? 子供の頃から生涯を通じてくそいまいましかったことの全ては、人種差別よ、タクシー運転手が乗せなかったりして..だから彼はキャデラックを買ったの..そういう彼を取巻く否定的なこと全部ですね。私はその、彼がかちえたので良かったのは家族と家族関係だけだと思います。

 

ニュースはどうして知ったのですか?

私は働いてました...トレントンのあるレストランで会計事務をしていました。そこでこの恐ろしいことを知りました。

実際、あの晩彼に手紙を書きました、“あなたの死については恐ろしい予感がありました。多分、一人の男としての死ではなく、一人のミュージシァンとしてのあなたの死を、です”と書いたのです。それで、家に帰る途中で、私は、ちょっと気になって、電話ボックスに立ち寄ってバードランドに電話してみたら、“いや、彼は、彼は行っちまったんだ。”って言うの。そう、バードランドから去るのはかれにとっては早すぎたのね。そう、ついでに言えば、それは別にして、あの晩バードランドでとてつもないことをやらかしたのね...

 

彼が死んだのをどう受けとめましたか?

バードランドの最後の夜、彼に連絡しようとしたんですけど、行ってしまった後だったわ。ええ、あの晩バードランドをくびになったのね、それでボストンに仕事を取ったのは知ってました。

明らかなのは、バードランドでの崩壊のあと、これから何をしようかと考えながらうろついていました。ボストンに行かねばならないと思っていたのは彼自身承知してましたけど、彼は病気でした。

それから、ニカのところへ行って、コニーズ・ウオーター(訳注;不明!)へ行って、

それからニカは彼女のところに連れてゆきました。医師がきて、“この男は入院しなきゃならん”って言ったけど、バードは拒絶しました。

そこで、彼はあちらで死に、ニカは私に連絡がつくまではニュースを公開しようとはしませんでした。ニカは私の電話番号を知りませんでしたから、私の伯父に連絡して、そこから母に連絡できました。母はあの晩私が家に戻った教えようとはしませんでした、なぜならニュースを知れば、ヒステリックになって夜の町に飛び出して交通事故になるのではと思ったのね。私たちはペンシルヴァニアに住んでました。そこで次の朝教えてくれました。

 

どう感じましたか?

途方に暮れました。そこで私は、私は子供を連れてニューヨークの母のアパートへ行きましたが、それからが悪かったの。なぜって、みなが乗っ取ったあとだった。

それで全然お金が無くて、バードの葬儀のお金が全然無かったのよ。ノーマン・グランツに電話したけど、掴まらなかった。彼はアシスタントに電話させたんですけど、それはチャン・リチャードソンに、だったので、私は完全にお先真っ暗になりました。伯父と母は娘のもやったバードがおかれた葬儀社に連れて行きました。そこで、皆で入って言ったら、移された後だったのよ。

 

無名の人として二日間死体安置所に置かれていました。

何故なら、私に連絡がつくまで、ニカは彼が誰だかをニュース・レリーズしようとしなかったから、それで第一に私に教えました。然し...

 

誰が彼のことを確認しましたか?

伯父が確認したけど、全ては私の手を離れた後でした。私は抵当物でした。

 

葬儀は?

ふふん?

 

葬儀で何が演奏されましたか?

(笑)葬儀は戯画化されてました。つまり、判ってくれる、娘のプリーの隣に埋葬したかったのに。ノー、ノーノー。ディジィーが入って来た;けっしてあれについては彼を許さないでしょうけど、ハーレムのアダム・クレイトン・パウエルの教会に彼を移したのよ。私はバードにきちんとした服を着せたかったのに、おーっ!偶発的に葬儀社入っていった時は全部終わったあとでした。

私は殆ど崩れ落ちそうでした。バードがあそこに居ると思うと立ち上がれました。それで、ともかく、ハーレムの葬儀社に行くと、連中は次の興行があるみたいに大きなサインをしました。チャーリー・パーカーのね。それから彼らはアダム・クレイトン・パウエルの教会で葬儀を挙行しました。ただ、アダムは上院議員の仕事でワシントンに居ましたから、司祭はレヴェレンド・リコリスでした。

 

彼らは何か音楽を演奏しましたか?

オルガンが“ザ・ロスト・コード”を演奏してました。ええ、友人、バードと私の友人が“バードは彼の生涯で一つでもコードを間違えなかったのに”と言いました。(笑)

 

彼の甘美さと優しさのことを書いていますが。

はい、バードはスィートで優しい人でしたわ。彼はまさしく穏やかでスィートで愛すべき人でした。彼のような人は他には見つけられないわね。

 

脳裏を去らないのですね?

彼は親愛なるゴーストです。私が何か必要だと“オーケー、バード、いま何をしようかしら”って言うの。それが起こるの。本当に。

 

グリニッチ・ヴィレッジの壁に落書がありましたね。言葉は...

“バードは生きている”です。

 

なぜバードは生きているのですか?

それは、バードがたくさんの人々を触発したから生きているんです。音楽的に人間的に。彼はまさしくこの家に住んでますし、永久に私と住み続けるでしょう。

 

彼の音楽的遺産とは何でしょう?

2百年経った後でも、皆がバードを演奏し続けるでしょうし、コピーし続けるでしょう、商業的やなにかのために少しかっぱらうでしょう。はい、バードはけっして死にません、音楽的には。

 

彼は肉体的にまさに崖っぷちにいたという噂を聞きました、アート・ブレイキーとのいざこざのことですが、聞かれましたか?

おーっ、聞きました。聞きましたわ。あれは噂話よ。

 

ただの噂?

噂話よ。

 

いざこざは無しですね。

はい、あれから何度もアートに会いましたが、罪を犯した徴候はありませんでした。

ノー、ノー、ノーノー、です。議論があったかも知れませんが、それが彼の死に寄与したとは全然思いません。

 

ニカがしたのは、誰かが言うには権威筋に連絡しなかったのは彼女の家がドラッグ使用の中心だったからだと言うのですが...?

それについてはコメントしたくありません。ニカは友人だったのです。

 

52丁目のことをもっと言ってください。クラブの飛び回り屋でしたか?

ええ、あの頃、朝の6時まで寝ないで連中と遊び回りましたわ。スリー・デューセズに自分のテーブルを持ってたのよ。それは、それはエネルギッシュで、素晴らしくて、すごい時代でした。

 

そしてバードがあなたの生活に入ってきました。その音楽は信じがたいものでした。

かれの背景は?

バードのバックグラウンド。何の?

彼が受け継いだことを少し話してください。

ふーっ!バードはニューヨークに、多分、借りたサクソフォンと少しのものを持ってきたのね。ひどい服装でした。実際、一緒だった時、よく着るものを買ってあげました。彼の素晴らしい天分を除いては何にもニューヨークに持ってこなかったわ。

 

それは驚くべきだ。

それから素晴らしい微笑もね。

 

ものすごい食欲の人だったと言われていますが。

ええ、バードはミルクをたくさん飲みました。そう、グラス一杯のミルクを飲むんじゃなくて、ボトルごとゴク、ゴク、ゴクと飲むのよ。それで、食事の時は莫大な量を食べるの。ええ、ジャンキーにあんなに食欲があるなんて、とても普通じゃなかったわ。

ほんとにバードには食欲がありました。彼は、かれはハムと豆の料理法を教えてくれましたわ。

彼は日当たりの良い日曜日を愛していて、時々、天気の日に私の伯母と母と兄弟をディナーに呼んだものです。バードにとってそれは社会的にちゃんとしている体面でした。

初めてブロコッコリーをあげた時、彼は食べませんでした。“おーっ、これは白んぼのグリーン野菜だ”って。

 

チャーリーズ・タヴァーンの話は?

チャーリーズ・タヴァーンはミュージシァンのたまり場でした。皆があそこへ行きました。バードが死んだあと、一羽の鳩が飛び込んできて止まり木みたいなところでポーズするの、あー。なんて言うのかしら?プート?

 

たる木です。

たる木ね、どうも。それで、一週間もいたのよ。どこへも行かないで。ミュージシァンは狂喜したわ。この鳩はまさにチャーリーズ・タヴァーンを宿屋にしたのね。

 

バードだったのですね。

ええ、殆どの人たちはそう思ったわ。

 

彼のニックネームはどうしてできたのですか?

おー、それはその...バードのニックネームにはこんな昔話があるんです。ジェイ・マクシャンが言うには、車で鶏を牽いちゃったのね、ヤードバードだなんて言いながら。

バードが“車を止めろ。拾え、拾って女に料理させろ”って言ったの。バードは話したわ、バードがその口から話したのを直接聞いたのは、彼の従兄は“チャーリー”って言えなくて“ヤーリー”って言うのね。それでヤーリーからヤードになりバードになったの。

判りゃしないんですけど?知りませんわ。

 

彼は生きものを愛しました。色々な資料を見るとペットと一緒の写真が多いですね。

ええ、私たちは3匹のマルチーズプードル犬と猫を2匹飼ってました、それからアフガンハウンドをつれてきて、それが馬鹿で、いつもおしっこをするので、床に流れてしまうのね。まるで川みたいで..そうしてカウチにいる私に飛び掛かるのよ。ワンちゃんは水が好きでバスタブに入ってから濡れた足でのしかかってくるの。

“バード、犬はもういいわ。”って言ったわ。何の足しにもならない。マルチーズはいつも攻撃してくるし。恒常的カオスなのよ。バードは“オーケー”って言って、ある晩雨のなかに出しに行きました。数刻して家に帰ってきて“ああ、取り除い..,”って言うの。犬の名前はモザンビーク。モザンビーク、モザンビークだったわ。“わー、すごい”って言いました。

それからだったと思いますけど、彼はワンちゃんをブルーノートへ連れていきました。一時間後に母から電話があって“バードが来て、犬をつないでから行ったわ。どうしたらいいの?”と言うの。それで、私の年老いた哀れな母はモーをピックアップに行くのにマンハッタンを横切らねばならなかったの、それからバードは家に戻りました。“さあ、彼を除外したぞ”と言いました。

 

彼の音楽に惹かれたヒップスターやビートニクたちのことを話してください。

ええ、そうね、ビートニクたちのことね、ビートニクやその本やそういうことは知りません。そういう若者たちのことは知りませんでした。彼らはただ趨勢の外側にいたとおもいます、それに...

 

バードのところに荷馬車をつないだりして?

そう、荷馬車をつないだわ。(笑)...前に言ったように、私たちは猫を二匹飼ってました。ある朝、雌が妊娠したの。そう、バードはバーへ行きました。それで話は変わりますが、オルフェとユーリディーチェの二匹がいました。そして、ユーリディーチェは子供を生みました。バードは帰ってきて、とても不思議がっていました、(溜めいきして、笑う)じっと彼らを見てました、動物が好きだったのね。

 

フランスのことを話してください。彼は思いもよらずヒーローになりましたね。

彼はフランスを熱愛していました。そしてここへ音楽とレコードの天からの贈り物をもって帰ってきて、祭られました。

母親がバードをディナーに招待したことのある人に会ったことがあります。ゴア...とか言う、バードのためにバラを飾り、本当のフランス式宴会をしてくれました。そしてバードはオマー・カイアムについてその女性と年とったフランスの僧院長に語り始めました。すると彼女は“おー、オマー・カイアムの初版本を持ってますわ、お見せしましょう”と言ったの。それで、図書室へ行ってオマー・カイアムの革装丁本を持ってきたの。それで彼に見せたら“僕に?”って言ったのね。わおー!彼女はあげるつもりじゃなくて見せるつもりで持ってきたんだけど。だけど“もちろん”と言いました。ですけどねえ...

 

ケン。

...そう、彼は、彼は受け入れられました。

 

フランス人は彼を尊敬しましたね。

そう、そして彼は、彼は言いました“俺の息子はこの国で育て上げたくないね、つまりアメリカでだけど”って。そして、彼はある晩私をさらって、フランスに来させました。

彼はここに居たかったんです。だから、その通りに、彼は此処にいます。

バードについて世界が知るべきことは何なのかとお思いですか?

彼は素敵で、暖かで、才能に満ちた、ダイナミックな人だったということです。

愛すべき人でしたわ。

 

彼は短気でしたか?

彼は短気で...いらだちを異なった形で示しました。

例えば、もし貴方を嫌いなら、彼は大きくほほ笑みながら貴方を“ジム”と呼ぶでしょう、勿論それはジム・クロウのことですが。

あるばかなドラマーと仕事をしたとき、彼が“何が起こったって、チャン、きみと一緒になりたいもんだ”って言ったのね。そしたら、バード曰く“彼女は3人の可愛い子供たちの母親でございます。”だって。わかる?そういうふうに、彼はどんな敵意を感じても、それを微笑に置き換えるすべを知ってました。(笑)

 

どうも有難うございました。

 

 

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バードとチャン・パーカー関連略年譜

1920年8月29日;

チャーリー・パーカー、チャールス・パーカーSr.とアディ・ボクスレイを両親にカンザス州カンザスシティに生まれる。

1925年;

チャン・パーカー、10人兄弟の5女として生まれる。父はヴォードヴィルのプロデューサーでロシア系ユダヤ人、母はジーグフェルド・レヴューのダンサーでスコットランド系とフランス系。チャンも10代でダンサーとなる。

1920年代末頃;

パーカーSr.は前妻との子ジョンをつれて家を出、そのまま帰らなかった。

母はチャーリーとミズーリ州カンザスシティに移り、オリーヴ・ストリート1516の木造の家(現存)に居をかまえ、ウエスターン・ユニオンの家政婦、のち看護婦となり生計をたてる。

1933〜37年頃;

バード、麻薬に手を染める。

1936年春;

バード、レノ・クラブでベイシー・バンドのレスター・ヤングに傾倒。ジャム・セッションで未熟のためジョー・ジョーンズにシンバルを投げつけられる。

1936年7月25日(土);

バード16才、レベッカ・ラフィン18才と結婚。

1937年;

バード、ジェイ・マクシャン・バンドに3週間加入。その後出入りをくりかえす。

1938年1月10日;

レベツカ,フランシス・レオン・パーカーを産む。

1939年;

バード、師のバスター・スミスのニューヨークのアパートにころがりこむ。その頃モンローズ・アップタウンハウスなどで盛んにジャムり、“チェロキー”で耳の中に聞こえていたバップに開眼。

1940年;

バード、レベッカに離縁を申し出る。

1940年8月〜11月

バード、ジェイ・マクシャンとカンザス州ウイチタでトランスクリプション録音。

1941年4月〜11月;

バード、マクシャン・ビッグバンドで正式録音。

1942年夏;

マクシャン、カンザスシティに帰る。チャーリー、ニューヨークに定住を決意。

1943年2月;

バード、アール・ハインズ・オーケストラに入団。同僚にディジィー・ガレスピー、ベニー・ハリス、ベニー・グリーン、サラ・ヴォーン、シャドウ・ウイルソン。

1943年2月15日;

バード、シカゴのサヴォイ・ホテルでディジィーとボブ・レッドクロスのプライヴェート録音。

1943年;

チャン,夫と死別した母とともにニューヨーク52丁目西7番地に居をかまえ、家はジャズメンの出入りするサロン的存在となり、チャンは雑誌で“52丁目の女王”とうたわれる。家にきたバードと初めて会う。

1943年4月10日;

バード、ワシントンでダンサーのジェラルディン・マルグェリート・スコットと結婚。まもなく疎遠になる。

1944年4月;

ビリー・エクスタイン、バンドを結成。チャーリー・パーカー、ディジィー・ガレスピー、ワーデル・グレイ、オスカー・ペティフォード など。

1944年8月;

バード、ビリー・エクスタイン・バンドを退団。この頃、レベッカと再会し、再縁を申し出るが、拒絶される。

1944年9月;

バード、52丁目のオニックス・クラブでベン・ウエブスターと共演。その頃、52丁目のハット・チェック・ガールのドリス・シドナーと出会い、まもなく同棲生活に入る。

1944年9月15日(金);

バード、タイニー・グライムス・クインテットで“タイニーズ・テンポ”セッション録音。

1945年2月28日(水);

チャーリー・パーカー、ディジィー・ガレスピー、“グルーヴィン’・ハイ”セッションをギルドで録音。

1945年11月26日(月);

バード、ニューヨーク・WORスタジオでサヴォイに“ココ”セッション録音。ドラムにマックス・ローチを得てバップの決定的演奏。

1945年12月10日(月);

バードとディジィー、ハリウッドのビリーバーグズに出演開始。

1945年2月26日(火);

チャーリー、ロス・ラッセルのダイアル・レコードと一年間の録音契約。

1946年7月29日(月);

ロス・ラッセルの“ラヴァー・マン”セッション。

カマリロ州立病院に収監される。ドリスは週3回病院に通う。チャンもきたがまもなくニューヨークへ戻る。

1947年1月末;

チャーリー、ロス・ラッセルの斡旋でカマリロから退院。

1947年2月1日(土);

ロス・ラッセル、事実上のマネージャーのチャンに手紙。快癒の近況とニューヨークでの助力を約束。

1947年3月2日(日)〜3月13日(火);

ディーン・ベネディッティ、ハイデホー・クラブでたびたびバードをプライヴェート録音。

1947年4月7日(イースター・サンデイ);

バードとドリス、ニューヨークに帰還。東117丁目のデューイ・スクエア・ホテルに落ち着き、翌年まで宿泊。

1947年4月;

バード、マイルス・デイヴィス、マックス・ローチ、デューク・ジョーダン、トミー・ポッターのレギュラー・クインテット結成。スリー・デューセズに出演。

1948年11月13日〜11月26日;

バード、JATPツアーに。ドリス同行。

1949年5月7日(土);

バード、パリ国際ジャズ祭出演のため渡欧。ドリス同行。

1949年12月15日(木);

バードランド開店。52丁目と53丁目の間ブロードウェイ1678番地。

1950年;

チャン、テナー奏者ドン・ランフェアと結ばれ、キムとともに5番外街とマディソン街東98丁目の彼のアパートにしばらく住む。バードとの交渉も続く。

1950年2月18日(土);

バードとチャン、セント・ニコラス・ボールルームのダンス・パーティで初めて公衆の面前に姿を現わす。このセッションはジョー・メイニとドン・ランフェァにより録音される。

1950年;

バードとドリスの結婚破局。ただし、3人の妻たちとは正式に離婚していない。

1950年5月;

チャン、バードと結婚。チャンの前夫ジョン・ハイマーとの間の連れ子キムとともに東11丁目のバードのアパートに数か月住んでから、トンプキンス・スクエア公園そばイースト・ヴィレジの10丁目アヴェニューB151番地に定住。

この家は現在ニューヨーク市の史蹟に指定されている。

1950年7月5日(水);

“チャーリー・パーカー・ウイズ・ストリングス”録音開始。

1950年9月初旬;

バード、ノーマン・グランツ制作・ジョン・ミリ撮影の短篇映画にでる。ヴィデオ:“インプロヴィゼーション”。

1950年11月18日(土)〜10月2日(土);

バード、スェーデンへ楽旅。シャルル・ドロネーの要請でパリへも行く。パリでは当時夫婦のケニー・クラークとアニー・ロスが面倒をみる。

1951年1月;

バード、ニューヨーク州のキャバレーカード・ライセンスを取り上げられ、クラブ出演を禁止されるが裁判所に寛容を訴える。

1951年7月17日(火);

チャン、娘プリーを出産。

1951年7月22日(日);

バード、ウディ・ハーマン・サードハードとカンザスシティで共演。

1952年2月24日(日);

バードとディジィー、ニューヨークチャンネル5TVに出演。アール・ウイルソンとレナード・フェザーからダウンビート誌アワードを受ける。演奏“ホット・ハウス”は唯一の同時録音映像。

1952年8月10日((日);

チャン、息子チャールス・ベアード・パーカーを出産。

1952年11月14日(金);

バード、ビリーホリデイ、デュークエリントン、ディジィー、スタン・ゲッツらとカーネギー・ホールに出演。トニー・スコット、ビリーと写真におさまる。

1953年5月15日(金);

カナダ・トロントのマッセイ・ホール・コンサート。バードはグラフトン社製プラスティック・アルトを使用。

1952〜54年;

単身ツアーが多くなったバードは旅先からしばしばチャンに愛の言葉とともに電報為替で送金。

1954年1月28日(火)〜2月28日(日);

バード、スタン・ケントン・オーケストラらと楽旅。

1954年3月6日(土);

娘プリー・パーカー2才死去。

1954年3月7日(日);

早朝に、ロスアンジェルス・ティファニークラブ出演中で女流彫刻家ジュリー・マクドナルドの家に奇寓していたバードはプリーの死を知り、チャンに悲痛な電報を4通送る。

1954年8月29日(日);

ストリング・セクションにいらだったバードは全員をその場で馘にし、バードランド・マネージャーから解雇される。

1954年8月30日(日);

チャンとの口論の末、バードは自殺を図り、ベルヴュー病院に入院。

1954年10月15日(金);

ベルヴューを10日間で退院し、治療中だったバードは家族とチャンの母のペンシルヴァニア州ニュー・ホープの家に移り、ベルヴューに毎日通院。堅実な中流階級を志向する。

1954〜55年冬;

クリスマス後、控えていたバードの飲酒癖始まる。みかねたチャンは子供とニュー・ホープを去り、ランバーズヴィルに別居。

1955年12月10日(金);

バード、最後の公式レコード“コール・ポータ・ソングブック”をニューヨーク市のファイン・サウンド・スタジオで録音。

1955年1月9日(日);

バード、1953年から断続的に続いたロバート・ライズナー主催のオープン・ドア・セッションに最後の出演。

1955年3月5日(土);

バードランドに出演。バード、ケニー・ドーハム、バド・パウエル、チャーリー・ミンガス、アート・ブレイキー。バド・パウエルとバードは口論し、ミンガスは演奏中止を宣告。

1955年3月9日(水);

翌日にボストンのストーリーヴィル・クラブへの出演をひかえたバードはスタンホープ・ホテルのパノニカ・ド・ケーニグスウオーター男爵夫人のところへ寄る。酒を断るバードに異変を感じたニカはロバート・フライマン医師を呼ぶ。医師は入院を説得したが、バードは強硬に断るので、ニカ母娘が看病することになる。

1955年3月12日(土);

夜、医師はバードが愛好するドーシー・ブラザースのTVショーをみるのを許す。ジャグラーのシーンで笑った時、急にむせて痙攣を起こしバードは呼吸を停止、死亡。5分後に来たフライマン医師は死亡を確認。遺体はニューヨーク検屍官事務所の手に渡る。チャーリー・パーカー34才。バードとニカには艶聞はない。

翌日の日曜日、バードの遺骸は死体公示所に移される。ニカは友人のチャンが知る前は公衆にバードの死を知らせてはならないと考え、オープンドアや他のクラブを探し回るが連絡できない。

1955年3月15日(火);

朝、嗅ぎ付けた新聞がスキャンダルとして書き立て、主任検査官ミルトン・ハルパリンは死因を肺葉性肺炎と発表。新聞が出回る直前にニカから母と伯父を通じて連絡を受けたチャンは直ちに遺骸を引き取り、72丁目のウォルター・クック葬儀社に運ばせ、マウント・ホープ墓地のプリーの隣に埋葬を計画。しかし、法律上の妻を主張するドリスが現われ、遺骸はユニティ葬儀社に移される。ディジィー夫妻などドリス側は改めて上院議員で神父のアダム・クレイトン・パウエルのバプチスト・アビシニアン協会で葬儀を行ない、その後カンザスシティに埋葬する段取りとする。

1955年3月21日(月);

葬儀、バプチスト教会で挙行。チャンは兄のジミーとトニー・スコット夫妻に付き添われ出席。

1955年冬;

ニュー・ホープに戻ったチャンは生活のため家はトニー・スコット夫婦に貸し、小レストラン“バーズ・ネスト”を開き2階に住む。

1956年;

チャン31才、ニューヨークに戻り、ダンス業界にカムバックするが年令のためうまく行かない。“チャーリーズ・タヴァーン”でフィル・ウッズと出会う。

1956年5月19日;

チャン、6才年下のフィル・ウッズと結婚。2年後、息子ガーをもうける。

1960年;

クインシー・ジョーンズのヨーロッパ・ツアーーにフィルと同行。

1968年春;

フィル、チャン、息子ガー、娘エイミーとロンドン・ケンジントンに移住。その後パリに移り、フィルは“ヨーロピアン・リズム・マシーン”で成功。家族はヨーロッパ生活を満喫。学業のためアメリカに居るキムとベアードもたびたび来る。

1971年頃;

チャンとキム、フランス・シャンモットーに生涯の家を“発見”。シャンモットーはパリから1時間の田舎で、広い敷地と田舎家を8000ドルで購入。

フィルと移住するが、彼は楽旅で不在がち。

1973年;

チャン、フィル・ウッズと離婚。チャンはシャンモットーにとどまる。

1988年;

クリント・イーストウッド監督の映画“バード”完成。カンヌ映画祭グランプリを受賞。スーパーヴァイザーのチャンも授賞式に出席。

1994年9月6〜8日;

チャン、ロンドンのクリステイーズで“チャン・パーカー・コレクション”のオークションにバードの遺品を多数出品。オープニング・パーティにはロス・ラッセル、トニー・ウィリアムス(レコードの)、スタンリー・クロウチ、ノーマン・サックス、日本からは辻、吉野、小田の3名などバードゆかりの人たちが多数参加。

席上、ピーター・キングがマッセイホール・コンサート1953で、バードが使ったグラフトン社製プラスティック・サックスを使用して、見事な演奏を披露。

8日のオークション当日の最終で辻、電話のクリント・イーストウッド、カンザスシティ市長がグラフトン・サックスを競い、エマニエル・クリーヴァー・カンザスシティ市長が93,500ポンドで落札。

サックスはカンザスシティ・ジャズミュージアムに、辻寄贈のマッセイホール・コンサート契約書とオリジナル・デビュー・レコードとともに展示されている。

1999年11月;

チャン・パーカー、シャンモットーで死去。ドリス・パーカーは2000年2月にニューヨークで死去。

 

March,2001(制作:小田)


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