012: WOODY HERMAN WITH CHARLIE PARKER
《1951年》7月にザ・ハードは典型的なワンナイト・スタンドの厳しいスケジュールをこなしながら、中西部を巡業していた。
そして、7月22日(日)にカンザス・シティでチャーリー・パーカーと競演した、記念すべきコンサートでバンドはそのクライマックスを迎えた。
ジャック・デュロング;
私はカンザス・シティでウディと別れました。それは偶然にもバンドがチャーリー・パーカーと共演した晩でした。コンサートは
バードがカマリロ病院を退院してからの最初の公演のうちのひとつだったんです。
《訳注;ジャック・デュロングはディック・ヘイファーと交代するまでのリード・テナー奏者。バードは
1947年1月末にカマリロを退院しているから、これは彼の勘違い。或いはニューヨークのどこかの病院と取り違えたか?》
ジャック・デュロングとリード・テナーを交代したのはジョン・リチャード(ディック)・ヘイファーだった。ハーマン以前はチャーリー・バーネット(1949)、クロード・ソーンヒル(1949〜50)、チャーリー・バーネット(1950〜51に復帰)
に在籍していた。
ディック・ヘイファー;
ホテルにチェックインしたんだが、バンドの誰とも知り合いじゃなかったんです。あの晩以前にはバンドの誰とも仕事をしたことが
なかったんだね。それで午前11時頃、ウディの部屋を訪ねてみたんだ。彼は“おー、やー、今日からバンドに入ってくれたまえ。
バードが今晩われわれとプレイするよ”と言うんだ。信じられなかったね!
ジャック・デュロングはバンドと別れつつあった。彼は、その晩はバンドにいてギグをこなすつもりだと思ったので、僕は彼が見せてくれるレパートリー・ブックを並んで見るつもりだった。
それで、リハーサルに行くために、1時頃、ロビーに降りて行った。ジャックはロビーにいた。ソーンヒル・バンドで一度だけ彼を見かけたことはあったんだ。
そこで、僕はチェックアウトしている彼に自己紹介しに行ったのさ。“リハーサルに行かないんですか?”というと彼は“いや、飛行機を予約してあるんですよ。
ちょっとしたことが起きて、行かなきゃならないんです。
ウディは知らないけど、もう、ここには居られないのです。だけど、君は大丈夫やれるよ”と言って、別れました。
リハーサルに行って、レパートリーの下見と手慣らしをしていたら、バードが僕のまさに横に立っているじゃないか!自慢じゃないけど、僕は譜面はよく読めるんです。
連中の音楽は僕にはとてもファミリアで、バンドのレコーディングはレコードでよく聴いていたんだ。
アービー・グリーンはテープ・レコーダーを持ってた。初期のリールからリールにかけるやつをね。彼はコンサートを録音した。僕は、そのコピーを持っている。
或る男にそれを貸したら、誰かがそれを持っていって、海賊盤レコードをこしらえたんだ。
僕は、それについては本当に怒っているんだ。
なぜって、その男にそういうことをする権利はないってことを、よく念押ししておいたからね。
あとで、或る晩、ウディと一緒の時に、テープを持っていたと言った。これはバンドを出たあとの話しなんだが。
彼に“これは、あなた自身が出すべきだ”と言ったんだ。
だけど、あの当時、バードの妻だと称する二人のご婦人がいて、法的に争っていたんだ。彼女たちは、バードの財産争いをしていたんだね。
ウディは、その渦中に入るのはご免だと言った。そうして、海賊野郎たちがレコードを出してしまったんだ。
バードは、その晩、素晴らしいコンディションだった。かれは、母親を訪ねていたところだった。
母親と居るときは、いつもしらふだった。母親があれを許さなかったからね。
僕たちは巨大な公会堂で演奏した。或る集会センターだったと思う。面白いことに、バードは何を演奏したいか判っていた。
彼が、とても驚異的だったのは、まるでウディの全レパートリーを知っていたみたいに見えていたことだ。
僕たちは、“フォー・ブラザース”をプレイした。“フォー・ブラザース”のコード・チェンジは普通の種類のチェンジじゃないことは皆が知っての通りだ。
特にサビがね。だから、バードは1回目のサビのところでは少しとまどったんだ。テープをよく聴けば判るよね。
それから2コーラス目で少しグロウルしてから、ゲットし始めたんだ。2コーラス目からはコーラスをひっぱがしたと思うね。
彼は驚異的だった。全くのところ、あるアンサンブル・パートで、やつは、アレンジャーが1ヵ月もかけて構成したものを、自在に出し入れして、最高にプレイしたね。
アレンジにはファミリアじゃなかったんで、彼は合奏のいくつかを通じて、ブローし続けたのさ。“レオ・ザ・ライオン”は2回プレイした。
2回目のはすごくグレートだった。彼は、何がどういう風に進んでいるかを聞き分けたとき、まさにアンビリーヴァブルにプレイしたんだ!。
僕たちは休憩を取り、また、彼がやって来て再びプレイした。僕らは、どうするかについて、浅い考えだったんだが、ともかく、かれが、もう1回やりたがったと言うわけさ。
1ヵ月後、僕は、ブロードウェイを歩いていたんだけど、バードには軽くあの晩だけ会ったきりだった。
ワイフと僕が散策していたら、バードが僕たちに向かって来て、歩み寄ると、“へい、ディック、どうしているんだい”と言うんだ。
彼はかつて彼が会ったすべての人たちを完全に記憶していたんだね。びっくり仰天したよ。
だって、僕のことを、あの1回の経験だけで覚えているなんて、信じられなかったから。
カンザス・シティでの出来事はそんなことです。バードは広告されてなかった。
プロモーターはバードがいることを知って、誰かがプレイするように頼んだのだと思う。確かに支払いはされたが、一般に広告はしなかったな。
あの晩、コンサートが終わった後、僕らはカンザスシティの何処かのクラブへ行って、ダグ・メットームとドン・ファガーキストが彼とプレイした。
特に、メットームはバードと親密そうだった。バードはダグがビリー・エクスタイン・バンドでプレイしていたことを知ってたからね。
あの晩のセッションのテープが今あればなあと思うね。
カンザス・シティのあと、ザ・ハードはイリノイ、ケンタッキー、オハイオと巡業を続け、8月17日にニュージャージー州アトランティック・シティのスティールピアのマリン・ボールルームのオープニング公演をした。
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*以上、ディック・ヘイファーのコメントは、インターヴューアの質問項目に答えているように感じられます。
バードとビッグ・バンド - 参考資料
Philology (It) Bird's Eyes Last Unissued Vol.23 (W853.2) ライナー・ノートより転載
1951年7月22日、チャーリー・パーカーはウディ・ハーマンの“サード・ハード”オーケストラに客演した。なんと、カンザスシティの ミズーリ側にある市営体育館がスィングしたことだろう!。
エージェントのビリー・ショーがソロイストとして送り出したか、カンザスシティの母親を訪ねたかして、街に来たのである。 その2、3日前には娘のプリーがニューヨークで生まれている。パーカーはビッグ・バンドのフロント・ラインに立ち演奏するのを 躊躇しなかったのである。 長い芸術論文が彼のビッグ・バンド経験につき書かれるであろう。
初期カンザスシティ時代に、ハーラン・レナード・バンドと演奏し、1936年にはトミー・ダグラス・バンドに入って、バードはネー ム・バンド入りを果たしている。
1937年の夏、カンザスシティ郊外のリゾート地オザークで、ジョージ・E・リー・オーケストラと演奏している。バードは彼の初期の師匠“プロフエッサー”ことバスター・スミスについていた。 スミスがニューヨークへ行ったとき、バードは短期間、バスター・スミス・オーケストラを率いた。 (訳注:おおまかに言うと)1938年から1944年にかけて、バードは彼の音楽的位置を一般に確立したジェイ・マクシャン・オーケストラで働き、有名になったのである!。
パーカーは1940年初期に6つのオーケストラ:ジェイ・マクシャン、アール・ハインズ、アンディ・カーク、ビリー・エクスタイン、ノーブル・シスル、クーティー・ウィリアムズに所属した。 パーカーはアルトとテナーをハインズとエクスタインで吹き、ノーブル・シスルではちょっとクラリネットをやった。この多くのビッグ・バンドとの共演で、バードは業界での恐るべきプレーヤーになったのである。
このハーマンとの共演時は既に多年に亘り偉大なジャズ・マスターと認識されていた。 1945年のサヴォイの“ココ”セッションや1949年12月15日のバードランドのオープンで一般に知られていたのである。
批評家でさえ、止まり木のバードを無視出来なくなっていたのである!。
パーカーは他にもビッグ・バンド経験をしている。ジーン・ローランド・オーケストラ(PHILOLOGY VOL.15)、 ジョー・タイマー(ワシントンのローカル・ドラマー、アレンジャー)の“ジ・オーケストラ”(PHILOLOGY VOL. 22)、 シカゴでのディジィー・ガレスピーへの1948年の客演(PHILOLOGY VOL.13)、そしてヴァーヴでのニール・ヘフティやスタン・ケントンとのツアー(PHILOLOGY VOL.8)などがある。
これら晩年の演奏は“お仕事”として務めたものとは全然違う。バードはゲスト・ソロイストとしてお出で願われたスターだったのである。
このバックグラウンドを前提に我々は1951年7月のウディのバンドとの共演を聴く心の準備が出来るのである。有名な“ハード”の創設者ウディ・ハーマンは、スィングからバップにかけて色々なハードの管理続行と言う難しい仕事をこなしながら、その段階的スタイル上の革命をしてきたのである。
“ブルースをプレイするバンド”の名とともに、ハーマンはスィング・アレンジと彼のクラリネット・プレイで知られてきた。 バンドは当初、アイシャム・ジョーンズがリーダーで、彼の死去とともに、ウディがリーダーと交代した。1939年、バンドはミリオンセラーの“ウッドチョパーズ・ボール”を録音した。
1944年ファースト・ハードが結成された.ファースト・ハードには次のような偉大なプレーヤーが在籍した。 すなわち、デイヴ・タフ(dr)、ビル・ハリス(tb), 若死にしたヒップなトランペッターのソニー・バーマンなどである。 バンドは“カルドニア”、“グッド・アース”のようなクラシックスを大量に提供したのである。
偉大なファースト・ハードは、ニール・ヘフティ、ラルフ・バーンズ、ショーティー・ロジャースなどのアレンジ陣を誇った。 彼らは自分たちの“ワイルド・ルート・ラジオショー”(訳注:ワイルド・ルートは男性化粧品のこと)さえ持ち得ていたのである。
セカンド・ハードは1947年に結成され、有名になった。このグループはスタン・ゲッツ、ズート・シムズ、ハービー・スチュワード、 サージ・チャロフのフォー・ブラザース、つまり3テナー1バリトンサックス・セクションをフィーチュァした。ジミー・ジュフリーはバンドのためにクラシック“フォー・ブラザース”を書いたのである。
サックス・セクションはスィング・トゥ・バップの完全な融合を示した。つまり、レスター・ヤングのスタイルを通じて濾過したビバップを創成したのである。
スタン・ゲッツのためのラルフ・バーンズの“アーリー・オータム”はゲッツのクールなリリシズムを広く聴衆に認めさせた。やがてはパーカーのレギュラー・メンバーになるレッド・ロドニーの入団とともに、トランペット・セクションはバップ色を強めた。 セカンド・ハードは1949年末にその幕を閉じたのである。
このCDはサード・ハードと偉大なチャーリー・パーカーとの間にスタイル上の違和感が無いのを示している。
ビバップは豊かに成熟していたので、その展開には何のさしつかえも無かった。人気を獲得したプレーヤーの移籍が多く、ビッグ・バンド経営は困難だった。
それでも、サード・ハードは優秀なメンバーをフィーチュァしたのである。アービー・グリーン(tb)は1954年のダウンビート新人賞を獲得し、1946年〜50年は洒落たジーン・クルーパ・バンドに在籍していた。 彼はビル・ハリスと交代した人材と言えよう。アービーはバードとのこの共演盤をテープ録音したのである。
ビル・パーキンスはジェリー・ウォルド楽団から来たテナーマンである。彼は西海岸レスター・ヤング派で、後1954年にスタン・ケントン・オーケストラへ行った。
ダグ・メットームはロイ・エルドリッジ/ディジィー・ガレスピー派のトランペッターでビリー・エクスタインのビッグ・バップ・バンドに1946〜47年に在籍し、ハーマンに加わる前はベニー・グッドマン・オーケストラにいた。 彼のグッドマンでのベスト・ソロは“アンダーカレント・ブルース”、“ハックルバック”などに聞かれる。ディック・ヘイファーはクロード・ソーンヒル・オーケストラのリード奏者を経て、1949年からはチャーリー・バーネット・オーケストラに在団していた。
最後にデイヴ・マッケナがいる。1949年にチャーリー・ヴェンチュラでキャリァを開始したマッケナは、今でもクラブやフェスティヴァルで活躍している。 彼はトップクラスのビバップ・ピアニストとして知られている。
パーカーとハーマンの共演は、バードがいて、ナチュラル・ハイ・エネルギー・バンドと化したのである! 。
今まで述べたように、初期のパーカーには長いビッグ・バンド経験が有り、それを踏まえてサード・ハードの最高にドライヴするビッグ・バンド・サウンドに乗って素晴らしい輝きを見せたのである。
バードはその晩リハーサルをしなかったしアレンジに手を加えたりもしなかった。 このことは、特に“フォー・ブラザース”(訳注:基本的に“ジーパース・クリーパース”のコード進行に基づくAフラットの曲)でコード(訳注:特にブリッジのコード進行)をキャッチするまで少しマゴつくので、証明されているのである。
March,2001(制作:小田)
DISCOGRAPHY / from Mr. Peter Losin ; Miles Ahead : Charlie Parker Sessions: 1950-1955
510722 WOODY HERMAN and his ORCHESTRA PR, concert, 'Municipal Arena', Kansas City, MO., Sunday, July 22,1951. Roy Caton, Don Fagerquist, Johnny Macombe, Doug Mettome (tp); Jerry Dorn, Urbie Green, Fred Lewis (tb); Woody Herman (cl,as,cond,ann); Charlie Parker (as); Dick Hafer, Bill Perkins, Kenny Pinson (ts); Sam Staff (bs); Dave McKenna (p); Red Wootten (b); Sonny Igoe (ds). Recorded by Urbie Green. 1st set:
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