未発表テイク VOL.7     W57.2


フィル・ウッズのルーツ 1947
イースターン・パーク・ハイウェイ 1951/52
JATP1949、 バードランド 1950、
バード・スピークス、
フィル・ウッズ・ファーストステップ 1947

収録曲

  1. WEE (4:21)
  2. COOL BLUES (3:09)
  3. Charlie Parker(as), rest unknown,Brooklyn,June,1951.
  1. INTERVIEW (20:18)
  2. Bird interviewed by Marshall Stearns and John Maher,NYC,prob. May 1,1950
  1. STUFFY (7:58)
  2. Bird & JATP,Charlie Parker(as), Roy Eldride(tp);Coleman Hawkins(ts); Hank Jones(p);Eddie Safranski(b); Buddy Rich(ds).NYC,Summer 1949
  1. CONCEPTION/DECEPTION (11:02)
  2. Jam Session, Charlie Parker(as); Miles Davis(tp);Jay Jay Johnson(tb); Brew Moore(ts);Walter Bishop(p);, Curly Russell(b);Art Blakey(ds). NYC,Birdland, June 17,1950
  1. JUST YOU,JUST ME (3:55)
  2. I'VE FOUND A NEW BABY (3:26)
  3. ROBIN'S NEST (4:35)
  4. THAT'S A PLENTY
        (I GOT RHYTHM)(3:34)
  5. JUST YOU,JUST ME (3:22)
  6. NICE WORK IF YOU CAN GET IT(3:13)
  7. YESTERDAYS,
        EMBRACEABLE YOU into
        LADY BE GOOD (5:32)
  8. Phil Woods and his Pals,
    Phil Woods(as,cl,vo,);Sal Salvador(g), Joe Raich(vib);Hal Serra(p); Chuck Andrews(b);Joe Morello(ds).

フィル・ウッズのルーツ
 ロマノフ王朝のツァーの没落から丁度30年後の1947年、モスクワでなくニューヨークは、その芸術的震源地の真上にあった。第2革命は容赦無く航行中だった。今度はボルシェビズムではなくビバップで、それはジャズに新しい世紀を画する活気に満ちたスピリットを伴っていた。そして、16歳のフィル・ウッズほどそれを賞賛した者は居なかっただろう。
 何ヵ月も何ヵ月も、或時は一人で、或時はハイスクールの仲間と一緒に、ウッズは故郷のマサチューセッツ州スプリングフィールドからニューヨークへの永い揺られた汽車旅をする。着いてから、地下鉄でロングアイランドのフラッシングヘ行き、フィルは熱望し希求しながら、ジャズの最もクールな隠遁者にしてキーボードの天才である彼の指導者レニー・トリスターノの家に到着する。ここで、盲目のピアニストの過酷な基準の刻印の元で、ウッズはその恐るべき芸術性の技術的かつ旋律的な基礎を発展させたのである。
 セッションの授業が終るやいなや、ウッズはマンハッタンに舞い戻り、地元のレコード屋に駆け込んで最新のチャーリー・パーカーかバド・パウエルの78回転盤を捜すのだ。それから、2ドルしか持たず、一人ぼっちのコカコーラの瓶を見つめながら、一晩中52丁目に座り続けるのだろうし。確かにそれは、バードがザ・ストリートに火を付ける渇望の時間だったのだ。トリスターノと同じくパーカーは感化力の強い音楽的影響力だった。皮肉なことに、育ち盛りの時のウッズはサクソフォンに何の関心も抱かなかった。亡くなった親戚から最初のアルトを相続して、彼はこれが野球のバットだったらと心中密かに思った。そして、エリントン・バンドがスプリングフィールドの映画館に演奏しに来た。微笑むシァター・ライトのもと心暖まる音楽は潮の満ち干のように流れ、ジョニー・ホッジスのアルトが奏でる甘酸っぱいフレーズはフィル・ウッズを立ちすくませたのである。霊感に導かれ、若者は地元のポルカ・バンド“カーメン・リヴォッサと彼のリズメアーズ”(または、彼の父が面白く紹介したようにカーメン・リヴォッサと彼のリヴェッターズ<くぎ打ち屋>)のサックス奏者になった。バンドは地元の空軍基地で、ナンバーワンの評判を享受した。だが、永続するはずだった名声と運勢への展望は、深遠な観念の相違が突然さらされた時に蒸発してしまった。
 ある日、フィル・ウッズが出たばかりのチャーリー・パーカーのディジィー・ガレスピーのピアノ入りの“ココ”のレコードを買った時にそれが起こったのだ。若者はバードの熱狂的で死への願望さえ秘めたようなアルト・プレイの中毒患者になり、“ココ”のレコードを7枚も買った。
 改革者の熱狂をもって、彼はそれをバンドの仲間に演奏してみせた。仲間は「これが音楽かい」と懐疑的に吠えた。フィルの反応は正に妥協のないものだった。レコードをカヴァーに入れて、彼は拗ねるように「バンドをやめるよ」と宣言した。そして、ウッズはもう一つの音楽的方向へと動き出した。「バードはアメリカのベートーヴェンだ」と完全に確信しニュー・ミュージックに献身する志の高い器楽奏者として自然にその方向へと導かれたのである。
 この録音はその頃の極めて貴重なドキュメントなのだ。
 これはフィルがトリスターノのもとで勉強中だった頃の1947年の非公式録音で、多分、彼の世代の最も崇められるべきサクソフォン奏者の高く評価されねばならない初期の音楽的ルーツを通じて驚くべき歴史的鍵穴を与えるものなのである。確かに、研究するのは大変だが、それでも時折、この録音でフィルに特有のスタイルにおける幾つかの違った構成分子の興味をそそる寄せ集めを聴くことが出来る。
 例えば、“ジャスト・ユー、ジャスト・ミー”のファースト・テイクは彼のよりスムースな面を示すベニー・カーター、ジョニー・ホッジス的なメローで洗練されたものである。“ロビンズ・ネスト”はより暖かく、フィルの1958年の“ウォーム・ウッズ”を想起させる。対照的に“ザッツ・ア・プレンティー”と“ジャスト・ユー、ジャスト・ミー”の別テイクは、このアルト奏者のホットで熱狂的な面を示している。それでも、“イエスタデイズ”のタフでとても技巧的なソロは、そのメランコリックなムードとともに正にフィル・ウッズ的として認められる。
 勿論、これらのトラックには、もう一人のスプリングフィールド出身の有名人で、伝説的デーヴ・ブルーベック・カルテットのジョー・モレロと言う仲間もフィーチュァしている。“エンブレイサブル・ユー”の浮かれ騒ぐヴォーカル・デュエット(ジョーが歌い、フィルが合いの手を入れる)と“レディー・ビー・グッド”は、この録音が行なわれている時のリラックスしたインフォーマルな雰囲気をよく伝えている。また、彼等は二人の友情の絆を強調していて、これはジョーが彼の最初のソロ概念を提示した“イッツ・アバウト・タイム”を録音した時、フィルが演奏だけでなく作曲しアレンジしたことにも適合する。この“フィルのルーツ”録音から30年たった1977年11月27日、マサチューセッツ州スプリングフィールドの町は故郷の産んだ最大のミュージシャンを記念して、この日をフィル・ウッズ・デイとしたのである。その時すでに、ウッズは権威有るグラミー賞の三回授賞者であって、疑いなく最もポピュラーで高く尊敬された現代のジャズ・ミュージシャンであり、今も有り続けている。
 ディーン・ベネディッティがバードの音楽の録音と保存に精力的に献身したと同じように、パオロ・ピアンジァレッリもフィル・ウッズの音楽の保存とプロモーションに関わっている。
 この録音をリリースするのに、何の商業的理由はないのである。音楽の水準により世評が高まると言うことは、先ず無いだろう。従って、それ故にこそ、この情熱的なジャズ考古資料はフィルとパオロの信頼の印である。
 我々は心から彼等の勇気と高潔さに拍手を贈るものである。
 Dr.デヴィッド・ワディントン、
     シェッフィールド、イングランド.
 1991年3月   訳:小田 弘一
訳注;
1、フィル・ウッズ9の“ザッツ・ア・プレンティー”は同名のディキシー曲ではなく、“アイ・ガット・リズム”コードのフリー・ブロウイング曲で、冒頭にパーカーのリフが4小節ほど有る。
2、“ジャスト・ユー、ジャスト・ミー”の別テイクとされる10は筆者の勘違いらしく、聴けば判るとおり“ブルー・ルー”である。

バード・インタヴュー
  BY マーシャル・スターンズ

MARSHALL STEARNS:......17歳になった時、自動車旅行をして事故に遭いましたね.カンザスシティでですか?
CHARLIE PARKER: ミズーリ州のカンザスシティとジェファーソン・シティの中間です。
M.S:ギグか何かで?
C.P:そう、感謝祭のギグに行く途中で事故に遭ったんです。
M.S:何があったの?あばら骨を何本か折ったの?
C.P:3本あばら骨を折って、背骨の骨折もしたね。
M.S:君の年で、それは大変でしたね。
C.P:そう全く。皆はボクがもうまっすぐ歩けなくなると思ったんですが、今は全く大丈夫です。
M.S:それで君は仕事を貰って、勉強もしましたね?
C.P:そう、皆に笑われましたけど、そこで仕事をもらったんです。どうやってプレイするかわかって、ほんとにやりました。スケールを習って2曲を一寸したキーでプレイするかをね。サクソフォンのDのキー(訳注:コンサートキーのF)だけど。ボクは“レイジー・リヴァー”の初めの8小節をどういう風にプレイするか習ったし、“ハニーサクル・ローズ”は全部できました。ボクは違うキーでやるなんてことは全然知らなかったんです。そうしてボクはホーンを持出して、そこら辺でやっていた若い仲間連中の所へ出かけました。連中が最初にプレイし始めたのは“ボデイ・アンド・ソウル”で、それからボクが自分の“ハニーサクル・ローズ”をやったんだが、これが恐るべきもんでしてね。バンドスタンドで笑われ、あんまり笑われたんで打ちのめされて参ってしまったんです。
M.S:その時何歳?
C.P:16か17歳でした。
M.S:事故の前だった?
C.P:ええ、事故の約1年前です。
M.S:サックスは何処で手に入れたんですか?
C.P:そう、母が何年も前に買ってくれたんですけど、興味が無かったね。ハイ・スクールに居てバリトン・ホーン(訳注:サックスでなくブラスバンド用)に興味を持つ前はサクソフォンには興味が無かったです。だけど、あのサクソフォンは2、3年の内にやるようになりました。
M.S:何処のハイ・スクールに行きましたか?
C.P:カンザスシティです。
M.S:ハイ・スクールのマーチング・バンドでプレイしたんですか?
C.P:はい。
M.S:ハイスクールのシンフォニー・バンドでプレイしましたか?
C.P:ええ、皆がシンフォニー・バンドって呼んでたバンドでやりました。
M.S:バリトン・ホーンで?
C.P:そうです。バリトン・ホーンです。
M.S:君は“ハニーサクル・ローズ”を習った。最初の8小節を習ったのは何の曲でしたっけ?
C.P:“アップ・ザ・レイジー・リヴァー”ですよ。
M.S:そこで君はとても無邪気だったから......。
C.P:ボクはキーに違いがあるなんて思ってもいなかったし......。
M.S:何ていう話だ。
C.P:おう、ボクは曲を殺しちまったんだ!
M.S:誰と一緒でした?入っていったのは何と言うバンド?
C.P:そこで仕事をしていたバンドで、カンザスシティ辺の若い連中でした。そう、ジミー・キーズ・バンドだ.ええと、ピアノのジミー(ローレンス・エイティーエイト)キーズにロバート・ウイルソン(訳注:1904年生まれ、クラリネット・アルト)、ジェームス・ロス(トランペット)、シッピー・ガヴァンが居たな。皆カンザスシティのそのクラブで仕事をしていた。そう、そうだった。
M.S:それで、その後、君は家に帰り、そして仕事に出た?
C.P:はい、仕事に出なければと判ったし、何か形になる仕事をしなければと思ったんです。
M.S:それで家を出て......そこで働いたのは2ヵ月か3ヵ月でしょう?
C.P:そう、2、3ヵ月働きに出ました。
M.S:働きに出たと言うけれど、何処へですか?カンザスシティの外へですか?
C.P:そう、仕事についたんです。町の名はジェファーソン・シティから約35マイルのミズーリ州エルドンで、そこはリゾート地でした。サマー・リゾートです。そこで夏中過ごしました。
M.S:そこで演奏しながら勉強する機会を得たのですね?
C.P:はい。
M.S:キミがプレイした頃、彼等のところではCメロディー・サックスはやってなかった?
C.P:いや、やってました。‘32年か‘33年にはアルト・サックスよりずっと人気がありましたからね。
M.S:ところでチャーリー、君がお父さんのことで覚えていることを聞かせて下さい?君が育ち盛りの頃は居ましたか?
C.P:何年かはね。ボクが結婚して子供が生まれた頃に死にました。
M.S:チャーリー、お父さんはどんな仕事をしていたんですか?
C.P:彼は何て言うか......元気な頃は汽車のウェイターでしてね。カンザスシティからサンタフェ行きとか、カンザスシティとシカゴ往復とか、ロサンゼルス往復とか、フロリダ・テキサス往復とかですね。彼は結構教養が有って、2、3ケ国語を話しました。
M.S:何か楽器はやりましたか?
C.P:いや、うんと若い頃はダンサーでして、サーカスで働きました。
M.S:それで、お母さんとカンザスシティで会ったと?
C.P:そう、カンザスシティで出会ったんです。
M.S:母上は今どうしてますか?未だ、ご存命ですか?
C.P:はい、生きてますとも。
M.S:お元気で?
C.P:はい、母は2ヵ月くらい前に看護婦学校を卒業しました。母は62歳で看護婦学校を卒業したんですよ。とても活動的です。彼女は全てにおいて非活動的には見えません。ボクなんかよりずっと元気だな。めったに病気をしないし、いい気候の所に住んでいて、自己管理をちゃんとしてるし、自分の家も持ってます。
M.S:チャーリー、君には兄弟か姉妹はいますか?
C.P:兄弟が居ます。
M.S:年上?年下?
C.P:年上のほうです。
M.S:お兄さんは何か楽器をやりましたか?
C.P:いや、彼はカンザスシティの或る郵便局の郵便検査官です。
M.S:お母さんはとても活発でエネルギュッシュな方ですねぇ?そう言うことが君の全力疾走の由縁だったと思ってもいいですね?
C.P:まあ、そういうことです......。
M.S:君のお父さんはダンサーだった......それはリズミックだったと言うことで......これも説明の一部にはなるな。
C.P:そういう事になるかな。

バード・インターヴュー
  by ジョン・メーア

JOHN MAHER:マーチング・バンドで4拍子のリズムをプレイしていた時のことを?
CHARLIE PARKER:ボクがハイ・スクールに入って最初に興味を持ったのが音楽でした。それでアルト・ホーンを与えられました。プク、プクと言うやつで......そこでボクの興味はバリトン・ホーンになりました。つまりバリトン・ホーン奏者が卒業したので、ボクがバリトン・ホーンをやるようになったんです。
J.M:それは大きいの?チューバみたいだったかな?
C.P:ええ、でもチューバ位じゃなくて、チューバとアルト・ホーンの中間くらいだったね。とても大きかったよ。
J.M:演奏する君を想像出来ないな!。リード楽器を手にしたのは何時頃ですか?お母さんがサクソフォンをくれたのは何時頃ですか?
C.P:その頃、サクソフォンを持ってましたけど、貸してなくなったんです。その頃ボクの友達がサクソフォンを演奏していて、バンドを持っていたから、彼がサクソフォンを借りました。2年以上も借りたままでね。ボクがハイ・スクールを出ちゃってから後の多分1年くらい持ってました。35年にハイ・スクールを飛び出して、あの年は色んな事が有って、ボクはホーンを手に入れて、それで結婚しちまいました。
J.M:何年の生まれ?
C.P:1920年です。
J.M:36年には何があった?ハイ・スクールを卒業しましたが、その頃もうサクソフォンをやってたんでしょう?
C.P:結婚しちゃって。そんな事が多かった年です。
J.M:それはみんなカンザスシティで?
C.P:そうです。
J.M:40年頃のカンザスシティのことは良く知らないんですが、ハーラン・レナードとジェイ・マクシャンなんかのことですが、その頃はジェイ・マクシャンでしたっけ?
C.P:ええ、その頃マクシャンに居ました。マクシャンはその頃ビッグ・バンドじゃなかったかな?
J.M:7人か8人編成でした。
C.P:そう、そのバンドに居ました。カンザスシティ市外のプラザだったかな?
J.M:はい、あのバンドを聴きに行くのは市外に行かなきゃならなかったです。そこで聴いたんですが、君が居たとは知らなかった!ところで、そう言うレコーディング・デイトのことを知りたいですね。どういう事が有ったか?ラバーレッグス・ウィリアムスの事なんかを......。
C.P:彼はホントにやりましたね。コーヒーのことで一寸ごたついて。コーヒーが容器入りだったな。コーヒーとサンドウィッチが容器入りで届いて、皆がサンドウィッチを食べたので、ボクはコーヒーを椅子の脇において中へベンゼドリンを落したんです。それで溶けるのを待ってました。ラバーレッグスは腹ペコだったのでコーヒーのお替わりのためにボクの分を自分のに混ぜました。約20分たって、フラつき始めたんですよ!ラバーレッグスはホントに忙しくなったね。そりゃー面白かった。
J.M:彼はキチンと歌いましたか?からかうような調子になったんじゃないですか?
C.P:全然そうじゃ無かったね。つまり、もしそうなってたら、違うスタイルで歌ったはずだから。彼がノーマルの時のレコードを聴いてる?
J.M:もっとスムースに歌ったと?
C.P:まあ、よりスムースにね。
J.M:君のレコードでトラミー・ヤングと一緒のがあるけど覚えてますか?オール・スターズだったですね。マナー・レーベルで出ましたけど?
C.P:そう、コンチネンタル・レーベルだったな。ボク達は“ドリーム・オブ・ユー”と“セヴンス・アヴェニュー”と、それから他に2曲やったね。
J.M:ハインズ・バンドとビリー・エクスタイン・バンドより面白かったですか?
C.P:ボクが思うにビリー・エクスタイン・バンドとやるより面白かったけど、ハインズ・バンドはよりスムースだったです。
J.M:タイニー・グライムス・セッションのことですが......君は“レッドクロス”と“タイニーズ・テンポ”やなんかをやりましたけれど、あれから名前が載るようになったですか?
C.P:連中はそうはしなかったと思いますが。
J.M:まあ、昔話ですが.君はレーベルを権利化出来ないが演奏を権利化出来ますよ。一度は君の時間を売ったんだから......そうですよ、チャーリー。“モップ・モップ”が君のアイデアだと言うのは本当のこと?。レナード・フェザーは“モップ・モップ”は君がやってた事の内の一つで、それを他人が取り上げたと言ってます。
C.P:有り得るなあ。だって、ずっと以前からカンザスシティでやってたんだから。
J.M:カンザスシティで“モップ・モップ”をやったと?
C.P:何年も前にね。あれはドラムのビートのフレーズを使ったんだ。
(訳注:この辺でCDでは女性を交えたジーン・ローランド・セッションの世間話などが有る)
J.M:ニューヨークでビッグ・バンドのビッグ・サウンドを録音するのは難しいと感じませんか?充分良いスペースが少ししかないからかな?
C.P:正にその通り。最初の理屈として、僕等はもっと快適なスペースを持つべきです。そう、もっとソフトに感じられる何かが有る。うん、みんな悪いな。だって、ヨーロッパじゃこっちでやってるより良いバランスで録れるから。あっちでは、大きな寺院、古い聖堂、古い教会で録音するんだ。チェンバー・スペース以外は無いんだ。エコー・チェンバーだな。それで彼等はビッグでファットなサウンドを作るんだ。

  訳:小田 弘一

訳注:
1、ロス・ラッセルによるとマーシャル・スターンズが初めてバードと会ったのは1948年4月にオニックス・クラブでラッセルが開いたパーティーに招かれた時で、スターンズは当時コーネル大学の英文科助教授でチョーサー学者でありイギリスの詩人ロバート・ヘンリソンやディラン・トーマスの権威で、アメリカきってのジャズ史研究家だつた。また、イェール大学でアメリカ最初のジャズ・クラブを作り、ジョン・ハモンドを育てた、とある。バードが例によって、トイレでこの学者に小遣い銭をせびる件は興味深い。ジョン・メーアについては識者のご教示を得たい。
2、インターヴュー時期はライナー・ノートには多分1950年5月1日とあるが、バードが1ヵ月くらい前にジーン・ローランド・セッションが有ったと言っているから間違いないだろう。CDで聴けば判るように会話の途中でしばしば女性と子供の声がはいる。これはチャンと連れ子のキムではないかと思われる。その中でチャン?がジーン・ローランド・セッション(1950年4月3日)のメンバーの名前を詳しくあげる。又、ビールやサラダを薦めているから場所はバードの家庭ではないか。住所はアヴェニューB115番地の現在は国指定のアパートではなく、11丁目東422番地かその前の52丁目西7番地の家だろう。
3、インターヴューの内容は現在では周知のものだが、こういうものを後で検証分析して今の資料があるのだから、やはりバードの肉声とともに貴重である。