未発表テイク VOL.21     W851.2


バード・オン・TV!
(未発表“バード・オン・ブロードウェイ!”完全版)
バンドボックスのバード(完全版)

収録曲

  1. BIRD'S CONVERSATION into
        NOW'S THE TIME(3:24)
  2. LOVER (2:52)
  3. I CAN'T GET STARTED (2:30)
  4. JAM(BLUES) (2:34)
New York City, Metronome Award Show,
WPIX TV February 21st, 1949
  1. ANTHROPOLOGY (1:50)
  2. BOP CITY (1:08)
  3. I GET A KICK OUT OF YOU (2:40)
  4. BIG FOOT(4:33)
New York City, Adventures in Jazz,
CBS TV March 4th, 1949
  1. ANTHROPOLOGY (1:50)
  2. DONNA LEE (1:42)
  3. BLUES(Traditional) (2:00)
  4. ALMOST LIKE BEING IN LOVE (1:56)
New York City, Broadway Open House,
Channel 5 TV October 31st, 1950
  1. HOT HOUSE (4:34)
NYC,Downbeat Award Dumont TV,
Channel 5, February 24th, 1952
  1. COOL BLUES (1:58)
  2. BERNIE'S TUNE (2:49)
  3. DON'T BLAME ME (3:24)
  4. WAHOO (3:28)
Montreal Jazz Workshop Program CBC TV,February 5th,1953
  1. YOUR FATHER'S MOUSTACHE (5:10)
NYC,Bandbox,February 16th,1953
  1. GROOVIN' HIGH (3:49)
NYC,Downbeat Poll Winners 52 Bandbox,
March 23rd,1953
  1. THEME (CARAVAN/COOL BLUES) into
        STAR EYES (6:12)
  2. THEME (MY LITTLE SUEDE SHOES) into
        ORNITHOLOGY (6:08)
  3. THEME (52nd STREET THEME) into
        DIGGIN' DIZ (5:26)
  4. THEME (52nd STREET THEME) into
        EMBRACEABLE YOU (3:34)
NYC,Bandbox, March 30th, 1953

 バーズ・アイ・シリーズはバードと彼の素晴らしいファンたちへのフィロロジーからの愛の使者であります。
 フィロロジーは常にバードの音楽のどんな新しい囁きでも皆様に提供出来るよう心掛けております。この使者は更なるハードワークと情熱を必要としていますが、それはパーカーの天才であることに負っているのであります。我々に課された務め、即ち皆様方と私自身でありますが、は容易なことではありません。そこで私達は貴方かお知り合いの方が何か未発表のバードのことを私どもに書くか話すかして下さることをお頼みいたします。
 それは、もう演奏することがない亡きパーカーからの音楽の贈り物を分かちあうことになるからであります。
 皆様の御援助と継続する御支援に感謝いたします。
 情報は DR. ROBERT BREGMAN, 70
DELISLE AVE.,SUITE 714,TORONTO,
ONTARIO,CANADA.
まで御寄せ下さい。
 パオロ・ピアンジァレッリ
オーナー/プロデューサー、フィロロジー・レコード

バード・オン・TV(完全版):
1949年2月21日:
 テレビジョンの初期にパーカーはTVショーに出演したが、残された唯一の歴史的映像と音声は今のところディズと共演した1952年2月のメトロノーム誌の授賞式のために出演した際のキネスコープ(訳注:当時は未だビデオ・テープが無かったため、1秒30コマのTV画面に同調させ16mmフイルムで画面を撮影したもの、日本ではキネコと称している)だけである。
 1949年2月21日、バードはメトロノーム誌ポール・ウィナー授賞式のためニューヨーク市のWPIX局に出演した。その際の貴重なワイアー・レコーディングによる記録が残されたのである。
 授賞式は高名なフランスのディスコグラファー、シャルル・デロネイにより行なわれた。ショーのMCはベーシストのチャビー・ジャクソンである。
 一寸したやり取りの後、ジャクソンは“7日前にロイヤル・ルーストで”パーカーの演奏を聞いたナウズ・ザ・タイムをリクエストする。我々はその夜のルーストの演奏は持っていないが、2月12日の出演分はある。バードは1948年12月から1949年3月にかけて一週間のベースでルーストに恒常的に出演しているので、この頃のシンフォニー・シッドのショーの大部分は現存しているのである。
 “ナウ・ザ・タイム”はTVショーの短い時間であるが貴重なものである!。ショーの興味深い点はバードが“ラヴァー”をテッド・ヘイルのタップダンスのために演奏している部分である!。それは実にミスター・ヘイルにとっても最良の一刻だったであろう!。
 “アイ・キャーント・ゲット・スターテッド”でバードはショーティー・シャーロックのバックにいて、それは直にバップとディキシーのプレーヤーによるジャム・ブルースへとつながる。
 シドニー・ベシェがとてもレスターのように聞こえるサウンドでスィングするのが聴かれる。パーカーのソロは無い。

1949年3月4日:
 この日、提供された、WCBS局の“アドヴェンチュアズ・イン・ジャズ”も又、生き残りのワイアー録音である。
 MCは良く知られたニューヨーカーのウィリアム・B・ウィリアムズで、元気よく進行する。ショーのテーマは当時ファミリァだったバップ対ディキシー合戦で構成された。バードはマックス・ローチのドラムに乗って、当時のダイアルの78回転レコードにある“アンソロポロジー”の短いがご機嫌な演奏で飛び回る。
 バードは「ロイヤル・ルーストA.C.から来たヤードバード」と紹介される。A.C.はアスレチック・クラブの頭文字で、バードはその週ルーストに出演していたのである。A.C.と言う言葉はNYACニューヨーク・アスレチック・クラブという名のセントラル・パーク南の白人専用クラブへの無造作なコメントだったのであろう。バードと仲間がはいれたただひとつのA.C.は52丁目だったのである!。
 ベース奏者は不明だが多分バードとルーストに出演中だったトミー・ポッターであろう。次の曲“バップ・シテイ”は天性のトロンボーン・プレーヤー、ケイ・ウィンディングのスムースなサウンドがフィーチュァされる。バードはいない。ヴォーカルのアン・ハサウェイが次に“アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー”を歌う。MCがケーリー・グラントの物真似をしながら、バッパーとディキシーランダーのジャム・ブルースへと移行する。マイルス・デイヴイスはバッパーに参加し“ビッグ・フット”のメロデイからソロに入る。クラリネットの素敵なソロはジョー・マーサラである。パーカーの演奏はタイトなものである。そして我々は1949年12月15日のバードランドのオープニングでバードとステージを分かちあったマックス・カミンスキーのトランペットを聴くことが出来るのである。

1950年10月31日、
ブロードウエイ・オープン・ハウス:
 この本当に希少なTV初期のパーカーはハロウィーンの日に録音された。
 ショーのホストはディーン・マーティンとジェリー・ルイスのパロデイで人気のジェリーとバデイ・レスターであった。このチャンネル5局の放送録音の存在は2、3年前まではコレクターの間でも噂にもなっていなかったのである!。
   パーカーの伴奏はアコーディオン奏者ミルトン・デラッグの率いるスタジオ・バンドである。レイ・マローンが“ドナ・リー”でタップダンスを披露する。
 パーカーはレスター兄弟が言うようにバードランドに出演中で、兄弟はそこで聞いた“アンソロポロジー”をリクエストする。またもや曲は制限された放送時間のため短い。
 その晩の呼び物はタップのレイ・マローンで、バデイ・レスターはバードのことを歌う奇妙なブルースをやり、ショーはレスターとデラッグのバックでオブリガートをつけるバードで終わる。後者が“オルモスト・ライク・ビーイング・イン・ラヴ”を歌いながら終わるのである。タップダンサーを使用してナイトクラブのMCが曲をリクエストすると言うショー構成は、このCD前年のメトロノーム・アワード・ショーにとても似ている。しかしながら、これは全てのコレクターにとって正に必携の希少品なのである。

1952年2月24日:
 さて、この有名なレナード・フェザーとTVタレントのアール・ウィルソンによりバードとディズにプレゼントされた、1951年度ダウン・ビート・アワード(訳注:この賞の現物は1994年9月8日ロンドン・クリスティーズのオークションにチャン・パーカーから出品された)授賞式の模様がデュモントTVチャンネル5で中継され、その映像と音はバードの唯一の現存するキネコである。
 そのハイライトはアール・ウィルソンのおせっかいな介入に対するバードの明白な苦みと感受性を示した場面である。(訳注:バードが「百の説法より音楽が全てを語ります」の意の言葉を言うのを指す)
 リズム・セクションはディック・ハイマンのピアノ、サンデイ・ブロックのベース、チャーリー・スミスのドラムであった。このキネコは色々なジャズ・ヴィデオになって広く入手可能である。この晩の演奏は“ホワット・イズ・ジス・シング・コールド・ラヴ”のコード進行でタッド・ダメロンが書いた“ホット・ハウス”で、電光のような指使いをしながら不動の姿勢で吹くバードの映像が見られるのである。

1953年2月5日:
   次に我々は国境の向こうカナダのモントリオールへ行く.ここでバードはモントリオールをベースに下ジャズ・ワークショップに出演したのである。
 ワークショップは地元のCBFT局に30分の番組を持っていた。ショーのプロデューサーはピエール・メルキュールで、監修者はDJでラジオ俳優のドン・キャメロンだった。このテープはモントリオールのミュージシャン、キース・ホワイトがTV放送を録音したことで生き永らえたのである。
 永年にわたり、キネコの存在が噂されてはいたが、その後の調査ではキネコはCBCスタジオで裁断されてしまったことが示唆されているのである!。
 このセッションのデテイルとカナダでのパーカーの様子はカナダのナイトウッド・エディションズで出版されたマーク・ミラー著“クール・ブルース、チャーリー・パーカー・イン・カナダ 1953”に詳しい。また、“チャーリー・パーカー・イン・モントリオール”という題名の、素晴らしいアップ・タウン・レーベルのCDが入手可能である。(ライナーノートには“エンブレイサブル・ユー”の楽譜入り分析がある)
 サウンド・クォリティーは良好で、パーカーの放映と言う“愛の労働”をしてくれたプロデュサーは神に祝福されるべきである。
 1953年2月5日、ポール・ブレイ(p);ディック・ガルシァ(g);ニール・ミショー(b);テッド・パスカート(dr)にサポートされたバードとブリュー・ムーアは特別の瞬間を現出させた。ドン・キャメロンがカナダへの最初のツアーかと尋ねると、バードは「年に何回も」と答える。新聞広告を調べると、バードはエロール・ガーナーと1944年にトロントのマッセイ・ホールに出演していると言うから驚きではないか!。
 ああ、その演奏が残っていたら..........!。v  パーカーは素晴らしい“クール・ブルース”で始め、この日の彼のエネルギー・レベルは高い。“ドーント・ブレイム・ミー”(訳注;最初の録音は1947年11月4日で、有名なマイルス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチのクインテットによる)を演奏し、ブリュー・ムーアが(“ワフー”のリフで始まる)“パーディド”で加わる。ムーアは“バーニーズ・チューン”でも単独でソロをする。
 全部が全部とも偉大な演奏である!。

バンドボックス:
 ザ・バンドボックスは51丁目と52丁目の間で52丁目のはずれにあったクラブである。名前は多分、バードがジェシー・プライスとプロフ・バスター・スミスと共演してキャリアのスタートを切ったカンザスシティのクラブ“ルシールズ・バンドボックス”にちなんだものであろう。ジェイ・マクシャンはピアニストとして1937年に短い逗留をしているのである!。
 このニューヨークのバンドボックスのセッション良好な音質のラジオ放送であって、オリジナル録音者により保存されていたのである。
 最初の一曲は1953年2月16日の演奏で、バードはティンパンアレーのノヴェルティー・ソング、“ユア・ファザーズ・ムスタッシュ”でソロが聞かれる。ビル・ハリス&チャビー・ジャクソン・ハードのゲスト・ソロイストとして参加したからである。バードはどんな環境でもプレイが出来ることを示す。

 1953年3月23日の分で、バードは再びオルガンのミルト・バックナー・バンドのゲストとして現れる。ショーは1952年度ダウンビート・ポールウイナー・ショーとして行なわれホストは引き続きレナード・フェザーであった。1951年度と同じ趣向だったが、TV放映ではなかった。パーカーは“グルーヴィン・ハイ”をブローする。
 1953年3月30日の分には、バードが自己のカルテットで、このクラブから行なった、より長い演奏が納められている。
 ショーの名は“ジャズ・キャラヴァン”で、アナウンサーはボブ・ギャリティーである。ギャリティーは多くのシンフォニー・シッド・ショーの放送にフロントマンとして出ている。レナード・フェザーが再びMCである。
バードはレイ・デポールの曲“スター・アイズ”でスタートする。演奏は美しいものである。(パーカーは1950年春、ヴァーヴにこの局の最初の録音をした)。この愛らしい曲はバードのロマンチックな側面を強調している。バードは“キャラヴァン”、“マイ・リトル・スェード・シューズ”、“52ndストリート・テーマ”をテーマとしてうまく使い隙間を埋めている。バードは“オーニソロジー”をきれいなフォームで演奏し、同じコード進行の“ハウ・ハイ・ザ・ムーン”のメロデイで締めくくる。ボブ・ギャリティーはバンドボックスへ来るよう宣伝し、クラブは51丁目と52丁目の間にあるとアナウンスする。
 そして4月3日にはビリー・エクスタイン、カウント・ベイシー・オーケストラ、デイヴ・ブルーベック・カルテットが出ると言う!。何と言う組み合わせだ!。
 次の曲につきレナード・フェザーは「それには全く歴史があります」と言う。“ダイナモA”とリストされる曲はフェザーが正確に思い出すように“ディジィー・アトモスフェア”の別タイトルで、バードがディズと“何年か前に”録音したものである。パーカーはそれからフェザーに間違いをしたと告げ、実際の所“ダイナモA”は“ラヴァー”のパロデイなのだと言う。
 パーカーは二つの曲がされたと言い続け、ひとつは“ダイナモA”と呼ばれ、もうひとつは“ダイナモB”で、違うコード構成なのだと言う。パーカーはレナードに“ダイナモA”か“ダイナモB”が聴きたいかを尋ねる。(訳注:よく聴いてみると「何年か前にロサンゼルスで録音し、二つともラヴァーだ」と言っているようだ)
 バードは“ダイナモB”は“ラヴァー”であると決めてかかるが、事実は曲はここにあるように“ディギン・ディズ”である。そして“ダイナモB”は“ディジィー・アトモスフェア”の別タイトルでこの曲はブリッジの部分が少し変えられているいるものの“アイ・ガット・リズム”のコード進行に基づいている。
 然し、パーカーはこの晩のバンドボックスでの曲で正確である。でも、彼は間違って“ダイナモA”と言い続ける。それは“ディジィー・アトモスフェア”の別タイトルなのに。  バードが演奏する曲はダイアル・レーベルに彼が録音したビバップ版“ラヴァー”の“ディギン・ディズ”なのである!。
 “ダイナモB”は“ディジィー・アトモスフェア”の別タイトルで、1946年にディジィー・ガレスピーがバード抜きでダイアルに録音したものなのである。
 謎をフレッシュに解読するために、我々は1946年に録音された最初のダイアル盤に戻らねばならないのである!。
 つまり、1946年2月5日、ロス・ラッセルはカルフォルニア州グレンデールのエレクトロ・ブロードキャスティング・スタジオでリハーサルのスケジュールを組んだのであって、リハーサル時のバードとグループはディジィー・ガレスピー、ラッキー・トンプソン(レスターの代わりだ!)、ジョージ・ハンデイ(p);アーヴィン・ギャリソン(g);レイ・ブラウン、スタン・レヴイ(ds)のメンバーである。
 この日、録音された唯一の曲はテスト盤の“ディギン・ディズ”(ダイアルmix D1000)で、“ラヴァー”のコードに基づいた曲である。これは後に、ディジィー・ガレスピー・ジャズメンの名で発売された。パーカーとガレスピーは、このレコーディングの時、ビリー・バーグ・サパー・クラブでの仕事をやり終えて、ウエストコーストに居たのである。  パーカーは、この月、フイナーレ・クラブに居たマイルス・デイヴイスと共演し、これはフィロロジーVOL.18にある。
 次の晩2月6日午後8時に、このグループの最初のレコーディングが行なわれた。だが、契約上のリーダー、ジョージ・ハンデイはパーカーの居場所が解らなくなってしまった。最初のダイアル・レコーディングを延期したくなかったロス・ラッセルはディジィー・ガレスピーにLAにいるミュージシャンを連れて来るよう頼んだ。そこで、このグループにはディジィー、トンプソン、ブラウン、レヴイにアル・ヘイグのピアノ、ミルト・ジャクソンのヴァイヴ、とヴォーカルのスリー・エンジェルズ(ディズ、トンプソン、ジャクソン)がフィーチュァされたのである。
 このセッションは2月6日の晩と多分7日にも録音され、ディジィーのリーダーシップのもとにテンポ・ジャズメン(テンポの名はロス・ラッセルの有名なハリウッドのテンポ・レコードショップから来ている)として発売された。
 録音された3曲は興味深いもので、“ラヴァー”に基づいた“ディギン・フォー・ディズ”(D1002-E),“ダイナモA”(D1003-A)、と“ダイナモB”(D1003-B)であって、後者の2曲は共に我々に“ディジィー・アトモスフェア”として知られているものである!。
 バードとデイズは1945年2月28日にギルドで“ディジィー・アトモスフェア”を一緒に録音している。又、ジュビリー(訳注:当時のGI向け放送番組)で1945年12月29日にLAで録音したものも存在している。(訳注:スポットライト・レコード、“ヤードバード・イン・ロータスランド”)
   しかしながら、彼らが“ダイナモアA”と“ダイナモB”を一緒にレコーディングした証拠は何もないのである!。
 興味深く記すことには、パーカーは彼が有名にしたダイアル・レーベルの最初のレコーディング・セッションには登場していないと言うことなのである!。私たちフィロロジーは偉大なチャーリー・パーカーの未発表盤を皆様に提供出来ることを感謝しております。
 BIRD LIVES!
希少なパーカーのテープかフイルム、又、どのような御質問も、
  DR. ROBERT BREGMAN
11 FERNSIDE CRT NORTH YORK,
ONTARIO M2N 6A2,CANADA.
までお寄せ下さい。
訳:小田 弘一