未発表テイク VOL.22     W852.2


“ドーント・ブレイム・ミー”「バードとビッグ・バンド」
クーティー・ウイリアムズ/マチート/ジョー・タイマー(完全版)

収録曲

  1. 'ROUND MIDNIGHT into
        SEVEN ELEVEN (3:30)
  2. DO NOTHIN' TILL YOU HEAR FROM ME
        (4:16)
  3. DON'T BLAME ME (4:02)
  4. PERDIDO (4:03)
  5. NIGHT CAP (4:57)
  6. SATURDAY NIGHT (3:24)
  7. FLOOGIE BOO (4:11) * sextet
  8. ST.LOUIS BLUES (1:52)
N.Y.C. Savoy Ballroom, February 12, 1945
Bird with Cootie Williams.
  1. MAMBO (5:12)
  2. LAMENT FOR THE CONGA (5;47)
N.Y.C. Renaissance Ballroom.
Bird with Machito.
  1. FINE AND DANDY (3:28)
  2. THESE FOOLISH THINGS (3:22)
  3. LIGHT GREEN (3:36)
  4. THOU SWELL (3:53)
  5. WILLIS (5:23)
  6. DON'T BLAME ME (3:14)* complete!
  7. SOMETHING TO REMEMBER YOU BY into
        THE BLUE ROOM (2:49)
  8. ROUNDHOUSE (3:06)
Washington D.C. Club Kavakos. February 22, 1953
Bird with Joe Timer.

 クーティー・ウイリアムズ:
 1945年2月、パーカーはエデイ“クリーンヘッド”ヴィンソンが陸軍に徴兵された交代のエキストラとして、クーティー・ウイリアムズ・オーケストラに加入した。 短い滞在だったが、それが12月12日夜の“フルーギー・ブー”におけるパーカーのソロをもたらしたのである。この曲はセクステットで演奏された。他の8曲については既にアレンジされたものであり、ヴィンソンのソロ・パートは中に無かったので、バードのホーンも沈黙しているのである。
 我々が、この特別の晩にサヴォイ・ボールルーム“フルーギー・ブー”が演奏されたのを知らない限り、この晩のバードの存在は知り得なかったであろう。前述したように、パーカーのクーティーへの滞在は短期間だったので、ウイリアムズ・バンドへの彼の影響と副次的効果は最少のものだったであろう。だが然し、クーティーの重要な証言は、20世紀音楽に対するバードの歴史的貢献に光を当てることで、生き残るのである。
 クーティーはパーカーの改革者としての影響は、ルイ・アームストロングのそれを越えるものだと考えるのだ!。彼の言葉を引用すれば「ルイは周りの全ての金管楽器奏者を変えた.だがバード以後、全ての楽器つまりドラム、ピアノ、ベース、トランペット、トロンボーン、サクソフォンが変わらざるを得なかったんだよ」となる。
 アームストロングはトランペットがどうあらねばならないかを変えた。然し、バードは音楽そのものが如何に演奏されるかを変えたのである。
実際、ルイが愛好したビックス・バイダーベックはマイルスとチェットに“クール派”として影響を与えたように、ルイのブラス奏者への影響は全部にではない。
 それが異彩をはなって屹立するパーカーにおいては、ジャズの進路をハーモニー的に、リズム的に、メロデイ的に変えたのである!。
 彼が20歳にもなっていなかった1939年に、全てを変えたのである。
 既成階級の声として、ワシントン・スミソニアン・インスチチュートを含む、いわゆるジャズ通と大衆は、デュークを最も偉大で最も重要なジャズ・ミュージシャンとして挙げる。しかしながら、レニー・トリスターノがバードとデュークのどちらが頂点に立つかどうかについて言及したのを回想すると、レニーはこう結論した。「それはバードです.ジャズは即興演奏者の芸術形態であって、作曲家のものではないからです!」と。
 クーティーの発言をとても強力に位置づけ、証明するのは、すなわち、ウィリアムズはデュークのバンドのルイに影響されたトランペットプレイヤーだということなのである。彼はバッパーではない。多分、クーティーは彼独特のスタイルに遮られない普遍的な考察者なのであろう。彼は又、若いバド・パウエルを1944年に自分のバンドに入れている。
 一時、アルト・ソロの幾つかはバードのものと信じられたが、それはエデイ・ヴィンソンのものである。“ユー・トーク・ア・リトル・トラッシュ”は心に訴える。
 クーティーはまた、リーとレスターのヤング兄弟と楽旅したし、チャーリー・クリスチャンとはベニー・グッドマンで共演した。彼はまた、“ラウンド・ミッドナイト”をモンクと共作し、バップの聖歌にした。私は、クーティーの貢献は再び光をあてられ、再評価されるべきと考えるのである。

マチート:
 アフロ・キューバン・ジャズはディジー・ガレスピーとマリオ・バウザの幻想の産物で、“キュー・バップ”の商標ネームで知られている。
 それはバップと伝統的ラテン・リズムの融合で、ディズの‘40年代ビッグ・バンドで多くフィーチュァされたのである。
 フランク・グリヨとしてフロリダ州タンパでうまれたマチートは幼年時にキューバへ引っ越し、後年アメリカに戻った。ザヴィア・クガーに加わり、既にキューバのミュージシャン/バンドリーダーとして名を成していた。
 マチートの最初のバップ・レコードはハワード・マギーとブリュー・ムーアをフィーチュアした、78回転レコード“キューバン・シテイ”だった。
   この録音のパーカーとマチートは、1950年5月19日に、ジャズ史家マーシャル・スターンズによりルネッサンス・ボールルームで録音されたものと考えられる。詳細は不明だが、テナーのフランク・ソコロウの存在が有ると認められる。この録音でバードをフィーチュアした“マンボ”と“ラメント・フォー・ザ・コンガ”の2曲が生き残った。もう1曲ある“リミニッシング・アット・トワイライト”にはパーカーは登場していない。“ラメント・フォー・ザ・コンガ”はパーカーの最良のアフロ・キューバン・ナンバーとされている。バードは1950年12月21日にヴァーヴでマチートと共演した。また、“サウス・オブ・ザ・ボーダー”のアルバムも録音している。
 一つの録音がシカゴの有名なパーシング・ボールルーム(PHILOLOGY VOL.13) でのディズのビッグ・バンドとの共演で残っている。ガレスピーの有名なキュー・バップ・ナンバーの多くがここで演奏されているが、録音が貧弱で、バードを鑑賞するのは困難である。ヴァーヴのパーカーとマチートとの作品と1950年5月1日のスターンズのインターヴューからして、この晩の演奏が間違いが無いことを高いレヴェルで推測させているのであるが......。

ジョー・タイマー:
 1951年、ドラマーでアレンジャーのジョー・タイマーはヴォイス・オブ・アメリカのジャズ番組の製作にも関与していたワシントンのD.J.ウイリス・コノヴァーに近づいた。“ジ・オーケストラ”がワシントン周辺のミュージシャンにより成立したのである。ジ・オーケストラはゲストとしてディズやバードを招き始めた。(訳注:他にアル・コーン、ズート・シムス、スタン・ゲッツ、リー・コーニッツ、ワーン・マーシュがいる)パーカーを招いたものの、バードの時間の不正確さのせいで、ジ・オーケストラは彼の出演を一般に宣伝しなかった。
 1953年2月22日クラブ・カヴァコスの夜にバードが出演することは、口づてに広められたのである。
 クラブでの演奏日は決まったものの、ジ・オーケストラはパーカーの出演を期待してはいなかった。(その週、ハワード劇場でレッド・ロドニーと出演中だった)。
 だが、“期待”を裏切ってバードは正に出演したのである。(訳注:この辺の事情はエレクトラ・レコードのビル・ポッツのライナーノートとロドニーの回想録音に詳しい)
この晩の演奏はアレンジャーのビル・ポッツにより録音された。アレンジャー陣は“ファイン・アンド・ダンディー”のアル・コーン、“ラウンドハウス”のジェリー・マリガン、“ザウ・スエル”のジョニー・マンデル、とオリジナル曲のジョー・タイマー、ビル・ポッツである。
 パーカーは、この月初めにカナダのモントリールで使用し、この年1953年5月にトロントのマッセイ・ホールで使用される英グラフトン社製プラスティック・サクソフォンをみせびらかした。プラスティック・サックスを吹くバードの音色がメタル・サックスのそれと少しばかり違うのを聴きたまえ!。
 バードはリハーサル無しで彼の知らないアレンジに直面しなければならなかった。例えば“フアイン・アンド・ダンディー”はオリジナルのFでなくCフラットで書かれ、“ザウ・スエル”はBフラットからFに転調しBフラットに戻る。“ウィリス”はCからFに転調する。“サムシング・トゥ・リメンバー・バイ”〜“ブルー・ルーム”では混乱があった。
 (訳注:1コーラスのテーマの後)バードはストレートに進むのに、リズム・セクションは別の方向に行ってしまった。(訳注:アレンジでは“テイキング・ア・チャンス・オン・ラヴ”だったのでピアノは馬鹿正直に、そのコードを押している)。最後の曲“ラウンドハウス”でバンドはGをバードに事前に知らせずEフラットに転調したにもかかわらず、バードの耳はそれを乗り越えたのである!。
 さて、このフィロロジーCDに登場するのは“ドーント・ブレイム・ミー”の未発表の半コーラス分のパーカーのソロである!。
 オリジナルLPではライナーノートに「マイクが不調のため、1コーラス分に編集しなければならなかった」と述べている。フィロロジーはマスターテープの確保と編集の“天才”のおかげでバードの1コーラス半のオリジナル・テープの復元に成功したのである!。
 我々は、このユニークなCDで、偉大なチャーリー・パーカーをエンジョイされることを切に希望するものであります!。
 バードは生きている!
 ロバート・ブレグマン
 訳: 小田 弘一 

何か新しいチャーリー・パーカーのソースか質問があれば、どうぞ
  ROBERT BREGMAN,
11FERSIDE COURT, NORTH YORK,
ONTARIO M2N 6A2,CANADA
まで御寄せ下さい。


Photo 20
Bird's Famous Grafton Sax,
Christie's Auction House, London, 7th September, 1994
photo by Mr.Masuhiko Tsuji