未発表テイク VOL.23 W853.2
“モア・ムーン”
バード・ウイズ・ウデイ・ハーマン・イン・カンザス・シテイ
収録曲
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- YOU GO TO MY HEAD (3:06)
- LEO THE LION(I) (3:04)
- CUBAN HOLIDAY (3:06)
- THE NEARNESS OF YOU (3:31)
- LEMON DROP (3:40)
- THE GOOF AND I (3:30)
- LAURA (2:55)
- FOUR BROTHERS (3:47)
- LEO THE LION(II) (3:00)
- MORE MOON (3:35) *
- Kansas City, Municipal Arena, July 22, 1951 Woody Herman Orchestra with Charlie Parker,
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- HONEYSUCKLE ROSE (3:09)
- ECHOES OF HARLEM (3:03)
- FLOOGIE BOO (2:36)
- SWEET LORRAINE (3:06)
- I DON'T KNOW (3:08)
- MY OLD FLAME (3:10)
- DO SOME MORE WORK,BABY (3:01)
- YOU TALK A LITTLE TRASH (3:00)
- SMACK ME (3:11)
- N.Y.C. January 1944 Bud Powell with Cootie Williams Sextet.
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- ROYAL GARDEN BLUES(I) (3:12)
- THINGS AIN'T WHAT THEY USED TO BE (3:10)
- NOW I KNOW (2:56)
- CHERRY RED BLUES (3:00)
- TESS'S TORCH SONG (2:27)
- WHEN MY BABY LEFT ME (2:39)
- N.Y.C. January 1944 Bud Powell with Cootie Williams Orchestra.
バードとビッグ・バンド
1951年7月22日、チャーリー・パーカーはウディ・ハーマンの“サード・ハード”オーケストラに客演した。なんと、カンザスシティのミズーリ側にある市営体育館がスィングしたことだろう!。
エージェントのビリー・ショーがソロイストとして送り出したか、カンザスシティの母親を訪ねたかして、街に来たのである。その2、3日前には娘のプリーがニューヨークで生まれている。パーカーはビッグ・バンドのフロント・ラインに立ち演奏するのを躊躇しなかったのである。
長い芸術論文が彼のビッグ・バンド経験につき書かれるであろう。
初期カンザスシティ時代に、ハーラン・レナード・バンドと演奏し、1936年にはトミー・ダグラス・バンドに入って、バードはネーム・バンド入りを果たしている。
1937年の夏、カンザスシティ郊外のリゾート地オザークで、ジョージ・E・リー・オーケストラと演奏している。バードは彼の初期の師匠“プロフエッサー”ことバスター・スミスについていた。スミスがニューヨークへ行ったとき、バードは短期間、バスター・スミス・オーケストラを率いた。(訳注:おおまかに言うと)1938年から1944年にかけて、バードは彼の音楽的位置を一般に確立したジェイ・マクシャン・オーケストラで働き、有名になったのである!。
パーカーは1940年初期に6つのオーケストラ:ジェイ・マクシャン、アール・ハインズ、アンディ・カーク、ビリー・エクスタイン、ノーブル・シスル、クーティー・ウィリアムズに所属した。パーカーはアルトとテナーをハインズとエクスタインで吹き、ノーブル・シスルではちょっとクラリネットをやった。
この多くのビッグ・バンドとの共演で、バードは業界での恐るべきプレーヤーになったのである。このハーマンとの共演時は既に多年に亘り偉大なジャズ・マスターと認識されていた。1945年のサヴォイの“ココ”セッションや1949年12月15日のバードランドのオープンで一般に知られていたのである。
批評家でさえ、止まり木のバードを無視出来なくなっていたのである!。
パーカーは他にもビッグ・バンド経験をしている。ジーン・ローランド・オーケストラ(PHILOLOGY VOL.15)、ジョー・タイマー(ワシントンのローカル・ドラマー、アレンジャー)の“ジ・オーケストラ”(PHILOLOGY VOL. 22)、シカゴでのディジィー・ガレスピーへの1948年の客演(PHILOLOGY VOL.13)、そしてヴァーヴでのニール・ヘフティやスタン・ケントンとのツアー(PHILOLOGY VOL.8)などがある。
これら晩年の演奏は“お仕事”として務めたものとは全然違う。バードはゲスト・ソロイストとしてお出で願われたスターだったのである。
このバックグラウンドを前提に我々は1951年7月のウディのバンドとの共演を聴く心の準備が出来るのである。
有名な“ハード”の創設者ウディ・ハーマンは、スィングからバップにかけて色々なハードの管理続行と言う難しい仕事をこなしながら、その段階的スタイル上の革命をしてきたのである。
“ブルースをプレイするバンド”の名とともに、ハーマンはスィング・アレンジと彼のクラリネット・プレイで知られてきた。バンドは当初、アイシャム・ジョーンズがリーダーで、彼の死去とともに、ウディがリーダーと交代した。
1939年、バンドはミリオンセラーの“ウッドチョパーズ・ボール”を録音した。
1944年ファースト・ハードが結成された.ファースト・ハードには次のような偉大なプレーヤーが在籍した。すなわち、デイヴ・タフ(dr)、ビル・ハリス(tb), 若死にしたヒップなトランペッターのソニー・バーマンなどである。バンドは“カルドニア”、“グッド・アース”のようなクラシックスを大量に提供したのである。
偉大なファースト・ハードは、ニール・ヘフティ、ラルフ・バーンズ、ショーティー・ロジャースなどのアレンジ陣を誇った。彼らは自分たちの“ワイルド・ルート・ラジオショー”(訳注:ワイルド・ルートは男性化粧品のこと)さえ持ち得ていたのである。
セカンド・ハードは1947年に結成され、有名になった。このグループはスタン・ゲッツ、ズート・シムズ、ハービー・スチュワード、サージ・チャロフのフォー・ブラザース、つまり3テナー1バリトンサックス・セクションをフィーチュァした。ジミー・ジュフリーはバンドのためにクラシック“フォー・ブラザース”を書いたのである。
サックス・セクションはスィング・トゥ・バップの完全な融合を示した。つまり、レスター・ヤングのスタイルを通じて濾過したビバップを創成したのである。
スタン・ゲッツのためのラルフ・バーンズの“アーリー・オータム”はゲッツのクールなリリシズムを広く聴衆に認めさせた。
やがてはパーカーのレギュラー・メンバーになるレッド・ロドニーの入団とともに、トランペット・セクションはバップ色を強めた。セカンド・ハードは1949年末にその幕を閉じたのである。
このCDはサード・ハードと偉大なチャーリー・パーカーとの間にスタイル上の違和感が無いのを示している。
ビバップは豊かに成熟していたので、その展開には何のさしつかえも無かった。人気を獲得したプレーヤーの移籍が多く、ビッグ・バンド経営は困難だった。
それでも、サード・ハードは優秀なメンバーをフィーチュァしたのである。
アービー・グリーン(tb)は1954年のダウンビート新人賞を獲得し、1946年〜50年は洒落たジーン・クルーパ・バンドに在籍していた。彼はビル・ハリスと交代した人材と言えよう。アービーはバードとのこの共演盤をテープ録音したのである。
ビル・パーキンスはジェリー・ウォルド楽団から来たテナーマンである。彼は西海岸レスター・ヤング派で、後1954年にスタン・ケントン・オーケストラへ行った。
ダグ・メットームはロイ・エルドリッジ/ディジィー・ガレスピー派のトランペッターでビリー・エクスタインのビッグ・バップ・バンドに1946〜47年に在籍し、ハーマンに加わる前はベニー・グッドマン・オーケストラにいた。彼のグッドマンでのベスト・ソロは“アンダーカレント・ブルース”、“ハックルバック”などに聞かれる。
ディック・ヘイファーはクロード・ソーンヒル・オーケストラのリード奏者を経て、1949年からはチャーリー・バーネット・オーケストラに在団していた。
最後にデイヴ・マッケナがいる。1949年にチャーリー・ヴェンチュラでキャリァを開始したマッケナは、今でもクラブやフェスティヴァルで活躍している。彼はトップクラスのビバップ・ピアニストとして知られている。
パーカーとハーマンの共演は、バードがいて、ナチュラル・ハイ・エネルギー・バンドと化したのである! 。
今まで述べたように、初期のパーカーには長いビッグ・バンド経験が有り、それを踏まえてサード・ハードの最高にドライヴするビッグ・バンド・サウンドに乗って素晴らしい輝きを見せたのである。
バードはその晩リハーサルをしなかったしアレンジに手を加えたりもしなかった。
このことは、特に“フォー・ブラザース”(訳注:基本的に“ジーパース・クリーパース”のコード進行に基づくAフラットの曲)でコード(訳注:特にブリッジのコード進行)をキャッチするまで少しマゴつくので、証明されているのである。
MORE MOON:
ウディの曲名紹介から始まりバードは、この未発表曲で最高のノリを見せる。曲は勿論“ハウ・ハイ・ザ・ムーン”のコード進行で、パーカーのソロは倍テンポと抑制されたリリシズムを見せる。各コーラスは全て論理的である。
この伝説的演奏はフィロロジー・レコードにより発見され、ここに最初に発表されるものである!。
(訳注:1949年5月16日ニューヨーク録音のオリジナル・キャピタル盤でのジーン・アモンズの2コーラスのソロは、そのブラザース・テナー振りと、思いがけない滑らかさと、浮揚感覚が、たまらない名演である。彼は1949年3月から7月に在団した。)
YOU GO TO MY HEAD:
パーカーはメロデイに忠実に美しいソロを展開する。彼は、この慣れない環境で大変リラックスしている。
LEO THE LION-1:
(訳注:タイニー・カーン作編曲、ハーマンのMGMレコード移籍と有名なトレードマークにちなんだ)ドライヴィングなブルース・ナンバーで、ウディのサックス・セクションの妙味を聞かせる。バードのソロはハードでファンキーだ。
CUBAN HOLIDAY:
次のセットは、このラテン・ナンバーで開始される。バードはファンキーでリリカルな線で始める。曲は“ハニーサックル・ローズ”に基づいている。ここでは、バードとバンドに少しゴチャゴチャした混乱が有る。
NEARNESS OF YOU:
この美しいソロでバードはメロデイに忠実である。
LEMON DROP:
ビバップ・ヴォーカルの後で、バードは凄いエネルギーでソロをリードする。彼の後方のハードがいかに“ハード”であるかを聴きたまえ!。
THE GOOF AND I:
ハーマンのクライネットのイントロで始まり、主題コーラスになり、バードはその最後の8小節から入ってくる。この“アイ・ガット・リズム”式循環コード曲で、バードはデンジル・ベストの“ムーヴ”のメロデイに乗って、バンドとスパーリングしているようである。
LAURA:
同名の映画(訳注:1946年20世紀フォックス製作、オットー・プレミンジャー監督、ジーン・ティアニーが題名の主人公に扮した)の主題曲。バード・ウイズ・ストリングでも有名。ここでの彼の演奏は美しく愛らしいものである。
FOUR BROTHERS:
どのブラザース・バンドと同様に、サード・ハードも華麗にしてタイトにハーモナイズされたサックス・セクションで演奏する。
バードはソロに突入して、サビに来ると彼が快適さを感じるまでコード進行に聞き入ってソロを中断する。だが一旦、コードをキャッチするやいなや、バードのソロは天空に飛翔するのである。バードはラスト・コーラスでオリジナル・ブラザースの1947年版(訳注:コロンビア、1947年12月27日録音)のブレーク(訳注:4人、各2小節宛)を独り占めにする。
LEO THE LION-2:
バードが再紹介されているので、これは他のセットのようである。火の出るようなブルース・ナンバーだが、最初のテークより良くない。(訳注:が、これも凄いソロだ!)
(訳注:この日の出演事情には諸説が有り、スティーヴ・ヴォースのハーマン伝によると1951年8月?にカンザスシティでの契約があり、母親に会いに里帰りしていたバードは、バンドを聞きに来ていたが、断りきれなくて一緒にステージに上がった。としており、ブライアン・プリーストリーのパーカー伝では、6月にバードはニューヨークのキャバレー・カードを没収されたので、マネージャーのビリー・ショーは仕方なくサード・ハードの楽旅にゲストとして送り込み、中西部とたぶん西海岸を巡業してまわった。としている)
パーソネル、場所、日付:
ROY CATON,DON FAGERQUIST,
JOHNNY McCOMBE,DOUG METTOME(tp);
JERRY DORN,URBIE GREEN, FRED LEWIS(tb);
WOODY HERMAN(as,cl);DICK HAFER,
BILL PERKINS,KENNY PINNSON(ts);
SAM STAFF(bar);DAVE McKENNA(p);
RED WOOTEN(b);SONNY IGOE(ds).
カンザスシティ市営アリーナ
1951年7月22日
BY:DR.ロバート・ブレグマン
訳:小田 弘一