未発表テイク VOL.24     W854.2


“オープン・ドア”セッション '53年(第一部)
 バド・パウエル・ウイズ・クーティ・ウイリアムス・セクステットと
オーケストラ、 第一部(1944年、完全版)

収録曲

  1. OUT OF NOWHERE (2:59)
  2. STAR EYES (3:53)
  3. COOL BLUES (4:42)
  4. EAST OF THE SUN (3:22)
  5. THE SONG IS YOU (6:04)
  6. 52nd STREET THEME (2:35)
  7. ORNITHOLOGY (3:16)
  8. SCRAPPLE FROM THE APPLE (3:28)
  9. MY OLD FLAME (4:38)
  10. MY LITTLE SUEDE SHOES (2:11)
Open Door, NYC, July 26th, 1953
1st set(track 1 to 6)
2nd set(track 7 to 10)
Charlie Parker(as),Benny Harris(tp),Al Haig,
Bud Powell(p),Charles Mingus(b), Art Taylor(ds).
  1. PERDIDO (3:30)
  2. WHEN MY BABY LEFT ME (2:39)
  3. ROYAL GARDEN BLUES (3:37)
  4. ROLL 'EM (3:11)
  5. A TISKET-A-TASKET (2:15)
  6. DO NOTHIN' TILL YOU HEAR FROM ME     (2:14)
  7. AIR MAIL SPECIAL (2:24)
  8. ONE O'CLOCK JUMP (1:27)
N.Y.C. early 1944
Cootie Williams Orchestra with Bud Powell,
& Ella Fitzgerald.
  1. WEST END BLUES (2:48)
Canada,July 4, 1944.
Cootie Williams(tp),Bud Powell(p),
  1. IS YOU IS OR IS YOU AIN'T MY BABY     (2:44)
  2. SOMEBODY'S GOTTA GO (3:17)
  3. ROUND MIDNIGHT (3:15)
  4. THEME SONG into
        WILD FIRE (2:37)
N.Y.C. July 1944.
same as track 11 to 18.

 オープン・ドア (第1部) VOL.24
 1953年7月26日、チャーリー・パーカーはグリニッチ・ヴィレッジのオープン・ドアに出演した。彼はボブ・ライズナーの制作するクラブ・セッションにフィーチュァされたのである。
 このセッションのテープは永年その存在を噂されていたものであって、私が最初に聴いたのは1980年代前半のことである。
 このテープには大変興味深い物語が有る。
 バードがチャンのバースデイにプレゼントしたオープンリール・デッキに演奏が録音されたものと推測されている。チャンは、このデッキで8時間分のパーカー・ミュージックを録音したと言われているのである!。
 オープン・ドアのリストはシュローチのバド・パウエル・ディスコグラフィーとチャーリー・パーカー・ディスコグラフィー(cadence,session no.206) 第2版に出ている。  パウエルはアル・ヘイグとともにクレジットされてはいるのだが、ここにはバド・パウエルのソロはない。だが、バードは(第4セットの)最後で聴衆にバドを紹介するし、彼はちょっと弾くのである。
 オープン・ドアはグリニッチ・ヴィレッジのワシントン・スクエアの西3丁目55番地にあった。53年春、バーの向こうに大きな部屋のあるクラブで、(訳注:当時、美術史家でジャズ・プロモーターの)ボブ・ライズナーと歌手のデイヴ・ランバートは日曜の晩のジャズ・セッションを開始したのである。
 多くのバップ有名人;バード、マックス、バド、バッグスなどが出演した。その年の10月になると、ボブ・ライズナーは日曜から木曜までにセッション日を拡張した。それ故、この7月26日のセッションは未だサンデイ・セッションなのである。
 パーカーがオープン・ドアで演奏した頃、彼はニューヨーク市マンハッタンのロゥアー・イーストサイドのアヴェニューB151番地にチャンと住んでいた。一時、バードはアヴェニューBの住まいを離れて、詩人アーメッド・バシーアと画家ハーヴェイ・クロッパーの住むバロー通4番地に“逃避”したこともある。(訳注:二人はバードとチャンの親友で、クロッパーはストックホルムに在住。1987年7月にフランスに住むチャンと再会し、インターヴューをしている。)
 パーカーはオープン・ドアでのジャムを続けた。ロス・ラッセルの伝記本にある予言的エピソードが告げているように、オープン・ドアでの間に合わせのジャム・セッションの一夜、バードは第一にクラブオーナーにプレイ出来るよう説得しなければならなかった! その夜、ジャッキー・マクリーンに付き添われて、パーカーはクラブのまえで演奏し始めたのである。恥多いことには、「俺のケツを蹴れ」とマクリーンに頼むことで、オーナーに仕事を懇願しなければならなかった。ジャッキーは一寸した舵とりとしてこれを受け入れたが、バードはそれから、こんなに彼自身の面目を失わせるような事は2度とさせないと警告したのである!。

演奏 <第1及び第2セット>
 数ある同類の中でも、この夏のセッションには幾つかの驚きがある。
“アイ・リメンバー・ユー”と“ジャスト・ユー・ジャスト・ミー”のように録音された証拠が無いバードの曲があると言うことである。
 1953年、パーカーはシングル・ソロイストとして、行った先でローカル・リズム・セクションと共演して、巡業していた。ボストンでの“ハイ・ハット”モントリオールでの“シェ・パレー”そしてこのニューヨークのようにである。
 この年の5月、有名なマッセイ・ホール・コンサートがオールスター・ラインナップによりトロントで開催されたのである。
 パーカーの最後のレギュラー・ユニットは1950年のアル・ヘイグ、トミー・ポッター、ロイ・ヘインズだった。51年から52年にかけてはウォルター・ビショップとテデイ・コティックが伴奏した。
 さて、この特筆すべきサンデー・イヴニング・セッション(夕方か午後のセッションだったかは混乱した論争が報告されている。通常、1950年代終わりから60年代にかけては午後のセットが普通だった)のラインナップはベニー・ハリス(tp),アル・ヘイグ(p),チャーリー・ミンガス(b),アート・テイラー(dm)で、バド・パウエルは表記されているがソロは無い。バド・パウエル・トリオは1953年にバードランドでミンガスとテイラーをメンバーにしている。起こりそうな結果として、バド・パウエルは居て何曲か演奏したが、録音されなかったことが考えられるのである。現存するピアノ・ソロはバド・パウエルのものではない。パウエルたる証拠すなわち豊かなコード性、バードに次ぐと当時考えられた知的なフレージングなどは無いのである。
チャンはパーカーのソロを録るのに集中していて、他のプレーヤーのソロには関心が無かったようだ。
 ここにあるセッションの大部分はパーカーのスタンダード・ビバップ・ソングブックから成っているのである。
OUT OF NOWHERE:
リラックスしたテンポで演奏され、バードはブリッジで素敵な倍テンポを披露する。(訳注:この曲はABAB型なので9小節目からと25小節目からのBを指しているのか?)バードがまるでオペラの哄笑する道化のように吹くフレーズに注意すること。
COOL BLUES:
このダイアル・オリジナルの曲は、我々が以前から聞いたブルース・フレーズに満ちている。
EAST OF THE SUN:
バードの有名なウイズ・ストリング版が、ここではスモール・グープで演奏される。
ORNITHOLOGY:
はセッションのハイライトの一つである。バードは急速調で飛び始める。彼のソロは入り組んでいて私にはこの曲の他の演奏より複雑であるように感じられる。ここにはモダーン・ジャズの複雑性の感覚が有り、タイムに複雑なラインが織り込まれているのである。パーカーは又、この曲で技術的な花火の打ち上げに対立する強められたムードのより長いフレーズラインにアプローチしている。然し、これらの解釈の全ては、同じくスィングする効果をもたらしているのである。ハーモニー構成とメロデイはリズムに関連して組み立てられた種々の道程で演奏されている。
SCRAPPLE FROM THE APPLE:
“ハニーサクル・ローズ”に“アイ・ガット・リズム”のブリッジを付けた曲。バードはお馴染みのビゼーのカルメンからのハバネラを引用する。全ては信じ難いスピードで演奏され...それは申し分ない!この時のパーカーの演奏クォリティーは、現在でも誰もが達し得ない音楽的首尾一貫性の程度を示しているのである。
MY OLD FLAME:
このオールド・ダイアル・セッションのバラードはセッションの素敵なチェンジ・オブ・ペースである。第一級の解釈だ。バードは愛すべきバラード・プレーヤーである。
 BIRD LIVES!
BY:DR.ロバート・ブレグマン
訳:小田 弘一


写真21
この印刷物は、05年9月著名なパーカー・コレクター、ノーマン・サクス氏が来日の際チャーリー・パーカー協会の三浦が譲り受けたもの。1955年1月2日(日)の広告チラシ。
(w140×h216mm)