BIRD 2000

パーカー生誕80周年を記念して [2000/03/31]

日本チャーリー・パーカー協会のみなさん!!

 少しご無沙汰しています。実は、このところボクは「パーカー生誕80周年記念」の行事が何か出来ないかと考えています。

 そこへ、インターネットの例のよういちさんのホームページで知り合った2人の若者がボクの家に遊びにきました。伊東くん(as) と久保木さん(g)です。彼らも、パーカー記念に何かやりたいと非常に熱心なのです。

 そこで、パーカー記念のジャズセッションをと言う案が出て、その核となるためのプレイヤーとしてボクは、大森明さんを推薦し ました。彼らはすぐに大森氏に連絡を取り、内諾を得ました。

 ボクの考えでは、このセッションを今年の11月の下旬にやろうと考えています。ほんとうは、8 月下旬がパーカー生誕にはいいの ですが、この時にはニューヨークで本格的なセッションがあり、ボクもこれに行くつもりなのです。(みなさまも如何ですか?)

 急な話なのですが、ぜひみなさまのご意見もお聞きしたいのです。それで、もう少し具体的に話しを詰めたいと言うことで、大森明 氏が出演するジャズクラブへ行って話そうとなり、ボクも行くことにしました。

 4 月11 日(火)に江古田の駅前にある「バディー」と言うジャズクラブへ大森明のセッションを聴きがてら行き、そこで事前に相 談をしようとなっています。時間は午後6時半です。演奏が始まる前に話しをしようとしています。
ボクの考えでは、このパーカー派の大森氏と、それに湘南で活躍しているアルトの澤田さんを引き込もうと思っています。澤田さんは 、三浦さんも聴いた例の「チャーリー・パーカー・ストーリー」で吹いたアルト奏者です。(なかなか素晴らしい!)この2 人のパー カー派を核にして後は賛同するプレイヤーを加えて行く。そんなことを考えています。ナベサダはどうかしら??

 ボクは彼ら(伊東さんと久保木さん)に、「いつもパーカーフレーズを使っている人は、みんなタダで参加すべきだ」と言っています。 そして、このセッションの前と間に、パーカーについて語る人を何人か出したいのです。もちろん、三浦さんや、大和明さんとかを考 えています。その他、これから企画を練るつもりです。ですから、みなさんのアイディアもお聞きしたいのです。じゃあ、またここで ご意見をお願いします。

 それから、このパティオの内容を、そろそろボクのホームページで公開したいのですが、この件についてもご意見をお聞かせください。 ボクのホームページはまだまだ準備中ですが、ぜひ覗いてみてくださいね。
 辻バード

日本チャーリー・パーカー協会のみなさん!!

 いよいよ "Bird 2000"もあと3ケ月あまりに迫り、もう詳細を、あちこちに発表する段階になりました。以下はボクが「旅先通信」 へ書いたものなのですが、ここへも転載します。

 みなさまも、これをもとにして、あらゆるチャンネルへ宣伝を開始してください。ただし、この内容のさらなる詳細は、ボクの帰国 後に集まって詰めましょう。では・・・


■■ "Bird 2000" 「バード2000!!」
「 チャーリー・パーカー生誕80年記念セッション」
■■ 主催:日本チャーリー・パーカー協会
  会長:辻 真須彦(辻バード)http://tsujibird.com/

■■ 開催趣旨:

20世紀の音楽であるジャズ。その歴史において重要な足跡を残した天才、その数はけして多くない。しかし、チャーリー・ パーカーは、まぎれもなく天才であり、ジャズの体系を一新させた偉大な創造者でもある。

今年2000年は、彼が生誕して80年になる。この記念すべき年を記念して、パーカーを愛する人たちが集い、パーカーを 語り、そして演奏する。11月25日は、日本のジャズ界の歴史にも残る、素晴らしい一夜にしようではありませんか。

■■ 日時:2000年11月25日(土) PM:16:00--PM:22:30
■■ 場所:東京新宿・ジャズライブハウス「SOMEDAY」
      山手線、新大久保駅、徒歩3分 http://someday.net/
      東京都新宿区百人町1-10-7 一番街ビルB1
      Phone 03-3364-2518 (81-3-3364-2518)
      Fax 03-3950-1958 (81-3-3950-1958)
      E-mail: someday@someday.net

  ■■ 参加費:¥4,000.- (ドリンクは別)
★「日本チャーリー・パーカー協会」としては、赤字覚悟の開催です。これは非営利的な活動です。もし可能なら、カンパと 活動への参加をおねがいします。 bird.tsuji@nifty.ne.jp 

■■大まかなプログラム:
●第一部:午後4時から午後7時半
  チャーリー・パーカーを愛する人たちのトークセッション。それと、貴重な音源の紹介と演奏。

出演者:(現在のところ)
★瀬川昌久さん(日本人で、ただ1人、生のパーカーを聴いたことがある方。その時の想い出などを語って頂きます。)
★大和明さん(パーカー研究に掛けては、第一人者。ライナーノーツや著書も多い。)
★後藤雅洋さん(情熱的なパーカー信者。四谷「イーグル」の店主。著書も多い。)
★三浦和三郎さん(世界的なパーカー録音のコレクター。パーカーの録音に関しては、この人の右に出る人はいない。)
★岩浪洋三さん(著名なジャズ評論家)
★日本ホット・クラブ会長の石原康行さん

★★★それから、はるばるイタリアのローマからトニー・スコット氏(クラリネット奏者)が "Bird 2000"のために駆けつけます。 トニー・スコットは、1940年代からパーカーとは親しくつき合い、一緒に演奏もしています。そして、チャーリー・パーカーの熱烈で情 熱的な信奉者です。現在、生きていたパーカーについて詳しく語れる人は、彼をおいて他にありません。
パーカーとビバップとともに 1940-1950年代を生き抜いてきた最後の生き証人の1人です。そして、その上に彼は1960-1965の間日本にい て、たくさんのジャズプレイヤーとの親交もあります。

彼には、1時間くらい通訳付きで、存分に語ってもらいます。そして、パーカーの貴重な秘蔵の録音も、掛けてもらいます。 たぶん、講演の前には、ソロでBlues for Charlie Parkerを演奏することでしょう。

●第二部:午後7時半から午後10時半? 11時

★大森明クワルテットのパーカーナンバーの演奏。
大森明氏は、現在日本で実力ナンバーワンのアルトサックス奏者。熱烈なパーカーの信奉者でもある。この夜は、真迫の演奏が聴かれる はずです。メンバーは別途発表します。
大森明氏のホームページ:http://www3.ocn.ne.jp/~bopcity/
★トニー・スコットも参加しての演奏あり。
★その他ビバップを演奏するバンドや演奏者の出演も多数あり。
★最後には、飛び入り可能な大ビッバプ・ジャム・セッション。
(乞う、飛び入り参加!世界に飛び出すキッカケになるかも!)


Bird 2000 のレポート
Charlie Parker Fans "Chasin' the Bird"(管理者:よういちさん)のサイトに掲載された、 Bird 2000 〜パーカー生誕80年記念イベント、よういちさんご自身のレポートを、よういちさんの許可をいただき掲載いたします。

第一部

2000年11月25日(土)「SOMEDAY」にて行われた、チャーリー・パーカー生誕80年記念イベント「Bird 2000」のライブ・レポートで す。いろいろつたえたいことはあるのですが、いっぱいありすぎて充分につたえることができるかどうか・・・。
当日は超満員で、SOMEDAY 近辺は長蛇の列、会場内はまったく身動きがとれないほど。すごい人込みでトイレにもたどり着けない! 年齢層もさまざまで男女関係無く青年からご年配の方々まで、世代を超えてパーカーがずっと愛され続けていることがよく分かります。 パーカーファンがこれだけ居るという事実にまず感無量。なんだか会場に入りきれない人たちもいるぞ。

17:00すぎ Bird 2000 スタート 〜 窪田鉄郎カルテットの演奏
日本チャーリー・パーカー協会会長の辻バードさんの挨拶で「Bird 2000」が開催されました。
一番最初に窪田鉄郎カルテットの演奏です。
「Yard Bird Suite」、「Parker's Mood」、「Just Friends」とパーカーファンならおなじみのナンバーが演奏されます。途中で辻バード さんの曲の解説も入ります。へ〜「Yard Bird Suite」ってストラヴィンスキーの「火の鳥(Fire Bird Suite)」をもじったものなのか〜。 知らなんだ(普通は気づくか?)。アルトの滑らかな音色、ベースなどリズムセクションの迫力のサウンドが天井まで響きます。 それにしても「SOMEDAY」のライブハウスは良い響き具合だな。天井が若干高めで程々の残響感が伝わってきてキモチいい。パーカーがこ こで吹いたらいい音がするだろうな〜。
カルテットの演奏が進むたびに興奮のためざわついていた会場の空気が落ち着いてきてひとつにとけあっていきます。いいな〜。

17:35 トークセッション その1
次は、ジャズ喫茶店主にしてパーカー・フリークの後藤雅洋氏、日本でただひとりパーカーを生で聴いた瀬川昌久氏、世界的パーカー音源 蒐集家である三浦和三郎氏が順々にパーカーについて語っていく、トークセッションです。
まずは後藤氏がパーカーをよく知らない方のためにパーカーの概括を語ります。なにせ今回「今日はパーカーは出演するのですか?」とい う問い合わせが入ったそうですから!そして後藤氏の店の経営とパーカー体験をリンクさせて、パーカーの凄さを語ります。氏の人生その ものがパーカー体験から直接的な影響をうけたことがうかがえます。
次に瀬川氏が日本で唯一生のパーカーを聴いた当時の体験を語ります。1953年9月26日カーネギー・ホールでのことです。そのときの様子 を書いた文章を読んだことはあるものの実際お話を聞いてみて会場の様子だけでなく当時のN.Y.の様子が頭の中に浮かんできました。ワタ シ達がビレッジバンガードなどにいくのとは違って、当時日本人がカーネギー・ホールへ行くということはホント特別な状況だったのだろ うと思います。
その次は三浦氏が自身のパーカー・コレクションについて語ります。銀行にお金を借りてまでパーカー蒐集をするという執念がスゴイ。や はりお金には苦労されていたのですね。そして珍しいコレクションも見せてもらいました。ブラック・デュース・レーベルの1947年9月29日 カーネギーホールのSP3枚組み、ダイヤルレーベルのSP、そしてジュビリーAFRSの16インチ放送用トランスクリプションです。 わっ、わっ、辻バードさん落とさないで!
そしてここで今日の目玉のひとつ、全世界未公開の1949年2月11日カーネギー・ホールでのセッションの音源が会場に流れます。スゲ〜。 ファッツ・ナバロやソニー・クリス、フィリップ・フリップスなどが一堂に会した演奏で「Leap Here」が流れます。ソロの順番は、フィ リップ(ts) 〜 トミー・ターク(tb) 〜 (as) 〜 ナバロ(tp) 〜 (as) 〜ハンク・ジョーンズ(p)。「アルトサックスの順番はパーカーが先 かクリスが先か言いませんので当ててみてください」といわれてちょっと緊張。隣にいた「ジャズ批評」の編集者の方々も聴いていて悩ん でいた様子でした。でも音色の伸びと突き抜け方、そしてフレージングでわかった。最初に出てきたアルトがパーカーだ! それにしてもコンサート音源でこの集音のよさは奇跡的です。大バコのコンサートは録音位置や方法によって音源の善し悪しが激しく個 人的にはそれほど期待を寄せないようにしていたのですが、この音源は程よい残響、コンサートならではの一体化した空気が感じられてと ても良いです。パーカーの透明で突き抜けた音色が一直線に耳に飛び込んできます。イメージとしてはSavoyの「an EVENING at HOME」の パーシングボールルームのコンサートがもっと白熱したかんじでしょうか。各人のソロが終わるたびに観客からの歓声があがっています。 ナバロも高らかにトランペットを吹き上げて白熱のソロです。

そうこうしているうちに長い白ひげをたくわえた黒ずくめの老人の姿が・・・。今年で79歳、チャーリー・パーカーを中心にしたビ・バッ プ・イラの生き証人、トニー・スコット氏の入場です。おお、貫禄・・・。

この次は、ジョン・コルトレーン研究の世界の第一人者、藤岡靖洋氏からの手紙による祝辞、のはずだったのですが、何と本人、矢も盾も たまらず他の仕事ほっぽって来ちゃいました。「コルトレーンの'40年代のアイドルはパーカー。パーカーがいなければコルトレーンのス タイルも完成しなかった。パーカー命のコルトレーン、ということで来ました」とのこと。着物姿で素晴らしいフットワークです。

18:45 伊東伸威カルテットの演奏
今度は伊東伸威カルテットの演奏です。会場が混みすぎてメンバーがなかなかステージにあがれない。ベーシストのかかげ持つアコース ティック・ベースが頭の上を通りすぎる・・・。曲目は「Red Cross」に「All of Me」。「Red Cross」とは、シ、シブイ。おもむろに白 熱のフレーズを吹ききるアルト、軽やかな音色が耳にキモチいいギター。張り詰めた空気の漂う中、丁寧にバックをつけるリズムセクシ ョン。ビ・バップのスリルと緊張感、醍醐味を充分に味わせてくれます。
「All of Me」ではピアノが見事なストライド・ピアノを披露。緊張感から一転して和やかな空気につつまれ会場は盛り上がりました。

19:10 トークセッション その2
再びトーク・セッション。有名ジャズ評論家の岩浪洋三氏、日本ホットクラブ会長の石原康行氏、そしてパーカーのベストフレンドかつ 世界有数のクラリネット奏者トニー・スコット氏です。それにしてもムチャクチャ豪華メンバーだな。
岩浪氏がディジーからきいた映画「BIRD」の感想が興味深い。でも話がどうしてもパーカーの女性遍歴の話へそれていく・・・。親近感 持てます、パーカーにも岩浪氏にも・・・。
石原氏によって1963年現TBSにて収録されたトニー氏の演奏「I'll Remember April」が公開されました。クラリネットの音色が高らかに 響き渡ります。トニー氏は目を細めて聴きいって壁にかけられたパーカーの写真にキスをします。感極まったトニー氏はクラリネットを 持ち出しテープの演奏にあわせて「ピー」と一吹き。

そしてトニー・スコット氏のパーカーとの思い出が語られます。
興奮しながらひたすら話し続けるトニー氏に通訳の方があいだに入るスキマもありません。でも断片的にこちらに伝わってくる話は当時 を体験してきた重みとリアリティに満ちています。
「パーカーが吹くとライブハウスの床がびりびり震えた」
「最初にパーカーをThree Deucesで聞いたとき、あまりにも理解を超えていて月から中国の音楽が聞こえてきたように感じた」
「もしクスリをやっていたら俺はおまえを絞め殺す、とパーカーは言った」
「パーカーが死んだと叫ぶバブス・ゴンザレスからの知らせをきいて、N.Y.各地の死体安置所に問い合わせた」
「パーカーの葬儀のときチャールズ・ミンガスが、その棺はパーカーではない!と叫んだ」などなど・・・。

さっきからクラリネットを持ちウズウズしながら興奮気味のトニー氏、いよいよ彼のソロ演奏が始まります。「Blues for Charlie Parker」。ものすごい大きいサウンド!深みと激しさの交錯するフレーズ。講演の中でトニー氏はこうも言ってました。
「そもそもクラリネットでビ・バップをする奏者は(私以外)まずいない。バディ・デフランコもいるがブルースが足りない。ブルース がなければ!」
「パーカーはとてつもなく大きな音を出す。クラリネットではなかなかこうはいかんが、クラリネットでは私以上に大きな音を出す奴は いない」
そのサウンドからはバップ・クラリネット奏者としての気骨を猛烈に感じます。目を閉じてクラリネットに息を吹き込む姿はパーカーに 魂を捧げているようにも見えます。
最後に先ほどのトニー氏の演奏テープと花束が石原氏からトニー氏へ贈呈されました。
トニー氏は一言「パーカーはパリの公演で贈呈されたバラの花を食べていたね」。

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第二部

    休憩時間に入ったと同時にちゃっかりトニー氏にサインをもらいにいきました。
こころよく引き受けてくれるトニー氏。書いてもらうモノはもちろん「Cafe Society」のバードのCD。バードとトニー氏の共演が入って いるCDです。それに気づいたトニー氏喜んで、ジャケットから文字をはみだしながらサインしてくれました。うれしい〜。気がついたら 背後にサインをまつ列ができてます。わたしへのサインはジャケットが小さいので彼の名前だけでしたが、ほかの人の色紙には 「The Prophet of Black Jazz」と書かれています。
「Prophet…ってどういう意味でしたっけ…」
「え〜っと、たしか…、よげんしゃ?…って意味だったような…」
パーカーは黒人ジャズの預言者だ、という意味のようです。なるへそ。
サインを待つ長蛇の列がいまだおさまらないまま、待ちに待ってた大森明クインテットの演奏が始まりました。

21:00 大森明クインテットの演奏
最初の曲は「Little Willie Leaps」。ナバロと共演した音源やディーン・ベネデッティの音源など、パーカーの演奏のなかでも個人的 に大好きな曲です。
どっしり安定したアルトをがっしり支えるリズムセクション。アルトの大森氏が吹けば吹くほどメロディーがひろがっていきます。 トランペットがふくよかな音色で演奏を盛り立てます。コテコテのバップ曲でありながら余裕と楽しさを感じる演奏です。
次の曲は「Quasimado」、ってこれまたシッブイな〜。この曲演奏している人みたことないぞ。ミュートをつけたトランペットとアルト が一緒にテーマを吹くと、お〜DIALの演奏とダブって聞こえる〜。トランペッターはメガネがずれながらも暖かみのあるフレーズを吹 き上げる、ピアノがうるおいのあるサウンドを響かせる、おだやかなテンポの中、アルトは執拗にダブルタイムフレーズをくりだすが、 そこから聞えてくるフレーズもどことなく暖かい。
シロウト目にもむずかしそうな最後の「Ko-Ko」のイントロもまったく破綻なく独自のフレーズを吹き上げる。いや〜、はやいはやい。 ドラムスの疾走感がキモチいい。

それにしても今日のライブは普段体験するライブと雰囲気がちょっと違う。先ほどのトークセッションのときもそうだったけど出演者 と観客の垣根を感じません。演奏者や講演者にはどこかしら親しみを感じ、観客は観客で出演者を盛り立てようとする空気を感じます。 それはきっと観客、演奏者、リスナー、コレクター、評論家、プロ、アマ、スタッフ、すべからく「パーカーを愛するがゆえにこの場 に集まった」という共通認識があるからだとおもいます。会場全体が親密な空気に包まれています。これもパーカーの力でしょう。

21:30 大森明クインテット featuring トニー・スコット
今日の最大の目玉です。大森明クインテットにトニー氏が加わって演奏します。曲は「Now's the Time」。
あれだけ完成度の高い安定した大森氏のバンドに彼がまじると空気が一転、かつての52丁目の雑踏を想像させるような、ある種猥雑で 迫力に満ちたサウンドになりました。トニー氏、スゲー音。縦横無尽にクラリネットの音色が飛び交います。トニー氏がわたし達の知 らないはずの'40年代ビ・バップ・イラの空気を現代に運んできてくれているように感じます。
そして「Lover Man」。クラリネットの音は生々しくトニー氏の肉声であるかのように耳に届いてきます。決して甘くないサウンド。 「今の奴は知らないだろうが、ジャズクラリネットはこう吹くものなんだ!」
そう言っているようにも聞こえます。
途中でトニー氏は、凛とした姿勢で渋味と迫力のあるボーカルを聴かせます。この時点で彼がいったい何歳なのか、もうまったくわか らないようになります。リズムセクションも喜びをあらわにしてトニー氏に付き従い、盛り立てます。場の空気を彼一人で変えてしま いましたよ。

22:00 ジャム・セッション
そしてトニー氏のスキャットナンバー「Scot Scat」でプロアマ入り乱れたジャム・セッションに突入します。
アルトサックス奏者、クラリネット奏者、トランペット奏者、などなど何人そろったのでしょう?ステージ上はぎゅうぎゅう詰めで客 席までプレイヤーが溢れています。老若男女プロアマ関係無くそれぞれが自分の全てをぶつけたソロをみせてくれます。
そんな中でもトニーが大将。ランニングベースのソロにも景気よく声をかけて、ドラムスともスキャットで掛け合いをします。トニー 氏がさまざまなリフを即席で作りだし声をあげるとプレイヤーもそれにあわせて合奏します。大盛り上がりです。
だんだんトニー氏のスキャットが暴走しはじめたぞ〜。
なんか足を広げてスキャットしながら手を横にかかげた。もしかして相撲の土俵入りか〜??
おぉ〜なにか抜いたぞ〜?なにか突き刺す真似をしてるぞ〜。フェンシングか〜!
おぉ〜となりのトランペッターのわき腹をつまんだぞ〜。スキャットでぼそぼそ雑談を始めたぞ〜。「ちょっとキミ運動始めたほうが いいんじゃないか。まずいよ」〜。
おぉ〜見栄を切ったぞ!歌舞伎かぁ〜??!ドラムスが拍子を取る「どどどどどん」。
もうスキャットの領域を超えている!(当たりまえだ)
今度はトニーのスキャットにあわせて客席が合唱します。もうこのあたりになってくると私の頭も朦朧としてきます。
曲は「All the Things You Are」に移ります。各人が力をふりしぼってプレイします。熱気がたちこめ、まだまだ演奏の続くなか、ト ニー氏は静かに会場をあとにします。ジャズが生き生きしていた時代の空気をそこに残して・・・。
最後は当サイト、アンケート人気No.1の曲「Confirmation」。ウクレレとハモニカもまじってすごいことになってます。ジャズが好き、 ビ・バップが好き、バードが好き、そんな人々の「Confirmation」のテーマの大合奏は天の上のパーカーに届いたに違いありません。

23:00すぎ 「Bird 2000」 終了
個人的印象ではパーカー・ファンというのはジャズの世界のなかでも意外と少なくて、このサイトを始めてからどうやら存在するという ことだけはわかった、と、このような状況で「Bird 2000」が開かれることで会場にあふれんばかりのパーカーファンを初めて確認するこ とができました。つくづくこのサイト( http://www.chasinthebird.com/ ) を作ることで「Bird 2000」に参加するきっかけを得ることが出来てよかったとおもいます。
リスナー、プレイヤー、評論家、プロ、アマ、関係無くパーカーを愛するものは同志、という仲間意識を会場に来た皆さんから感じまし た。貴重なお話と気持ち良い演奏をきかせてくれた出演者の方々、このイベントを開いていただいたスタッフの方々、ありがとう。
そして現代に生きるパーカー・ファンと、チャーリー・パーカーそしてその時代の空気とをリンクしてくれたトニー氏には感謝しきれな い。彼はサイン色紙に「黒人ジャズの預言者」と書いていたけどトニー氏こそがビ・バップ・イラ、チャーリー・パーカーの預言者だっ た、とおもう。
貴重な体験を、ありがとう。



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「Bird 2000」トークセッション第1回 後藤 雅洋 氏

〜私がパーカーの音楽に開眼したいきさつ。「アドリブ」の凄さを実感したことなど。〜

えー後藤でございます。
こんないっぱい人がいると思わなかったんであせっちゃったんですけども、僕が一番バッターということで、チャーリー・パーカーに ついて概括的な話もするということになっちゃったんですが・・・。なにしろあそこに岩浪先生や瀬川先生などお歴々がいる前で偉そ うにいうのはまったくおもはゆいのですけど、これは役目ということで・・・。知っている人はなにをいまさらとお思いになるかもし れませんけど、さっき辻さんのお話ですと「パーカーが出るのか」という素晴らしいことをお聞きになったかたがおいでになるそうで (※1)、そういう意味じゃチャーリー・パーカーってどういう人かあまりご存知ない方もおいでになるようなんでほんのちょっとだけ 説明します。

ビ・バップとパーカー
ジャズの歴史というのは1900年ぐらいニューオールリンズで起こったといわれてますけれども、ちょうど100年ぐらい経ってますよね。 ただジャズの歴史といいましても、それからずっと一本道で来たわけじゃなくって、非常に大きなエポックメイキングな出来事が何回 かありますが、その中で1940年代半ばのビ・バップ革命が僕は個人的に一番大きかったと思います。

後藤 雅洋氏 語る
ビ・バップ革命っていうのは、それまでのスウィング・ジャズに対して、リズムだとか、即興性といったものを圧倒的に改革して、現 代のモダン・ジャズにつながるスタイルを作り出した、そういう運動のことをいうわけですけれども、そういうスタイルを最初に考え 付いてやりだしたのが、チャーリー・パーカーであり、ディジー・ガレスピーであり、バド・パウエルであるわけです。それで、それ 以降のジャズを普通モダン・ジャズというわけですね。だから我々なんとなく「ジャズ」「モダン・ジャズ」って一緒くたにして言っ ててそれで全然問題ないわけですけれども、一応「モダン・ジャズ」というのはパーカー以降のジャズを言います。ですから現在に続 くようないわゆる普通の人が知ってらっしゃるジャズの大もとをパーカーが作ったといって良いと思います。え〜、まあこんなのちょ っと偉そうな話なんですが、とりあえずそういう凄い人だということです。

ジャズ喫茶経営とパーカーとの関わり
ただですね、これから先はちょっと僕の個人的なおはなしをさせてもらいますけれども、私がパーカーに関わったというのは、今言っ たようにチャーリー・パーカーがすごい人であるからということと直接最初からリンクしてたわけじゃないんです。というのは、今言 ったような話というのは僕が言おうが言うまいが歴史的な事実なわけですけれども、なんていうんですか、私はもうジャズ聴き始めて 40年ちかく、ジャズ喫茶を商売にして30年ぐらいになりますけれども、ジャズ聴き始めて最初のころは、パーカー、名前は知ってます けど、パーカーの音楽があまりよくわかりませんでした。もちろんジャズそのものもあんまりよく分かってなかったんですね。
まあちょっと楽屋オチみたいな話になっちゃうんですけれども、僕は中学生くらいからジャズを聴き始めましたけれども、その当時は もう本当に耳当たりのいいビル・エバンスであるとかオスカー・ピーターソンであるとか、これはもちろん今でも大好きなんですけれ ども、そういうのはわかるんですけど、マイルスですらあんまりよくわからない、ましてやパーカーなんか聴いたってなにやってんだ かさっぱり分からない、そういう状態でした。
ところが、自分でもずうずうしいとおもうんですけれども、僕はジャズファンの延長線・・・、ファンとも言えませんで、ちょっとジ ャズを知ったかぶりくらいの程度ですね、その程度でなんと二十歳のときにジャズ喫茶始めちゃったんです。まだ大学2年在学中でした けれども、四谷でたまたま私の親父がバーみたいなことをやってまして、そこがちょっと営業不振におちいってまして、開店休業みた いになって、そこを「おまえ貸してやるから好きなことをやれ」ってんで、そこでジャズ喫茶を始めちゃいました。親父しっかりして てちゃんと家賃も取ったんですけどね。だから、まあ、道楽といえば道楽なんだけど、一応採算ベースも考えて始めたわけです。それ が1967年でしたか。で、その当時プロ・・・というのかな、ジャズ喫茶商売にしてやってるわけですけれども、正直言ってお客だとか うちの店のレコード係のほうがよっぽどジャズ知ってるぐらいで、経営者である私はもう、リクエストされても「それはいったい誰な んだ」なんていうぐらいのていたらくで、とてもいま人に本書いているなんて偉そうなことを言うと笑われちゃうような、そういう状 態でした。
それでもって1967年ジャズ喫茶初めて何年かやっていたわけですけれども、たまたま5年くらい経ったときにですね、四谷で僕店やっ てるんですけども道路拡幅がありまして、いままでやっているジャズ喫茶が移転になる、それでその保障金がでるというんで、たまた ま二軒一緒に店やるチャンスがあったんですね。そのときに僕はジャズまだよくわかってなかったということもあるんですけども、色 気を出してロック喫茶も一緒に始めちゃったんですね。これはまあ、若気の至りだったんですけども。ところがまあシロウトな悲しさ でロック喫茶のほう始めても、もう半年くらいでもって大赤字でにっちもさっちもいかないと、大学でも就職なんかも棒に振っちゃい ましたから、どうしようか、みたいに考えてたことがあるわけです。そういうときにですね、このままロック喫茶をやるのかジャズ喫 茶をやるのか、それともこういう水商売をやめて堅気の商売につくのか、みたいなことを、25歳ぐらいでしたかね、考えたわけですけ ども、その時出てきたのがパーカーなんですね。はなしが遠回りしちゃったんですけども。

アドリブの凄み
どんなぐあいにでてきたかといいますと、そのころ僕はジャズ喫茶もロック喫茶もやってましたけれども、正直いってロックはもちろ ん全然よくわかってませんし、ジャズですら、商売としてジャズ喫茶のオヤジとして5年、ファンの時期も含めれば10年近く聴いていた んでしょうかね。でもやっぱりあんまりよくわかってないんですね。まあジャズの好き嫌いはあるんだけれども、ジャズってどういう 音楽か、その本質みたいなものをあんまりよく分かってなかった。
そこでですね、結局人間追い詰められると自分がやってることの意味はなんなのか考えるわけですね。自分はジャズなんてものに関わ っているけれども、果たしてこれは意味があることかどうか、けっこう切実に考えたわけです。そういうときに僕が一番考えたのはジ ャズの世界で最高といわれてる人を聴いてみて、それが果たしてどういうものなのか、それが本当に価値のあるものなのか、それに価 値があってその価値を自分が理解できるかどうか、そこに賭けてみようと思いました。
それで・・・、今でも覚えているんですけども、ちょうど25歳くらいでしたかね、パーカー、当時ダイヤル盤でしたか、東芝EMIから アナログ盤が7枚組ぐらいでてたのかな、それを買いこみましてですね、まあその前からパーカーのレコードは持ってたんですけれど も、正直に言いますとそれ以前からパーカー聴いてたんですけども、あんまりよくパーカーわからないんですね。
寺島さんなんかといつも論争すると※2「アドリブか曲か」みたいなこというんですけど、パーカーはとにかく聴き所がアドリブです から、アドリブのおもしろさが分からないと、まったく分からないわけです。僕はやっぱりそのころ駆け出しファンの悲しいところ で、アドリブっていうのがあんまりよくわかってないんですよね。だからメロディは分かるからメロディが美しい曲だと、いいなとお もうけれども、アドリブがバリバリでてくると、いったいこれは何やってるんだかさっぱりわからないと・・・、そういうことがあっ たわけですけど、そこでジャズのアドリブってどういうものなのか、パーカーのアドリブってどういうものなのか確認しよう、といっ たことがありまして・・・。
今のうちの「いーぐる」でもって夜、店終わったあと、ダイヤル盤ですか、もうずーっとかけました。何回も何回も聴きました。で、 何週間聴いたかは忘れちゃいましたけども、非常に今でも覚えてるんですけど、最初はもう本当になんか無意味な音の羅列みたいに聞 こえたパーカーのアドリブラインが、言葉にならないんですけども、ものすごい衝撃というんですか、「こんなすごいことやってるん だ」「とんでもないことやってるじゃないかこいつ」と、あるとき急に分かりました。
理屈なんか分からないですよ、「コード進行に基づいたうんぬん」なんて、それはあとからお勉強で知ったことで、そのときはなんだ かよく分からないです全然。ただ聴いているだけです。まあただそれまではボーっと聴いてたのを、自分の商売どうするか考えるとき にあたって根性入れまして、一音も逃すまいとずーと追って聴いてたわけですけどね。
分かったというのは体で覚えるみたいな感じですね。ここんところ自分でも本書いてても、アドリブの凄さってなんなんだって人に聞 かれても、それはもう聴いてもらって分かるしかない。
これはたとえば数学の公式なんかは頭で本読んでそれで理解して分かるんですけども、たとえば泳ぎ方であるだとか鉄棒の仕方なんて のを教えてもらったって分かるわけないんですね。教えてもらって自分で練習しなきゃいけない。
ジャズの場合練習って何かって言ったら、聴く方は演奏するわけにはいかないですから、もう聴くしかないわけですね。体に音が完全 に染み込むくらいというか、なんていうのかな、「音を聴いてる」最初は音がそっちにあって聴いてる自分がこっちに居る状態ですよ ね。それがずーっと聴いているうちに、音の中に自分が入っていっちゃうような状態になるまで聴きこむ、そうすると、まあ絶対かど うかはわからないですけども、僕の場合にはあるときに、こう・・・なんていうのかな、パーカーのソロと自分の身体がシンクロナイ ズしたみたいな感じで、大げさじゃなくって背筋に電撃が走るみたいな、「これがアドリブの凄みなのか」というのが分かった。
その時以来僕は、パーカーって凄い、アドリブって凄い、ジャズって凄いと、非常に単純な三段論法ですけども、そういうとんでもな い凄い音楽に自分が賭けるという、商売としてやるということ、これに確信を持てました。それ以来、僕はジャズっていうものを、も ちろん好きですし趣味としても最高の趣味だと思うんですけれども、趣味として関わってるなんてもんじゃなくってこれは自分が一生 関わっても・・・、うまくいくかどうかは別ですよ、うまく関われるかどうかは個人の能力だとか運があるから、別だと思うんですけ ども、関わるっていうことに悔いはないものだということを確信しましたね。
ですから今も、商売のほうは・・・ジャズ喫茶あんまり経営状態よくないし、なんでこんなことやってるんだ、なんて女房にいつも言 われますけれども、決して悔いていません。それは自分のやってきたことがどうこうということでは全然なくて、自分のやってきたこ と、その対象ですね。自分のやってきたことの対象であるジャズ、そのジャズの価値を保証するパーカーの存在。これは今でも全然変 わってませんし、僕も商売で店で毎日7時間ジャズをかけています。で、本なんかも偉そうに書かせてもらってますけれども、いまだ にパーカー聴きます、仕事柄。やっぱり・・・、やっぱり凄いですよ。もう全然変わらないですね。で、いまだに「あんた誰が一番好 きだ」って聞かれたら、やっぱりパーカーだっていうしかない。やっぱりパーカーだと思います。

「Famous Alto Break」
ちょっと興奮して長くなっちゃったんですけど、まあ出だしとしてはこんなもんでいいんじゃないかと思うんで、最後にですね、私も 一生懸命聴いてて最初全然分かんなかった、騒音みたいな音の羅列だったものが途中からアドリブの凄みみたいなものに開眼した演奏。 これは有名なダイヤルセッションでパーカーマニアの方には耳タコで聴いたとおもうんですけれども、マイルスなんかが入った3管の やつですね。ロスの方で録音したやつですけど、これを聴いていただきます。
それでですね、これも有名な話なんですけどもパーカーっていうのはアドリブが凄い、アドリブがめちゃくちゃ凄いわけですから、途 中でですね演奏そのものがミスしたり崩壊しちゃったりパーカー自身が間違ったものもあるだろうしサイドメンが間違ったのもあるだ ろうしいろいろあるでしょうけれども、ミステイク、失敗しちゃったテイクでもパーカーのソロだけ注目して聴いてみるとやっぱりも のすごい出来っていうんですか、恐ろしいほどの切れ味がある。そういうことでもってパーカーの場合はミステイクも全部含めて残っ てます。
その中でも特に有名なのがそのダイヤルセッションのときの「A Night in Tunisia」のミステイクですね、「Famous Alto Break」って いう名前で呼ばれてますけども。パーカーが「A Night in Tunisia」の有名な6回繰り返すリフをやったあとアドリブに突入するわけで すけども、まあとんでもない凄いアドリブですけども、どこが間違ったのか分からない、パーカーが間違っているというよりサイドメ ンが間違ったのかその辺ちょっとよくわからないんですけども、それが途中でミステイクになっちゃいます。だけれどもアドリブの切 れはとんでもないものですね。「Famous Alto Break」それをまず最初に聴いていただいて、そのあと本テイクっていうんですか、 「A Night in Tunisia」の一応市販されているテイクですか、それを聴いていただいて私の話を終わろうと思います。じゃちょっとか けてくれますか。もう30年以上前私が死ぬほど繰り返し聴いたやつですけども。

(会場に「Famous Alto Break」「A Night in Tunisia」流れる)

20世紀を代表する芸術
あの〜、昔のことを思い出したりなんかしていろいろ考えちゃったんですけども、要するにパーカーっていうのは私にとってかなり特別 な存在でありまして、極端な言い方かもしれませんけれどもパーカーがいなかったら、パーカーのよさを僕がもしわかんなかったら、ま あ絶対かどうかはわからないですけど50%くらいの確率でいまこういう商売やっていたかどうかはかなり疑問だと思います。ジャズとい う音楽自体が、大げさな言い方をすると、信じるに足るものかどうか考えた場合、その価値を保証してくれるのが僕の場合パーカーの存 在です。あそこに藤岡さんがいますけどコルトレーンでもなければマイルスでもないというか、コルトレーンも立派な人ですけれども、 他の人ではなくチャーリー・パーカーであるということです。それは非常に個人的なものですけど。ただ、ジャズという音楽が20世紀の最大のアートであるということ。これは単に個人的なことじゃなくって、僕、間違いないと思いますね。20世紀もあと一月半くらいで終わりになっちゃいますけども、20世紀を代表する芸術というのは映画と・・僕はジャズだと思います。それ以外は19世紀あるいはそれ以前のものですけど、20世紀のアートっていったらジャズと映画しかないと思うんです。そのなかでやっぱり突出しているのがチャーリー・パーカー。20世紀を振り返って見た場合、絶対名前がでる人間、トップランクに挙げてもいいと僕は思います。 というわけで出だしに堅い話で申し訳ないんですけれどもこれで終わらせていただきます。

※1 : 「Bird 2000」開催にあたり、主催者の辻 真須彦氏に「この日はチャーリー・パーカーは出るんですか」という問い合わせがあっ たそうな。
※2 : 寺島さん・・・吉祥寺のジャズ喫茶「MEG」の名物経営者、寺島 靖国氏。「ジャズは曲だ」と主張。

「Bird 2000」トークセッション第2回 瀬川 昌久 氏

〜カーネギー・ホールで生のチャーリー・パーカーを聴いた想い出〜

私がアメリカに参りました1953年の9月26日土曜日なんですけども、カーネギー・ホールでコンサートがありました。

カーネギー・ホールでのコンサート
私は数ヶ月前にアメリカに来まして、とにかく夢にまで見たアメリカのジャズが聴けるというんで、うれしくてうれしくてとにかく毎晩 ラジオを聴いていたんですね。そしたら真夜中のラジオで「今度カーネギー・ホールでチャーリー・パーカーその他が出る」ということ をアナウンスしたものですから、これはもう凄いと思って翌日カーネギー・ホールにとんでいったんですよ。
ところが9月26日土曜日にですね2回パフォーマンスがありまして、8時15分の回とそれから11時45分の回、アメリカは夜遅いですから2回 ある。ところが8時15分というのはもう売り切れておりまして、それで11時45分しかないということだったんで、それでもいいからと・・・。 当時はまだ学生みたいな身分でお金もないんで一番安い、確か2ドル50セントくらいだったと思いましたけれどもそれを買いまして、当日 予約してカーネギー・ホールに行ったんですね。
天井桟敷の一番後ろだったんですが、まず驚いたのがカーネギー・ホールのある辺りというのは洒落たヨーロッパ風の喫茶店なんかがあ りまして、あまり黒人の人はこないんですけども、カーネギー・ホールで普段アンドレ・コステラネッツなんてやってるときは黒人の 姿はみえませんけど、なんとこの日に限っては特に一番安い最上階の席はほとんど黒人だったんですね。で、びっくりしちゃいまして、 やっぱりパーカー達は黒人の人たちにとって英雄なんだなという気がいたしました。

パーカーの認知度
そしてそのころのパーカーは・・・、'55年に亡くなったと思うんですが、'53年のころは非常に人気があったんだと私思います。という のはレコード屋行ったりラジオを聴いてますと、パーカーの演奏を非常によくやってたんです。
なぜかといいますと、ちょうどパーカークインテットのラテン物がでた後なんですね。「La Paloma」とか「La Cucaracha」だとか、つま り誰でも知っている曲をパーカーがやっている。それからもうひとつはウィズ・ストリングス。これがやっぱり非常に当たりましてバー ドランドで何回もウィズ・ストリングスのコンサートがありまして、そういうときはもう満員だったわけですね。
つまり、パーカーもやっぱりそういうのをやりたかった、「メロディーを綺麗に吹く」ということもは彼も非常に好きだったんだと思う んですね。ですから誰でも、そんなにジャズが詳しくない人でもすんなりと聴けるパーカーのレコードがでていた後でした。レコード屋 行きますと、まだLPなんかあんまりなかったんですが、45回転の「La Paloma」だとか「La Cucaracha」だとか売ってましてね、私はそ れを買ってきたおぼえがあるんですが、そういう時代なので非常にパーカーのジャズも大衆に受け入れられていた時代だというふうに私 は思います。

瀬川 昌久氏 語る
カーネギー・ホールのコンサートの顔ぶれ
それでカーネギー・ホールのコンサートはまた顔ぶれが面白いんです。これはこのときのチラシなんですけども(コンサートのちらしを 取り出す)ビリー・ホリディが出た、それからチャーリー・パーカー。それからディジー・ガレスピー。そしてバド・パウエルトリオ。 そして最後にスタン・ケントン・オーケストラがでるんですね。
まずバド・パウエルトリオが出てバップを演奏しました。それからチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーがひとりずつでてきて 2,3曲ずつやりました。何をやったか私は記録がないんでわからないんですが、おそらく「Now's the Time」だとかビ・バップの曲をパ ーカーがやったんじゃないかと思うんですね。そしてディジー・ガレスピーが入りますと例によってちょっとおどけた、歌も入れたりし たものをやって、非常にみんなを笑わせた記憶があります。それからビリー・ホリディがでてきて歌いました。そして最後にスタン・ケ ントン・オーケストラが出まして、そこにチャーリー・パーカーがゲスト・ソロイストで出たんですよ。
これは当時のアメリカの有力なプロダクションが、ケントンとパーカーを組んだツアーをアメリカ中に計画したんですね。ですから、こ の日のカーネギー・ホールのコンサートの海賊盤は出てないとおもうんですけれども、'54年に西海岸なんかで2,3回やはり同じような顔 ぶれでコンサートをやっていたときの実況はたしかozoneという海賊盤で出ておりますね。
で、カーネギー・ホールの海賊盤はないんですが、おそらく同じような曲をやったんだと思うんですね。当時のケントン・オーケストラ も非常にメンバーもいい時でして、詳しいメンバー覚えておりませんけれども、チャーリー・マリアーノ、それからリー・コニッツ。そ れから有名なギタリストもおりまして非常にメンバーがよかった時なんですね。それで「My Funny Valentine」とか「Night and Day」と か、そういうのをケントン・オーケストラと一緒に演奏して、これは非常に聴きやすかった。

アメリカのジャズ、パーカーの演奏
私そこで思ったのが日本にいると、白人系のプログレッシブ・バンド、スタン・ケントンのジャズとパーカーのジャズとまったく異質の ものだというふうに日本ではみんなが言ってらっしゃいますけど、アメリカにいくとそうじゃないんですね。同じジャズをやるというこ とで、ケントンの演奏にパーカーがすんなり入って一緒に演奏をやっているということで、私やっぱりアメリカではジャズってジャンル 分けしてはいないんだと、向こうのジャズメンはそうじゃないんだということを、そのときつくづく思いました。
それで、とにかく初めて聴いたときはうれしかったものですから、わくわくするだけであんまり記憶がないんで、当時のこのチラシだけ が唯一の記録になって残っているんですけど・・・。パーカーはそんなに背が高くないんですね。ただわりに太ってまして、そして吹く ときは両足を開いてどっしりかまえてとても姿勢がいいんです。で、本当に朗々たるアルトの音が3階の一番後ろまで場内いっぱいに響 きわたる、この音量の大きさにも大変びっくりいたしまして、非常に感激したおぼえがございます。

そんな思い出を披露させていただきました。ありがとうございました。
(会場に「Autumn in New York」が流れる)

「Bird 2000」トークセッション第3回 三浦 和三郎 氏

〜パーカーコレクターの喜びと悩み〜

どうも、皆さんこんばんは。大変な紹介のされかたをして恐縮なんですが、あの〜、まあパーカー好きですから、ノコノコとこういうと ころに出てきて、ちょっとおはなしをさせていただくわけですけど。一応チャーリー・パーカー協会の事務局長ということで、そういう 役割でお仕事をさせていただいておりますが、今日は1時にこちらに参りまして、なにもしないでただくたびれて、大汗をかいている状 態なんですが。

パーカーとの出会い
私がジャズを聴き始めたのは、やはり後藤さんと同じように40年ほど前ですね。若干歳も違いますんで、私のころはアート・ブレイキー ですとかキャノンボール・アダレイそれからホレス・シルバー、そういうライブを聴いて非常に喜んでた。

三浦 和三郎氏 語る
で、パーカーとの出会いというのは、その5年後ですね。35年前になりますが、北海道に居たものですから、とある小さな町のジャズ 喫茶で聴いたヴァーブのウィズ・ストリングスでした。曲名はちょっと覚えてなかったんですが、「え〜、これがパーカー?」っていう 感じで聴いた記憶があります。
まあそれから、いわゆるジャズ・レコードの世界で「幻の名盤」っていうブームが起こりまして、かなり高価なレコードがオークション で入札されて人気を呼んだという時代があったんですが、そのころに相当海外のオークションに参加して、幻の名盤をどんどん買い漁 っていた。まあ、先ほど(辻バード)会長のおっしゃったように貧乏サラリーマンのくせにですね、銀行からお金を借りてまで買い集め たと。そういう時代がちょっとありまして、いつのまにか気がつきましたらパーカーのレコードばかり集めてまして、一番最初ヴァーブ のウィズ・ストリングスを聴いたんですが、特にパーカーの難しさとかはそういうことはあまり感じなくて非常に聴きやすい曲だったん ですね。ですからまあそういうものにのめりこんでいったんでしょう。そのあとに聴いて、いわゆる驚愕の、驚愕というか非常に 感激したレコードが1953年の5月15日。トロントのマッセイ・ホールで演奏したライブですね。あそこにポスターがかかっておりますけど も。そのときのライブを聴いて非常に驚きまして、パーカーの素晴らしさはライブにあるな、ということでライブを中心にず〜と聴いて きたんですが。
まあいつのまにか・・・、私は神奈川に住んでおりまして、賃貸の小さなマンションなものですから入れられるスペースが限られますん で、たんなるもの集めにすぎないんですけども、パーカーばっかりが集まってきて、どんどん処分しなければ入らない状態になってきま して、まあ、たまたま気がついたらパーカーのレコードしかなかったという状態になってました。

パーカー・コレクション披露
まああの、珍しいものというのは結構手に入っているんですが、特に今日皆さんにちょっとお見せしたいのが、1947年の9月27日ですね。 これはカーネギー・ホールでライブ録音されたものなんですが、いわゆる海賊版でSPがでたんですね。その演奏会の直後に海賊版のSPが でまして、店頭に並んだんですが当局のお達しでですね、「そういうものを販売しちゃいかん」ということですぐ引っ込められたという 話なんです。ですから市場に出回っている枚数としては非常に少ないんです。 3枚組みのSPなんですが、レコード会社がきちんと出したものでないんで認知されてないSPレコードなわけです。それを私がなんとか認 知しようということで、こういうアルバムを自分で作りまして(自作アルバムジャケットを披露)、これは有名なブラック・デュースと いうレーベルでございます。これは3枚セットで販売されたSPなんです。一般的にいわれるSPアルバムに比べて非常に丈夫な箱に入れて、 私の棚に鎮座しております。ちょっとこういうジャケット類をつくるのも趣味の一つなんですが・・・これは世界で一つしかありません ね。
それからいわゆるSP盤のオリジナル・アルバムという形では、さきほど後藤さんがご紹介しましたダイヤル・レーベルですね。これはこ ういうアルバムに入って販売されたものですが(ダイヤルのSP盤アルバムを披露)これは3枚入っております。それで私もダイヤル・コ レクションというものにちょっと夢中になってまして、SP盤、番号でいうと1059番まであるんですが、これはパーカー以外もあるんで すが、いわゆるパーカーの後見人のロス・ラッセルが作ったレーベルです。これのSP・LPコレクションのコンプリート・コレクションを 目指しておりまして、ほぼテスト版も含めてだいたい一通り集まったかな?。ただロス・ラッセルという人は、パーカーのSPを発売した ときに、その一度出したものが売切れてしまうと、別のテイクをカップリングして出しているわけですね。ですから同じ番号で2種類、3 種類のSPがあるわけです。ですからそれを探すのも気が遠くなるぐらい大変なことなんですね。まあ、まだまだ手にしていないものもあ りますんで。

ダイヤル・レーベル SP盤
それでせっかく海外のオークションなどで集めたものがですね、実際に日本に、私の手元へやってくる際に割れちゃうものがありまして ね、最後はこんな形になってこういうセンター・レーベルだけとってあるというような状態です(レコードがすっかり割れてセンター・ レーベルだけが残ったものを披露)。
それからもう一つですね辻会長からぜひ紹介してくれといわれて持ってきたのが、16インチのトランスクリプションですね、放送用の レコードなんです。これは、瀬川先生が今月のスイングジャーナルで「BeBop into Cool」というCD紹介でですね、このトランスクリプ ションをくわしく紹介しております。これが40センチ(16インチ)のトランスクリプションというものですね(AFRSトランスクリプシ ョンを披露)。これはAFRSというアメリカ軍の放送用のレコードですね。この時はジュビリー・ショーからのものですから、これしか 音源はなかったわけですね。これがいまCDにもなっておりますけれども。このなかに一曲だけ「Shaw 'Naff」という曲が入っておりま す。1945年の12月25日の録音ですね。パーカー・ガレスピーのコンビです。(この直後辻会長、盤を落としそうになる)
それから瀬川先生の紹介していた、今月のスイング・ジャーナルにかかれております「Voice of America」、これも16インチのトラン スクリプションですが、これの64番、残念ながら私は63番というこの片割れをもっておりません。これも・・・何年でしたっけ、あが っちゃって覚えてません。すいません(※1)。

門外不出の音源披露
ちょっと時間がないので先に進ませていただきます。
そして先ほど辻会長から紹介していただきました'49年2月11日のJATPのカーネギー・ホールのコンサートです。これは私が勝手にジャケ ットを作りまして、門外不出のこれしかないCDなんですが、入手先を明らかにしないということとコピーをしないという約束で手に入れ たものなんです。
このときはJATPのセッションですからメンバーはいつものとおりなんですが、珍しいのはファッツ・ナバロが入っているということ。こ のファッツ・ナバロのトランペットが非常にいいんですね。で、メンバーをちょっと紹介しますとファッツ・ナバロのトランペット、ト ミー・タークのトロンボーン、ソニー・クリスとチャーリー・パーカーのアルトサックス、フリップ・フィリップスのテナーサックス、 ハンク・ジョーンズのピアノ、レイ・ブラウンのベース、それからシェリー・マンのドラムですね。シェリー・マンというのはなかなか このときわかんなかったんですね。たまたまダウンビート誌を調べていたら、このときのセッションはシェリー・マンだということがわ かったわけです。
このなかの「Leap Here」という曲をちょっと聴いていただきますが、ソロの順番がフリップ・フィリップスのテナー、トミー・タークの トロンボーン、そのあとにアルトが入る、そのあとにファッツ・ナバロのトランペット、ファッツ・ナバロをはさんで次にまたアルトサ ックス、そしてピアノのソロと、11分ぐらいの長い曲なんですが(アルトサックスで)先に出てくるのが誰か、パーカーがどちらか、そ の辺をちょっと聴いていただければと思います。

(会場に「Leap Here」が流れる※2)
※1 おそらく1949年12月24日とおもわれる。
※2 その場で実際聴いたところ、おそらく最初のアルトサックスのソロがパーカーとおもわれる。

「Bird 2000」トークセッション第4回 岩浪 洋三 氏

〜ディジーの語るパーカー、映画「BIRD」のこと、
カマリロ病院を訪ねて〜

   え〜、皆さんこんばんは、岩浪です。
 ぼくはやっぱり、一番好きなインストゥルメンタリストはチャーリー・パーカーなんですけど、ただ辻さんとかここにお集まりのお偉 い方のようにパーカーの珍しいものなんか何も持っていないんですね。ただ2,3ジャズメンと会ったりしてチャーリー・パーカーの話を 聞いたりしたんで、そんな話をちょっと紹介したいとおもうんですけど。

ディジーの語るパーカー
チャーリー・パーカーの仲間の一人だったディジー・ガレスピーが日本の斑尾高原のジャズ・フェスティバルへきた晩年の頃に会って、 いろいろ話を聞いたんです。

岩浪 洋三氏 語る
まあ、ガレスピーの言うことっていうのは、ジョージ川口と同じでホラ話も多いんでどこまで信用していいかわからないんですけど。彼、 自分のひいばあさんはアフリカの酋長の娘だったとか言ってました、だから俺はアフリカの衣装でステージにでるんだとかそんなことも 言ってました。
チャーリー・パーカーの伝記映画で「BIRD」というのがありますよね、クリント・イーストウッド監督の。彼にあれのことをちょっとき いたら「俺はあの映画は嫌いだ。良くない」という。なぜかっていったら「俺のところに何も話を聞きにこなかったうえに、あの映画は 暗すぎる」って言うんですね。
チャーリー・パーカーという男は、本当に冗談と馬鹿話が好きで、もうとにかく明るい、本当にあんな楽しい男はいない。でも、あの映 画はとにかく暗すぎると、あれじゃあパーカーの一面しか描かれていないから、俺はあの映画は嫌いだ、と言ってましたけど。
僕もあの映画あんまり好きじゃないんですね。

映画「BIRD」のこと
あの映画は、ワーナーが一度没にした脚本をクリント・イーストウッドが自分で買って映画化したんですけど、あの映画はチャン・パー カーという白人のカミさんがひとりいい子になっている映画で、僕はあれ嫌いなんです。
もっとパーカーの女性関係は複雑で、昔、村岡貞さんというHot Clubの会長がスイング・ジャーナルに「チャーリー・パーカーの女体遍 歴」という大変すばらしい原稿をだしてくれて・・・、そのときの編集長は僕でしたけど。とても素晴らしい、とにかく酒・女・歌のひ とだったんで。
どうもあの、ジャズ映画っていうのは、皆女性との事を単線的に描きすぎて、「ビリー・ホリデー物語」なんかも全然おもしろくなかっ たですけど、もっともっと黒人の女性とのからみとか、もっとパーカーの本当の人間味をだしてほしいとおもったし。あのパーカーを演 じたフォレスト・ウィテカー、外国ではなんか演技賞をもらったそうですけど、パーカーとか芸術家の持つそのオーラみたいなものが全 然、顔の形は似てても、精神が似ていないというか、余り良くなかったと思うし。あの映画の脚本はチャン・パーカーが脚本にも自分で 参加してるんですね。ですから自分ばかり良く出来てて・・・。もう一回チャーリー・パーカーの伝記映画を作り直して欲しいっていう のが僕の気持ちなんです。ただね、あのパーカーの本当の演奏を使ったというところだけは誉めてあげたいと思うんですけど。
で、クリント・イーストウッドという人、ロスでちょっと一回会ったことがあるんですけど、彼はお父さんが大変なジャズファンで、サ ンフランシスコにいた頃親父に連れられて一回だけパーカーの生を聴いた事があるそうですね。それでやっぱりクリント・イーストウッ ドもパーカーが好きで映画を作ったっていう・・・、そういう出発点は立派なんですけど。
それであの映画の音楽の監督はレニー・ニーハウスという人がやってますけど、今クリント・イーストウッドの映画のほとんどはレニー ・ニーハウスがやってます。去年のモントレージャズ祭に「クリント・イーストウッドの夕べ」というのがあって、演奏はしませんで したけどレニー・ニーハウスをつれてきて挨拶させてました。
実はクリント・イーストウッドという人は軍隊にいたときにバンドを組んでまして、そのときバンドリーダーがレニー・ニーハウスでア ルトを吹いて、クリント・イーストウッドはピアノを弾いてたそうですね。で、そのとき以来、まあ戦友というか、非常にレニー・ニー ハウスと仲良くなってクリント・イーストウッドは自分の映画にみんなニーハウスを起用しているようです。

カマリロ病院を訪ねて
パーカーの曲に「Relaxin' at Camarillo」というのがありますね。カマリロはたしかサンフランシスコの近くですよね。
去年、友達に会いに行くんでロスからサンフランシスコの方に車を走らせたんですね。小さな山を二つぐらい抜けて、そうですねロサン ゼルスから一時間ちょっとぐらい走りましたかしら。そしたら、ロスというのはもともとが砂漠ですからあまり木が育たないんですが、 山を越えて出たところがものすごく風光明媚で緑が美しくて太陽がさんさんと降り注いで、ここどこだろうと見たら、そこがカマリロだ ったんですね。
僕は別にカマリロの病院に用があったわけじゃないんですけど、たまたま人に会いに行ったら、本当に風光明媚で、なるほどこういう所 で静養すれば麻薬も抜けるのかなという、そんな感想を持ちましたけど。

Verveのパーカー
僕は割とへそ曲がりで、先輩のジャズ評論家が「Verveのパーカーはだめだ」「Verveのビリー・ホリデーはだめだ」と言うのに反抗して 評論家になったようなものですけど、ですからパーカーもVerveのが一番好きだし、ビリー・ホリデーもVerveが一番好きなんです。 Verveのマイルス・デイビスがけなげにパーカーの後からついていってる「K.C. Blues」、カンザス・シティ・ブルースを聴いていただき たいと思います。
(会場に「K.C. Blues」が流れる)

[日本チャーリー・パーカー協会 辻会長 補足]
わたしも、いま話の出たチャン・パーカーとはずいぶん仲良くて彼女の家に何回も行っていろんなことがあったんですけど。
彼女自身は、クリント・イーストウッドの「BIRD」のいろんな手助けをしたのは誇りに思うと言って、アメリカはもう絶対行きたくなか ったけどその時だけは行ったんだ、と言ってたんですけどね、もう亡くなりました。
パリの郊外ですね、パリから車ですっとばすと一時間半ぐらいのだだっ広い、もう見渡す限りの平原の中にぽつんと村があってそこに住 んでました、ええ。
その前の奥さんドリス・パーカーはちゃんとパーカーと結婚して、チャン・パーカーは籍は入れないんだけど子供はいるという・・・。 チャーリー・パーカーはなにしろ「チャーリー・パーカーと女性」という本を書いたら、こんなに書けるんですね。うらやましいですね、 天才は。もう黒人のチャーリー・パーカーに対して白人の女の人が押し寄せてきてね、もうやり放題という、そういうね・・・、こんな こと言っちゃいけないのか。まあ、天才は良いんですよね。別にね。あと50年100年たったら、モーツアルトと同じように扱われますから 。はい。

「Bird 2000」トークセッション第5回 石原 康行 氏

〜トニー・スコットとの放送録音のエピソード〜

 

いまご紹介いただきました、石原でございます。
Hot Clubの宣伝までしていただきまして有難うございます。
え〜と、Hot Clubというのは1948年に創立しまして、初回の会長が村岡貞さん、野川香文さん、それからラストに(ライブ演奏で)出演 される野口さんのお父さんの野口久光さんと、それから前代の油井正一さん、そして五代目を私が微力ながらつとめております。

ラジオ東京でのトニーの放送録音 -- 石原 康行氏 語る
そういうわけで今日は辻さんにお招きいただきまして、バードの会ということなんですけど。
私もちろんチャーリー・パーカーが大好きですし、どれがいいということも言えませんけれども。今日は実はさきほどお話したようにト ニー・スコットさんが見えておりますので、トニー・スコットさんが1963年の9月22日に、その当時TBSの名前がラジオ東京でございまし たけれども、そのラジオ東京の頃に番組を作りました。その番組を今日お持ちして皆さんとそれからトニーさんも一緒に聴いていただき たいと思っております。
三十数年前の録音なんでトニーさんも若々しい声で、素晴らしいクラリネットソロをしてくれます。そして実際は録音の中にはトニーさ んのクラリネット、それからバリトンサックス、それからピアノというふうに三種類の楽器を使ってやっておりますので、実は今日はそ の中でクラリネットの部分だけを聴いていただきたいとおもいます。

放送録音のインサイド・ストーリーなど
それでこの番組をつくるにあたってちょっとインサイド・ストーリーがございまして、簡単でございますがご紹介しますと、実はこのト ニーさんが瀬川さん、今日もお越しになっている瀬川さんからぜひ番組で何か出演をさせていただきたいということなので、私がそれを 受けましてやろうと思っていたところが、たまたま私のほうの番組があったものですから、別の人間にトニーさんのそのセッションを頼 んだわけです。
そうしたら何を勘違いしたかトニーがクラリネットを吹くということが頭に合ったものですから、要するにバディ・デフランコとかベニ ー・グッドマンのスタイルをやるんじゃないかというふうにと勘違いしまして、楽器編成がスリーリズムにバイブという編成で用意いた しました。
ところが当日トニーさんがお見えになりまして、その私の同僚のディレクターなんですけども、会って楽器を持った瞬間、「俺はベニー ・グッドマンではないんだ」ということで「今日はやりたくない、帰る」と言われたんです。
それで、そのディレクターが私の所へ飛んでまいりまして、トニー・スコットさんは「帰る」と言っていると。「どうした」と言ったら 「こういう編成で、こういう風に、自分はグッドマン・スタイルのスウィングをやってもらおうと思っていた」と言っていましたが、そ れは大きな間違いだと。
それじゃたまたま私が別のスタジオで録音をしているのでそのグループと会って、もしよければ一緒にやってもらおう。ということで、 そのメンバーを申し上げますと八木正生 のピアノ、原田政長のべース、富樫のドラムという編成で、その当時としてはモダンなグルー プで、八木さんがモンクに凝っている頃です。
そしてトニーさんのところに行って、今ではもう覚えてらっしゃらないとおもいますが、トニーさんと会って最初にトニーさんが私に言 ったのは「演奏する曲はなんだ」ということなので、私は「A Night in Tunisia がいい」と言ったらば、「ああ、それなら俺のことが 分かっているみたいだ」と言うんで、さっそく同調していただきまして演奏を取ることができました。
ちなみにその頃63年ですからトニー・スコットさんが42歳、八木正生 さんが31歳、原田さんが30歳、今も元気にやっていらっしゃる富 樫さんが23歳の頃です。まあこの頃はまだ富樫さんが女性問題で怪我をしない前ですのでちゃんとしたドラムベースを含めて演奏してお ります。私の年齢も言わないとあれですから・・・、その頃私の年齢は40歳でございました。
そしてその放送局の中で岩浪さんとはもう長くお付き合いがありまして、岩浪さんがまだ松山に居られた頃、ラジオ東京に毎日のように ハガキが送られてきて、この曲をかけろとか、この曲はおまえのところには無いのかというようなことをわんわん言われまして、その都 度丁重にご遠慮した・・かどうかはちょっと覚えてませんけども、そういった意味ではちょっと今日お見えになった方の中では一番ジャ ズを古くから聴いているんじゃないかなとは思います。

それでは、トニーさんも含めて皆さんに聴いていただきたいと思うわけですけども、曲目は最初にテーマがありまして、そのころ録音で すからテーマをとっておいてあとからコマーシャルを乗っけるというスタイルでとってます。ですから最初にテーマがありまして、それ からトニーさんのメンバーの紹介、それがあって「I'll Remember April」、それからバラードの「Stardust」を演奏してます。まだ他に もあるんですが、とにかくこの2曲を聴いていただきたいと思います。どうぞよろしく。

(会場に番組テーマ、トニー氏によるメンバー紹介、「I'll Remember April」「Stardust」が流れる)


辻 バード氏のコメント
11/25(土)に開催された "Bird 2000"会場のSOMEDAYは、170名以上の聴衆が参加されました。入場出来ないで帰られた方、長時間 立ち見だった方、ほんとうにゴメンなさいね。午後5時から11時まで、6時間にもおよぶ熱気溢れるセッションを、最後まで熱心に聴か れたみなさまには、心から感謝を捧げます。トニー・スコット氏も興奮していました。そして感激していました。 たくさんの方々が協力して、力強いチームワークで、この会を成功させました。ありがとうございました。 次は、2005年の「パーカー没後50年」です。次回は、もう少し大きな会場でやりたいものですね。 辻バード


このBird2000開催にあたり、パンフレットの裏面に記載のとおり、東芝EMI(株)様および日本コロムビア(株)((株)ヒートウェーヴ) 様に協賛いただきまして、タイミング良く Charlie Parker on Dial,Vol.1〜Vol.4 と Complete Studio Recordings on Savoy Years Vol.1 〜 Vol.4およびComplete Royal Roost live recordings on Savoy Years 4 titles が発売となり、会場にて販売いたしました。


チャーリー・パーカー/モダン・ジャズを創った男
"Charlie Parker His Music and Life"
カール・ヴォイデック著 岸本礼美訳 小田弘一・日本チャーリー・パーカー協会監修 ・(株)水声社発行
    Bird 2000 の準備を進めながら、この本の出版作業を続け、タイミング良くこのイベント当日に完成し 会場で販売することができました。

Woideck US     Woideck US
U.S.A. Original            日本語版

辻バードさんが亡くなられておよそ2週間後、2007年3月28日にトニー・スコットさんがご逝去。また、 Bird 2000 トーク・セッションに参加された石原康行氏も2010年11月24日に、ご逝去されました。  合掌

JAZZ WORLD 原稿 2000年12月29日    辻 真須彦

 2000年はモダンジャズの開祖チャーリー・パーカー生誕80年の年。それを記念して "Bird 2000"と言う大イベントが「日本チャーリ ー・パーカー協会」(会長 辻 真須彦)の主催で11月25日に開催された。会場のSOMEDAY(東京新宿)には、パーカーを愛する熱心な聴 衆が詰めかけ、超満員の盛況で、熱気に溢れたセッションが次々と繰り広げられた。特に遠くローマから駆けつけたトニー・スコット (クラリネット)のパワフルな演奏には、会場の熱気が更に高まった。

  "Bird 2000"は、単にジャズの演奏セッションだけではなく、パーカーを愛し長年研究してきた、著名な評論家の方々がたくさん参 加し講演を行った。後藤雅洋、瀬川昌久、三浦和三郎、岩浪洋三、石原康行氏の貴重な講演と、パーカーの未発表録音を含む紹介が行 われた。これに続き、トニー・スコット氏が舞台に立ち、生前のパーカーの想いでを中心に講演を行った。当年79才のトニーは、まる で昨日のことのようにパーカーを語り、パーカーの偉大さを熱烈に語った。

 第二部は演奏に移り、大森明クインテットの3曲に続き、トニー・スコットが登場し、一緒に共演した。特に、パーカーゆかりの「 ラバーマン」では、クラリネットと共にヴォーカルも披露し、その強烈なパワーには満員の聴衆が圧倒された。その後、飛び入り参加 ありのジャムセッションに移り、多数のアマチュア・ミュージッシャンを含む奏者たちが、ビバップを演奏し盛り上げた。

 この会は、2つのアマチュアバンドの演奏で午後5時に開始されたが、その終演は午後11時過ぎになり、延々6時間にもおよぶパー カー記念のセッションになった。また会場では、この日に同時発売された本「チャーリー・パーカー/モダンジャズを創った男(水声 社刊)」も紹介された。こうして、ジャズの歴史の中でもっとも重要な地位をしめるチャーリー・パーカーの、生誕80年を記念する日 本で唯一のイベントは大成功のうちに幕を閉じたのだった。Bird Lives!!



辻 バード 【本名】 辻 真須彦
Masuhiko Tsuji    (TSUJI-Bird)

1932年10月23日 神戸生まれ
慶應義塾大学在学中の1952年から1965年まで、ジャズ・アルトサックス奏者。
  1986年「旅先通信」を提唱し、以来世界のどこでも、いつでもパソコンを持ち歩き通信を行う
日本チャーリー・パーカー協会会長
カンザス・シティー名誉市民
2000年11月25日(土)「SOMEDAY」にて-- パーカー生誕80年記念イベント--Bird 2000 開催。
2005年 3月13日(日)「SOMEDAY」にて〜チャーリー・パーカー没後50年の夕べ--Bird 50! 開催。
2007年 3月30日食道ガンにて死亡。享年74歳。
ここで紹介する文は、ニフティのパソコン通信によって、旅先からパティオ(PATIO)へ書き込みしたものです。 辻バードさんが、1994年9月にロンドンで開催された、オークション参加からカンザス・シティへ寄贈した経緯、等を 中心に、書き込み文を紹介します。

Bird 2000 flyer

Bird 2000 flyer back

Bird 2000 flyer
Bird 2000 チラシの裏面に記載された辻バードさんのコメントを拡大しました。

Bird 2000 ticket
Bird 2000 チケット

tony scott arrived at Japan
イベント前日24日、トニー・スコット夫妻が成田に到着。

arrived at Japan

Scott and CPSJ
早速日本チャーリー・パーカー協会の面々がホテルでお迎え。

Bird 2000 会場 open 前
イベント会場に続々集まる観客の皆さん。

リハーサル大森さん
"Bird 2000"当夜の演奏に対し、入念なリハーサルを行う、大森明。パーカークインテットの再現 なるか?。ピアノは野口久和。(お父さんは高名な野口久光氏です。)自身もビッグバンドを持って活躍中。(TSUJI-Bird)

リハーサルその1

リハーサル2

リハーサル3

リハーサル4
トニー・スコット氏とのリハーサル風景

辻Birdさん挨拶
開会の挨拶をする辻バードさん。

辻Birdさん挨拶
司会進行のみし奈昌俊さん。司会のプロだが、無料奉仕してくれた。ありがたいことです。(TSUJI-Bird)

窪田鉄郎カルテット

窪田鉄郎カルテット
窪田鉄郎カルテットの演奏。いよいよ "Bird 2000"が開幕右端に半分顔が見えるのが評論家の後藤雅洋氏 真ん中の背中は、フランスから参加されたGUY DE LA SERVE 氏。(TSUJI-Bird)

観客席

観客席
熱心に演奏を聴く聴衆たち。非常にレベルが高いことはボクが喋る解説の反応からすぐに分かる。(TSUJI-Bird)

イーグル後藤氏
後藤雅洋氏の講演。まずチャーリー・パーカーとは何なのかを語る。氏がジャズに、特にパーカーにのめり込んだ いきさつを聴くことが出来た。(TSUJI-Bird)

イーグル後藤氏
ジャズ喫茶店主でもあり、多数の著作を持つ後藤雅洋氏ならではの充実した講演。 Famous Alto Break、Night in Tunisia をCD再生演奏。(TSUJI-Bird)

瀬川昌久氏
日本でただ1人、実際にニューヨークで生のチャーリー・パーカーを聴いた体験を語る、瀬川昌久さん。 当夜のプログラムを手に持っている。Autumn in New York をCD再生演奏。(TSUJI-Bird)

瀬川昌久氏
1959年-1965年には、トニー・スコット氏との深い親交があった瀬川氏。多数のジャズに関する著実で、今も現役で活 躍されている。(TSUJI-Bird)

藤岡靖洋氏
大阪から、急遽駆けつけてくれた、藤岡靖洋氏。世界的なジョン・コルトレーンの研究家、収集家である氏は、いつも 和服姿である。パーカーとコルトレーンの関係を軽妙に語ってくれた。(TSUJI-Bird)

藤岡靖洋氏
モンタレージャズフェスティヴァルの消印が入った、チャーリー・パーカーの切手を贈呈する藤岡靖洋氏。 ありがとう!!!。(TSUJI-Bird)

三浦和三郎
世界的なチャーリー・パーカー音盤コレクター三浦和三郎さん。数々のパーカーCD発売の監修にたづさわっている。 日本チャーリー・パーカー協会事務局長。(TSUJI-Bird)

三浦和三郎
コレクターの喜びと悩みを語る講演は当夜のハイライトの一つでした。講演の終わりには、誰も聴いたことの ない貴重なパーカーの録音を聴くことが出来た。"Bird 2000"ならではの喜びです。(TSUJI-Bird)

三浦和三郎
ロス・ラッセル氏が作った初版のダイヤルレコード"BeBopアルバム"もちろん78回転のSPである。(TSUJI-Bird)

三浦和三郎
放送用のトランスクリプション。これはパーカー・ガレスピーなどの「ショウナフ」米軍放送ジュビリーの録音盤 オリジナル。(TSUJI-Bird)

伊東 伸威クインテット
伊東 伸威クインテット、演奏曲目:(1) RED CROSS (2) ALL OF ME 伊東 伸威 (as);久保木 靖 (g);福田 真司 (b);畠山 尚久 (ds)
伊東 伸威クインテット
久保木 靖 (g)、Videoからのキャプチャー。撮影森岡甫宏さんは、ボランティア精神を発揮して、急遽この会をDV-CAM で撮っていただいた。ありがとう!! 。(TSUJI-Bird)

岩浪洋三氏
岩浪洋三氏の講演。ディジー・ギレスピーが語るパーカー像。映画[バード]のこと。カマリロ病院を訪れた話し。 文章と同じように、軽妙で分かりやすい語り口であった。講演の終わりには、KC Blues をCD再生演奏した。ありがとうございました。 (TSUJI-Bird)

石原康行氏
1950年代1960年代を通じて、ラジオ東京のディレクターとして活躍された石原康行氏。当夜は主にトニー・スコット氏と の様々なエピソードを語って頂いた。氏は現在「ホットクラブ・オブ・ジャパン」の会長でもある。(TSUJI-Bird)

石原康行氏
1963年9月22日録音のトニー・スコットの演奏をテープで再生。若き日のトニーの声でメンバー紹介続いて、I'll remember April と Stardust の演奏。トニー・スコット氏自身は感慨深げに聴いていた。(右側下から3人目)(TSUJI-Bird)

禁煙の会場
超満員の聴衆は、熱心に真面目に講師の話しとパーカーの演奏を聴いていた。"Bird 2000"は、ほんとうにパーカーを 愛する人たちが創り上げた集まりだった。だけど「禁煙」はよかったですね。これだけの人が集まって、換気の悪い地下です。 これにはトニー・スコット氏も大喜びでした。(TSUJI-Bird)

サインするT.スコット氏
サインするトニー・スコット氏。 (TSUJI-Bird)

会場スナップ
世界的ジョン・コルトレーン研究家、藤岡靖洋氏と辻バード。"Bird 2000"へ大阪からわざわざ駆けつけて頂きました。(TSUJI-Bird)

会場スナップ
若い女性のアルトサックス奏者たち。ビ・バップを立派に吹ける頼もしさ。ジャムセッションに参加して頂き ました。大森明さんの弟子です。(TSUJI-Bird)

ジャム・セッション
ジャム・セッション風景。一番手前の後ろ姿はもしかしてワタシ? (よういちさん)

Tony Scott

Tony Scott

Tony Scott
トニー・スコットが登場し、まず「私は、日本語全部忘れました」と、日本語で言った。(TSUJI-Bird)

Tony Scott
「私にとって、チャーリー・パーカーは神のような存在です。」「私は、どこへ行っても、演奏する前にチャーリー・ パーカーのことを語り、そして彼に捧げるブルースを吹きます。」★スピーチ中の「マスさん」とは辻バード=MASUHIKOのことです。 (TSUJI-Bird)

Tony Scott

Tony Scott
確かに、トニー・スコットが日本で暮らしていた1960年〜65年当時も、この彼が作った"Blues for Charlie Parker" を吹いていた。静まりかえる会場に、トニー・スコットのクラリネットが響く。(TSUJI-Bird)

Tony Scott
チャーリー・パーカーに初めて会った時のこと、彼との様々な場面でのつき合い。話したいことが多すぎる。 通訳は、小山さち子さん。音楽の友社から出ている「チャーリー・パーカー」の訳者であり、LD「バードを追って」の字幕の訳者でも ある。(TSUJI-Bird)

Tony Scott
チャーリー・パーカーの死を、トニー・スコットはどんな風に体験したのか。もう、この様に語れる人は非常に少ない。 (TSUJI-Bird)

Tony Scott
講演は、あまりスムーズには進まなかった。トニー・スコットは興奮していて、話しはあちこちへ飛ぶ。ボクは、時々 割り込んでは話しの筋を戻す。通訳は、小山さち子さん。(TSUJI-Bird)

Tony Scott
トニー・スコットは、チャーリー・パーカーとビリーホリデイ、そして彼自身が一緒に写っている貴重な写真を取り出 した。会場のみなさまに、これのコピーを差し上げるはずだったが、これが出来なかった。ボクは、これから発売する "Bird 2000"CD に、この写真を付けようと思う。(TSUJI-Bird)

Tony,Billy & Bird

Tony Scott
トニー・スコットは、パーカーの写真を指さし・・・「この "Bird 2000"のような会は、世界のどこにも開かれてい ない。この会に参加されているみなさんの名前は、たぶん後々の歴史に残ることでしょう。」と言った。(TSUJI-Bird)

Tony Scott
トニー・スコットの感激は最高潮であった。79才の高齢を押して日本へやってきて、彼は心の底から幸せを感じていた。 日本に、こんなにチャーリー・パーカーの理解者が多数存在するなんて、夢にも思っていなかったから。 花束を贈呈したのは、成田元子さん。(TSUJI-Bird)

Tony Scott
左は、トニー・スコットの娘、モニカの夫ラファエロ。(ロンドン在住)ビデオを撮っているのが、トニー・スコット 夫人のシンシアさん。彼らにはボクが特別に撮影を許可した。(TSUJI-Bird)

Tony Scott
"Bird 2000"の翌日、トニー・スコットに昨夜の録音を聴かせました。音(DAT) の素晴らしさに驚嘆しています。 彼は「昨夜はパーカーが会場にいた」と主張します。辻バード、トニー、瀬川昌久氏。 11/26(SUN) PM4:00。(TSUJI-Bird)


2007年7月25日、辻バード夫妻はローマのトニー・スコット邸を訪問した。

Tony Scott july
トニー・スコットとボクが、はじめて会ったのは1995年の7月だった。その時に、パーカーについて、約2時間くらいの インタビューをして、それをビデオにも撮った。ボクは、彼がパーカーを語る姿が好きだ。心から敬愛するものを語る時のトニーは素 晴らしい。ボクとトニーは、ともにパーカーの伝道者である。"Bird 2000"への参加を、こころよく引き受けてくれたトニーに、深い感 謝を捧げたい。(TSUJI-Bird)

Tony Scott july
ボクらがオミヤゲに持って行った浴衣を着たトニー・スコット。オクサマのシンシアさんにはTシャツを差し上げた。 (TSUJI-Bird)

Tony Scott july
壁に貼ってある、さまざまな写真について説明して行く。一つ一つに鮮明な想い出が残っている。(TSUJI-Bird)

Tony Scott july
ピアノを弾き、唱うトニー・スコット。パーカーとビリーホリデイの写真がピアノに乗っている。若きトニー・ス コットも一緒にいる。向こうに見える抽象絵画はトニーの作品。「チャーリー・パーカーの精神」と言う題名である。(TSUJI-Bird)

Tony Scott july
数々の賞状も壁に貼ってある。左上の女性は娘さんのモニカ。桃色の人はディジーギレスピー、それとトニー。 現在79才であるトニーには、凄いエネルギーがある。(TSUJI-Bird)

Tony Scott july
3人目のオクサマのシンシアは、熱烈なトニーの信奉者。現在は彼の有能な秘書である。自身は抽象絵画を描く。シンシ アさんも11月にトニー・スコットと一緒に来日します。(TSUJI-Bird)
(注)シンシアさんが運営する The Musical Universe of Tony Scott [ Tony Scott - The official site ]   http://www.tonyscott.it/