カンザス・シティでBirdの墓参り
カンザス・シティでの一日の続報 -No.5-
「チャーリー・パーカーの墓」(前編)ボクは、カンザス・シティへ行ったら、是非その際にパーカーの墓に詣でてみたいと、日頃思っていました。この墓にまつわる話も 色々とありますので、一度は現物を見たかったのです。なにしろ、2〜3年前に誰かがこの墓石を盗んでしまったのです。それで去年、 カンザス・シティのミュージシャンを中心とする有志がが、これを作りなおしたのだそうです。
さて、市議会でのイベントを終えて、一旦ホテルへ帰りました。帰る車の中で、 Lina Stephens (ライナ・ステフェンス。割合白い
黒人でとても美人!! 背が高くて、静かな人で、インテリ。彼女とは今年になって電子メールで、沢山のやり取りをしてましたから、
ネット・フレンドです。)に、「ボク、パーカーの墓にこれから行きたいのだけれど、地図を書いてくれれば、我々だけで行くけど」
と言った。彼女は「私知らないけど、分かる人に聞いて、15分後にホテルへ地図を持って来るわ」と言う。部屋に入らないでロビー
でビールを飲んでいると、約束通りに彼女が来た。
地図とお墓の住所のリスト。それにマーカーで印がしてある。「本当に貴方たちだけで行けるの?」ボク「ええ、行けるよ。タクシー
を雇って行くから心配しないでね」「じゃ、これでお別れね」(固い握手)ボク「それでは、またインターネットでメールしてね」
(彼女はAmerian Online)「ええ、するわ」お別れの熱いキス(これはウソ!)伊万里も隣にいました。
丁度、そこへ奥平夫妻が、憎っくき「観光」から帰ってきた。部屋へ入ってシャワーを浴びて、今度は5人でタクシーでパーカーの墓
へ出かける。運チャンは、74歳のシワクチャな黒人。この人に「チャーリー・パーカーの墓へ行くんだけど、知ってる?」って聞くと
「誰だそれは?」って全然興味がない。でも、車は地図を頼りにカンザス・シティの街を西へひたすら一直線に走り出す。20分も走っ
たところに墓地があった。「ここだ!」墓の入り口に車を止めて、我々は墓地の中を探しまわる。でも、説明してもらっていた具合に
墓がなっていない。上から太陽が照り付け、朝からの興奮疲れで、さすがのボクもヘトヘトだ。もう諦めて帰ろうかしら?、でももう
一度地図を見せて、運チャンに聞いてみる。すると「あれ、この墓じゃない。もう少し先だ」と言う。全員で乗り込んで走る。クーラ
ーなんてないから熱い暑い。
果てしない直線道路をヒタ走るけど、目指す「リンカーン・セメタリー」が出てこない。代わりに「ワシントン・セメタリー」が出て
きた。その間、何回も何回も街道沿いの店に入っては人に聞く。しかし、本当にすぐ傍に来ているはずなのに、パーカーの墓がある
墓地がない。全員、腹の中で「もう諦めた方がいいのじゃないかしら?」と思っている。
しかし、苦労の甲斐あって、まったく予期しない山奥に、錆び付いている看板「リンカ−ン・セメタリー」が見えた。我々はついに
発見した。ここにパーカーの墓があるはずだ。
カンザス・シティでの一日の続報 -No.6-
「チャーリー・パーカーの墓」(後編)
墓地へ入るけど、ここには立っている墓石がない。全部、土地に平べったく埋めてある。「パーカーの墓は、大きな平らなモニュメン トだ」とは聞いて来たけど、なにせ山の起伏には、芝生は見えるけど、墓石を見渡すためにはヘリコプターで上から見下ろすしかない。 突然、運チャンが叫んだ!。「おおっ、俺はここへ来たことがあるぞ!」「えっ、何年前に?」「確か30年前に来た!」「それにチャ ーリー・パーカーを思い出した。あいつの演奏を良く聴いたもんだ」「えええええーー、ウソ!!ホント??うそーーっ」でも墓は見つか らない。
「じゃもう一度、入り口へ戻ってみよう」我々はソロソロとスロー運転で山を昇って行く。ボクとMAX吉野さんが同時に叫んだ! ないかーー。もう少しで見過ごすところだった。慌てて降りて見ると、割合新しい墓石にサキソフォンの絵も書いてある。隣にパーカ ーのお母さんの墓もある。ボクは感激のあまり、すこしヨロヨロとして目の前が霞んできた。(このまま心臓麻痺で死んだら、パーカ ーの隣に埋めてもらえるかしら?)ここは多分、貧乏な黒人の墓地だ。だから、入り口には、粗末な錆びた看板しかないし、墓石は平 らな石片でしかない。全員がそうだ。パーカーだけが例外的に大きくて立派だ。でもそれは近年になって作ったからだ。パーカーは第 一、ニュー・ヨークに埋葬されたかったそうだし、カンザス・シティへは帰りたくなかった。(これも未亡人の、チャン・パーカーの 話。チャン自身も正式の妻ではない・・・)でも、我々はついにパーカーの墓を発見し、それに今詣でる。
買ってきた「白と黄色のキクの花束」を捧げる。ボクは無神論者だし、なんの宗教にも属していない。ただ黙祷を捧げた。そして、心 の中で「パーカーの墓は、本当は彼の遺した膨大な録音の中にあるのだ」とつぶやいた。しかし「ボクは本当にこうやって、はるばる カンザス・シティに来て、今日は、一日パーカーのためにここで過ごした。有り難い。やはり物事は執念深く追い求めて行くものだ。 簡単に諦めてはいけない。パーカーは35歳で死んだ。人生を一瞬のように駆け抜けて行った。そして、誰もが出来ない高みに到達して 、それが彼の悲劇を生んだのだ。現在でも、パーカーの音楽の真の価値を人々は認識していない。ボクは、本当に微力だけど、少しで も彼の音楽がこの世に残って、広まって行くための努力を続けたい。」
これで、ボクのカンザス・シティでの目的は、全て完璧に終わった。ボクの行動を逐一デジタル・ビデオカメラに納めてくれたMAX 吉 野さん!!!!!!! ありがとう。はるばる、このために付いてきてくれた伊万里よ、ありがとう。それにニューヨークから高い航空運賃と 宿泊料も使って同行してくれた奥平さん夫妻よ、ありがとう。カンザス・シティの全ての人達よ、ありがとう。来年の 5月には、い よいよジャズ・ミュージアムのオープンだ。その時には、我々「日本チャーリー・パーカー協会」としても、更に大きな人数で、ここ を訪れることでしょう。人類は、常に価値あるものを発見し、それを鑑賞することで我々の文化を守ってきた。バッハも、150年後に やっと価値が認められた。なんでも、深い意味を人類が知るには、長い長い時間と、絶え間ない研究の末なのだ。ちょこっと聞いたり、 見たりして、すぐに理解出来るものが、常に氾濫している。しかし、これらはたいてい、すぐに消えていく。パーカーの音楽は、難し いし、深い。ボクは、もう 40年も聴いてきて、最近やっと彼の天才を、少し理解出来るようになったと思う。幸せなことだ。自分の 一生は短い。しかし、天才の才能を理解することで、我々の人生は無限と言えるほどの長さと中味を持つことが出来る。ボクはそれを 信じているのだ。
from Paris "AGATA HOTEL" 辻バード
>> チャーリー・パーカーの音楽とはどういうものなのか、
>> 気になります。
はい、日本でもチャーリー・パーカーを熱心に聴いている人は希です。実はパーカーは、モダン・ジャズの開祖と言われて、ジャズ が好きな人なら誰もが知っているし、尊敬もしています。でも、あまり聴こうとはしないのです。どうしてかと言うと、あまり楽しく ないからです。普通ジャズというと、聴いただけで、心がウキウキして、気分が楽しくなるのだと普通の人は思っています。ところが パーカーは、そんなに簡単じゃないのです。
でも、ジャズのプレイヤーたちは、どうしてもパーカーを避けては通れないのです。なにしろ、現代ジャズの文法と言えるものをパ ーカーは一人で作ってしまったのです。理論的に言うと、パーカーはコード進行の解釈の仕方に革命を起こしたのです。それから発し て、フレイジングとか、リズムのパターンとか、音楽のイディオムそれ自体にも革命を起こした、天才的な人物なのです。パーカーが 初めて演奏したコードの解釈は、それ以後のプレイヤーに絶大な影響を与え、そのフレイジングを取り入れて、他の楽器の奏者もパー カー・フレイズを演奏するようになります。
ピアノでは、バド・パウエルを頂点にして、延々と現在にも続いている系譜があります。トランペットでは、当時ファッツ・ナヴァ
ロがパーカー・フレイズをこなし、それがクリフォード・ブラウンとかに続き、現在のトランペッターは基本的にはパーカー・フレイ
ズ(コードの解釈)を基本にしています。テナー・サックスでもそうです。(コルトレーンは、パーカーの影響から如何に逃れるかで
苦闘していました。希な成功の例です。)
ドラムからベースやギターに至るまで、1950年代はパーカーの模倣がジャズを支配しました。
しかし、パーカー自身は、麻薬にひたり、後半生はろくな仕事がなく、逆に模倣者が人気を博するという悲劇的な生涯を遂げたのです。
しかし、パーカーが開拓したこの新しいコード解釈は、ジャズだけではなく、広くポピュラー音楽の常識になりました。現代では、 むしろパーカーは知らないけど、この音楽的構造は、誰でも知っているのです。巷に氾濫している音楽。例えアイドル歌手が、なんの 価値もない歌を唱っても、パーカーの開拓した新しい音楽的な語法は、そんな中にも使われているのです。ボクは、それをいくらでも 証明することが出来ます。
パーカーを尊敬するレニー・トリスターノという盲目の天才ピアニストは言いました。「もし、パーカーが、自分のコード進行や、 フレイズに特許を課したら、現在のジャズ・プレイヤーは、全員、パーカーに莫大な印税を払わなければならない」と。しかし、パー カーは貧困と退廃の中に死んで行きました。35歳でした。たった10年ほどの演奏経歴です。しかし、この輝かしい10年が、現在のジャ ズの基本を造り、その上に広く音楽界全体に影響を与えているのです。ボクらは、この事実を世界の人にもっと知ってもらいたい。 そこで、日本チャーリー・パーカー協会を作って活動しています。世界にも沢山の研究家がいて、彼らとも手を提えて進んでいます。
そして、このカンザス・シティに来年建設されるジャズ・ミュージアムへと続いて行くのです。今ついに、パーカーの生まれたこの カンザスに、アメリカでも初めてのジャズの殿堂が出来るのです。ボクはこれにボクの持っていた、パーカーの遺品を贈呈することで、 パーカーのボクらに与えてくれた貴重な業績を称えようと思ったのです。
>> ジャズ・ファンの皆さんに敬服するばかりです。
しかし、現在の日本のジャズ・ファンは、みんな老齢化しています。ジャズ自身が老齢化しています。ジャズは、商業的に難しい。例 えば毎日のTVを見ても、真面目なジャズは放映されません。NHK のFM だって番組が非常に少ない。ボクは、ジャズは既に歴史的使命を 終わったのだと考えています。丁度、クラシックを聴くような態度で、過去の歴史的な演奏を聴く。そんな時代が来ると思います。その 時こそ、パーカーは燦然と光り輝くのだと思います。丁度、J・S・バッハが、死後150年たった時に、メンデルスゾーンの「マタイ受難 曲」の演奏によって、その正当な地位を獲得したように、(この時から、音楽家はバッハを演奏するようになった)パーカーも、いつか は復活して、正当な地位を得るに違いない。ボクらはそう思って活動しているのです。
from Paris "AGATA HOTEL" 辻バード
Masuhiko Tsuji (TSUJI-Bird)
1932年10月23日 神戸生まれ
慶應義塾大学在学中の1952年から1965年まで、ジャズ・アルトサックス奏者。
1986年「旅先通信」を提唱し、以来世界のどこでも、いつでもパソコンを持ち歩き通信を行う
日本チャーリー・パーカー協会会長
カンザス・シティー名誉市民
2000年11月25日(土)「SOMEDAY」にて-- パーカー生誕80年記念イベント--Bird 2000 開催。
2005年 3月13日(日)「SOMEDAY」にて〜チャーリー・パーカー没後50年の夕べ--Bird 50! 開催。
2007年 3月30日食道ガンにて死亡。享年74歳。
ここで紹介する文は、ニフティのパソコン通信によって、旅先からパティオ(PATIO)へ書き込みしたものです。 辻バードさんが、1994年9月にロンドンで開催された、オークション参加からカンザス・シティへ寄贈した経緯、等を 中心に、書き込み文を紹介します。
The Westin Crown Center Hotel
Hotel Lobby
Lincolne Cemetery Map
1999年9月26日パーカー・プレイスを訪れるバードさん。
1999年9月26日パーカー・レジデンスの前で。
The Charlie Parker Residence, 151 Avenue B, New York City