カンザス・シティでの贈呈式

「旅先通信」会議室のみなさん!! ニューヨークの辻バードです。

>> ボクが、なんのために、ハルバル海を渡ってパリから来ている
>> のかを?

 実は、ボクは1952年にチャーリー・パーカーと言うモダンジャズの開祖・天才(アルトサックス奏者 1920-1955)を知り、 夢中になって録音を集めてました。当時、ボクもアルト・サックスを吹いていたので、懸命になって彼のフレーズを真似して いたものです。それ以後、途中少しの中断があったものの、40年間もパーカーを敬愛し続けているのです。ボクのハンドル 名は、パーカーのニックネームである「バード」から来ているのです。

 1994年の秋に(注:94.09.08)、ロンドンでパーカーの遺品のオークション(注:クリスティーズ)があり、それにボクは、 MAX 吉野さん、PREZ 小田さんと共に参加しました。ここには、世界的に有名なパーカーの研究家が集まってきて、ボクは彼 らとその後、親密な交流を持つことになります。そして、このオークションで、パーカーが吹いていたアルト・サックス (注:英国グラフトン社製プラスティック・アルト)を競い合ったのが、これから出かけるカンザス・シティの市長(黒人) エマニエル・クリーバー氏だったのです。最後に2人で競ったのですが、ボクはついに最後に断念してしまいました。後から、 このサックスを射止めたのが、カンザスの市長であることを知り、かえって嬉しくなってしまいました。代わりに、ボクは、 このサックスにまつわる数点の「遺品」を手に入れました。 そして、その後、パーカーの生まれた街カンザス・シティに、ジャズのミュージアムが建設される構想が発表になり、勿論 その博物館の展示物の中心にチャーリー・パーカーが吹いていた「グラフトンのアルトサックス」が座ることになったのです。 そこで、ボクはボクの持っている、これにまつわる「遺品」(パーカー自筆のサイン入り契約書とか・・・)を「寄贈」 (ドネィション)することをカンザス市長に申し出たのです。彼らは驚くと同時に、凄く喜んで、それから沢山の手紙や電子 メールのやり取りが始まり、ついに、今回のカンザス・シティ訪問になったのです。

 その遺品を、ボクはこのニュー・ヨークのホテルに持っているのです。それを携えて、今日はカンザス・シティへ飛ぶのです。 明日18日(木)の朝9時から、その贈呈式が市長の部屋で行われるのです。既に、カンザスの新聞記者へも招待状が来ている そうです。これに参加する日本人は、辻バード、伊万里(注:奥様)MAX吉野さん、それに今ニュー・ヨークから参加する奥 平俊二・博子夫妻の5人です。

 贈呈式が行われた後に、我々はチャーリー・パーカーの墓に詣でるつもりです。ですから、このカンザス・シティ訪問は、 ボクにとっては人生で記念すべき日になるのです。

 チャーリー・パーカーは、ボクの見解では、20世紀を代表する音楽家の一人になるでしょう。まだ数十年は掛かるでしょうが。 その時は、シェーンベルグとかストラビンスキーとかと、並び称される音楽の天才といわれるはずです。

from New York "LOEWS HOTEL" 辻バード

 今、カンザス・シティのシティー・ホールから帰ってきました。我々は、昨夜も今朝も、市長からなんの連絡もないので、不安な 面持ちで朝の9時に行きました。
すると、エレベーターを降りたら、凄い沢山の人が集まっていて、ビデオカメラも写真屋も来て、一応テーブルにはレセプションの 準備もしてありました。沢山の人とボクは握手して、パム・ホワイティング女史がボクを紹介してくれました。それから市長の部屋 へみんなで移動してそこで、「贈呈の式」が行われカメラとビデオの放列がそれを撮りました。この様子は、MAX 吉野さんが克明に デジタル・ビデオカメラに納めましたので、後で見ることが出来ます。ボクも市長も割合長い演説をしました。

 今は一旦ホテルへ戻って、11時からミュージアムの建設現場へ行きます。そして、午後3時から議会が開かれ、そこでボクらの紹介 が行われて、市長が議会にボクのドネィションを報告することになっています。その後に、いよいよパーカーの墓へ詣でることにな っています。では、もうお迎えが来ると思いますので、また詳しくは後で書きますね。
でも、かえすがえすも、PREZ 小田さんが参加できなかったのは、残念です。来年のオープンには、必ず一緒に行きましょうね。奥平 夫妻は、これからカンザス・シティーの観光に出かけます。でも、ボクらは今日一日、このプロジェクトの人達と付き合わねばなり ません。勿論、Mark Morris とも Lina Stephens とも会いました。とても親密な話が出来ました。やはりネットでいつも喋っていた 人達は違いますね。ライナは黒人の美人でしたよ。

from KANSAS CITY MO "THE WESTIN CROWN CENTER HOTEL"

「旅先通信」会議室のみなさん!! ニューヨークJFK 空港からです。

カンザス・シティでの一日の続報  -No.2-

 午前中の「贈呈式」は、厳粛な雰囲気と、少しのユーモアで、滞りなく終わりました。ボクはどれだけの人たちと、握手を交わし たのだろうか?、正確には覚えていません。市の関係の人々、18th & Vine のプロジェクトの人々、ベースボール関係の人、それと カンザス・シティの古いミュージシャンたち、報道関係の人達、みんなフレンドリーで気さくで、飾り気のない好意に満ちあふれ ていました。

 ボクらの通訳のために、市がミヨ・ワーグナーさんと言う婦人を用意していました。カンザス・シティに40年も住んでいるという日 本人の年配の方です。彼女には、正式なボクの「演説」の時に通訳をしてもらいました。後は、我々は勝手に英語で喋っていましたけ ど。

 「贈呈式」は、市長の部屋で行われたのですが、ボクはトランシーバー・マイクを胸に付けさせられ、TVとカメラの放列とライトが照 らされ、緊張した出だしでした。真ん中にクリーバー市長が座り、右にボク、左にプロジェクトのチーフ(黒人の女性)が座りました。 ボクの隣に通訳の方が座り、パム・ホワイテング広報部長の司会で式は進められたのです。

 まずクリーバー市長が、1994年ロンドン・クリスティーズでの、パーカー遺品のオークションのこと。その後でボクと日本チャーリー ・パーカー協会からのドネィションの申し入れのこと、今回の訪問の意義と感謝の意を、真面目で真剣な中にもユーモアを交えて語り ました。その後にボクが、少し長い演説をしたのですが、この内容については、別項でお話したいと思います。

 ともかく、式が終わって、辻夫妻、吉野さん、奥平夫妻はモミクチャ状態で部屋を出ました。誰もが、ボクの行為を賞賛し、握手を 求めてくるのです。ボクは、市が作った正式の「贈呈を認める証状」にサインして、これで全部が終わりました。ボクが持っていた パーカーの遺品は、全てカンザス市に所有が移ったのです。

 プロジェクトの万バーの黒人女性が我々をホテルへ連れて帰ってくれて、30分間の休みで、すぐに「工事現場」へと出かけました。 (奥平夫妻は【観光】へと出かけましたが・・・・)  --次へ--

 from JFK Airport Best Westin Winsor Hotel 辻バード

カンザス・シティでの一日の続報  -No.3-

 来年の5月に完成する「ジャズ・ミュージアム」があるところは、カンザス・シティの18th Street と Vine Street が交差するあたり です。この辺は、1934年から1943年頃には、一大歓楽街でした。そこで、カンザス・シティ・ジャズが誕生したという、記念すべき地 域なのです。そして、このカンザス・シティ・ジャズこそが、第二次世界大戦後のジャズの主要な流れを作っていったのです。ボクは、 本の上ではこの辺のことを読んでいましたが、実際に訪れてみて、なにか胸がイッパイになり、暑い太陽の日差しに照り付けられなが ら、チャーリー・パーカーのことを考えていました。現在ではこの辺りは廃墟と化していて、人も住んでいません。かろうじて「ジャ ズ・ミュージッシャン組合」がある小さな建物に、古い黒人のプレイヤーがいて、ボクらを案内してくれました。その部屋は「カンザ ス・シティと古い友人」というビデオに出てきた、その場所です。

 工事は順調に進んでいるようでした。思ったよりも大規模な工事で、古い時代のファッサード(前面)をそのまま復元する工事が続い ていました。ブルトーザーが唸り、レンガ職人が汗をかきながら働いている。来年の5月完成を目指して、誰もが目標を持って懸命な様 子が分かりました。この工事を推進するためのプロジェクトが組まれ、その事務所が近くのコーナーにありました。ここで全ての指揮 が行われています。その中心になっているのは、幾人かの黒人女性たちです。彼女らは、みんな、このプロジェクトの意義をよく掴ん でおり、全員なかなかのインテリです。ボクは、完成した時の、パーカー関係の展示の構想図を見せてもらいましたが、とても水準が 高い出来上がりです。センスも抜群です。この事務所には、Windows95 のパソコンが並んでいます。(マックはありませんでした!)

 その後に、ボクらは、3人の黒人女性とともに昼食を取りに出かけました。とても綺麗な店が集まっている地域にです。昼食の中味につ いては、前に書きましたよね。食後にボクが持ってきた、ハイトラ2 を見せました。特に、次々と家族や孫の写真を、パッパッと出す ので、彼女らは驚いていました。P-133 で驚いていたのに、ボクが「RAMは40MB積んでる」と言うと「えっ、フォーティーン(14MB) でしょ?」と発音を直す。ボク「いや、フォーティ(40MB)ですぞ!」彼女らは、「エッ!リアリーー?」ボク「ハード・ディスクは、 1.4GB」彼女ら「ウェー、信じられない」(なんかネットのオフやってるみたいだった。)

 あっ、そうだ彼女らは「オフライン・ミーティング」とは言わないのです。「アンライン・ミーティング」だそうです。アメリカではそ う言うのかしら? そうだとすると、「オフ」じゃなくて「アン」ですね。

  from JFK Airport Best Westin Winsor Hotel 辻バード

カンザス・シティでの一日の続報  -No.4-

 昼食が終わって、一旦ホテルへ帰り、シャワーを浴びて、服も正式のに変えて(ボクは黒の超薄いParis オリントンの上下スーツ。 ノーネクタイ)今度は市庁舎にある市議会会議場へ向かった。議場に入ると、早速議会が始まり、いくつかの議題を処理していく。 ケニアの農業関係の人の挨拶があり、バングラディッシュの人の演説があり、その後がいよいよボクの番だ。

 エマニエル・クリーバー市長(この人はここでも初めての黒人市長。元牧師だった人で人望は高い。この人がミュージアムの建設を推 進している。)が、ボク=辻バードを紹介した。そして、今回のボクのカンザス・シティ訪問の目的を述べ、ドネィションに対して感 謝の弁を述べ、市議会としても歓迎の意を表明する事を要請した。続けて、辻バードが、壇上に立ち、短い演説を行った。(前のケニ アとバングラディッシュの2人のは、あまりにも長すぎたので、みんな辟易している様子だったので)ボクの演説の要旨は以下の通り です。

 「チャーリー・パーカーは、このカンザス・シティの誇るべき偉大な音楽家です。しかし、人類も、みなさまも(議場笑い)、まだこ れを認識していないと思います。彼は、ジャズ・ミュージシャンであると同時に、20世紀音楽を革新した偉大な音楽家であります。シ ェーンベルグやストラビンスキーに比較さるべき音楽家です。もう50年 100年経てば、これはもっとハッキリと分かって来ると、私は 信じています。そして、彼を中心とするジャズ・ミュージアムが建設されると言うことは、このカンザス・シティにとっても世界の音 楽愛好家にとっても、素晴らしい偉大な事業だと思います。そして、私は私の持っていたチャーリー・パーカーの遺品を全部、そこ へ寄贈して、その偉大な事業を支援したいと思ったのです。私は、カンザス・シティを訪れたのは、初めてです。しかし今回の訪問は、 私の人生にとって最大の、もっとも幸せな記念すべき日になりました。」
万雷の拍手が起こり、次に市長が立って「辻バード氏をカンザス・シティの名誉市民にしたい」と提案。全員の拍手で、ボクにその 証書が手渡されました。ボクは、「バード」が生まれた、このカンザス・シティの名誉市民になったという感激で、涙が出て来るのを 抑えることが出来ませんでした。その後、全市議会議員と一人一人握手して、我々は議場を後にしたのです。この様子は、全部MAX吉野 さんがデジタル・ビデオカメラに納めています。吉野さんありがとう!!。

from JFK Airport Best Westin Winsor Hotel 辻バード

カンザス・シティでの一日の続報  -No.5- は、
カンザス・シティでBirdの墓参り に続きます。


ザ・カンザスシティ・スター の記事 1996年4月3日(水)

パーカーの遺品、KCジャズ・ミュージアムへ寄贈の運びに.
    トーキョーのファンがクリーヴァー市長のサクソフォン
    せり落とし以外の遺品を持ってくる.
 BY マーク・モリス(スタッフ・ライター)

(囲み記事)

「もし、ボクがこのメモラビリアを自分の家にしまいこ んでいたら、それは世界中のバード愛好家にとって何の 意味もないことです。
カンザスシティにチャーリー・パーカー・ミュージアム ができて、人々が自分のバード・メモラビリアを寄贈す るなら、バードの生涯と音楽は全人類の文化遺産として 生き続けることでしょう。」

-- 辻 真須彦 --

 皆さんは辻真須彦のことをビジネスマン、コンピューターの魔法使い、ジャズ気狂いだと思うでしょう。だが、彼のことを絶対に単 なる物好きとは考えないで欲しいのだ。
2 年前、友人たちから“辻バード”として知られるツジはロンドンのオークションでチャーリー・パーカーのサクソフォンをカンザ ス・シティ市長エマニエル・クリーヴァーとせり合った。

 カンザス・シティは14万ドルでせり落とし、辻バードは約9千ドルの他のパーカー・メモラビリアをせり落したことで、その羽根 をおさめたのだ。そして、3番目の落札者は失望のうちに立ち去った。 だが、辻とトーキョーの5人の友人たち〜チャーリー・パーカー・ソサエテイ・オブ・ジャパンの全メンバー〜は、これで終わり とは決めなかった。

 彼等はクリーヴァー市長に連絡し、18丁目とヴァイン・ストリートに計画されているジャズ・ミュージアムにオークションで獲 得した他の全てのアイテムを寄贈すると声明したのだ。

 ヨーロッパにビジネス旅行中の辻とe-メールで交信した最近のインターヴューで、彼はバードのイコン=聖遺物はグループのもの だけではないと認識していて、これは世界中のバード愛好家全員のものだと言っている。
「もし、ボクがこのメモラビリアを自分の家に保存するだけなら、世界中のバード・ラヴァーにとって何の意味もないでしょう。」
「カンザス・シティにチャーリー・パーカー・ミュージアムができて、メモラビリアを持っている人たちが寄贈すれば、バードの生 涯と音楽は全人類にとっての文化遺産として継続してゆくでしょう。」

 クリーヴァー市長は、この寄贈はオークションの 2番目に重要なものであると語った。
「彼等は非常に寛大であると言えるので はないでしょうか。私は彼等に勝たせたかったです。だって、そうだったら多分サクソフォンを市に寄贈してくれたでしょうから ね。」まあ、全くそうでもないが。
辻はもし彼の協会がサクソフォンのせりに勝っていたら、せり落したのと同価額で何処かの博物館に売りに出しただろうと語った。 全ての寄贈品は1997年5月に開館のカンザスシティ・ミュージアムに展示が予定されていて、辻も参加を計画している。

 新しい品々は:
1953年のトロント・マッセイ・ホール・コンサートでバードが使用し、今やカンザス・シティにあるクリーム色のアルト・サ ックスで有名な、正にその時のコンサート契約書を含む契約書類。
バードが妻のチャンに与えたマッセイ・ホール・コンサートのオリジナルLP。
ニューヨークのオープンドア・クラブのパーカー・コンサートのポスター
である。

 18 th & ヴァイン・プロジェクトの責任者ロウィーナ・スチュアートは更なる寄贈と貢献を希望している。 「皆が待ってると思うは.だって今までは本当にこういう事が出来るかどうか確かめてなかったんですから。」「だけど、今やカ ザスシティ側としては、このジャズ・ストーリーを世界に知らせる時がきたんです。」 63歳の辻には自分自身のジャズ・ストーリーがある.彼は1950年頃サクソフォンを演奏し始め、それからすぐに彼の持つ全 ての金をチャーリー・パーカーのレコードを買うのに費やしたのだ。彼は約10年前から世界中のパーカー・フアンのためにコン ピューター・ネットワークを通じて“辻バード”のペンネームを使っている。 そして、間違いの無いように言っておくが:彼のバードとビ・バップに対する献身は深く、思慮に満ち、伝播性のあるものなのだ。 「チャーリー・パーカーは在世時のヨハン・セバスチァン・バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、ワグナーに匹敵するでし ょう。」「20世紀における展望としてはバードの音楽はストラヴィンスキー、シェーンベルグ、バルトークと同じレヴェルにあ ります。人々は未だそれに気ずいていませんが、将来必ずその事を認識するでしょう。」 多分、チャーリー・パーカー・オークションの唯一の長引いているミステリーは、あの3 番目の“ハリウッド人種”のことだ。そ れは1988年に映画“バード”を監督したクリント・イーストウッドだと思われているのだ。 多分、イーストウッドはバードのメモラビリアを自分のクローゼットに持っているのではないだろうか。 ジャズ・ミュージアムの役員たちはその寄贈の日を待っている。 小田 弘一

   

ザ・カンザスシティ・スター の記事 --2 1996年7月

“辻バード”からKCへ。
BY マーク・モリス

 1994年のある時、長身のカンザス・シティ市長と短身の日本人ジャズ愛好家がお互いに共同して正にあの“クリント・イーストウ ッド”に打ち勝った。
そして、この火曜日、二人は最良の出会いを果たした.熱狂的チャーリー・パーカー・フアンの辻真須彦は市庁のメンバーたちを熱 い思いにからせたのだ。
「これはボクの人生の最も誇りに思う瞬間です。」
エマニエル・クリーヴァー市長は「私は辻氏の友情溢れる態度と我々の国民的に偉大な音楽家への関心に敬意を表します。」と語った  。

 2 年前、友人たちに”辻バード”として知られている辻はロンドンのオークションでヤードバードのサクソフォンを市長とせり合った。 オークションが始まって、お互い二人はオークション価額を釣り上げているもう一人の人物はパーカーの伝記映画を製作したクリン ト・イーストウッドではと確信し始めた。 クリーヴァーは世界の向こう半分に電話でせっていたので、その場の混乱した事情は判っていなかった。 カンザス・シティ播最終的に14万ドルの値付けをし、勝った。辻は、すでにその前に約9千ドル分のパーカー・メモラビリアを獲得 していたのである。 3番目の落札者〜多分、クリント・イーストウッドだったろう〜は失望のうちにフエイドアウトした。 辻は、この火曜日にカンザス・シティを訪れ、彼の”オリジナル・マッセイ・ホール LP“マッセイ・ホール・コンサート契約書” “ポスター”などのコレクションを 18th & ヴァイン・ジャズ・ミュージアムに寄贈したのだ。エマニエル・クリーヴァー市長の オフィスでの寄贈式で辻氏はサクソフォンの獲得を喜ぶ地元ミュージシャンたちに深く感銘したと語った。その上、寄贈のメモラ ビリアはミュージアムに花を添えるものだと言った。
 「これはクリント・イーストウッドの居間にあるよりは、ずっとカンザスシティに合いますよ」と彼は語った。

 (辻バード、エマニエル・クリーヴァー市長、ミュージアム計画責任者ロウィーナ・スチュアート女史の寄贈式カラー写真入りで大き  く報道された)

>>オリンピック対策と先日のTWAの事故の両方の絡みでチェックが
>>相当厳しくなっているんじゃありませんか?

 凄いですよ。なにしろ、飛行機に乗るまでに、何回も何回も質問があって荷物検査があって、もう面倒なことこの上ない。

 ボクは、「なんのためにニューヨークへ来たのか?」と聞かれ「カンザス・シティーへ行くためだ」と答える。すると「なんのためにカンザス・シテ ィへ行くのか?」と聞く。ボクは、面倒なので「この新聞を読んで!」と KC STAR 紙を差し出す。係りの女性は、黙って読んでいる。 しかし、理解出来ないらしい。それで、男性の年配者を呼んで、その人にも記事を読ましている。ボクは「この写真の人物は私なんだ ぞ!」と怒鳴る。年配者は「じゃパリからはどこへ行くのか?」ボク「勿論東京へ帰るのだ」年配「チケットを見せろ」ボク、チケット を出す。年配「なんでアエロフロート・ロシア航空に乗るんだ」(余計なお世話だ!)ボク「これはファースト・クラスだぞ。これは 『空飛ぶレストラン』だ。貴方乗ったことないだろ!どうして、ロシア航空に乗る理由を説明しなければならないんだ!」年配「じゃ パリでは何をするのだ?」ボク「アメリカの食い物が、あんまり不味いので、パリで旨いものを喰って東京へ帰るのだ!」生意気な女 性「じゃ、OK 入りなさい」(ざまーーみろ!なんにも知らないクセに。プンプン!!)

 でも、こんなことがあるから旅は面白いのですね。

  from Paris "AGATE HOTEL" 辻バード

4度目のパリ 96/07/21 22:16

 「旅先通信」会議室のみなさん!!ボクはパリへ帰って来ました。

 今回は、トゥールーズ、アントワープ、それにニューヨーク(カンザスシティ)と、パリを基点にして、出たり入ったり、これで4 度目です。しかし、パリは良いなー。丁度、今日の日曜日、空は快晴、気温は少し高いけど、影に入るとカラッとしてスガスガしい。 "AGATE HOTEL"へ帰ると、全満室でボクらが入る部屋がない。「午後まで待って下さい」と言うことで近くの「ブーケド・トロンヌ」 で休む。グランクレームを飲んで、サンドイッチ・ジャンボンを食べる。涙が出るほど美味しい!あのアメリカの味のないハムを、ム ニャムニャのパンで挟むサンドイッチ。上からマヨネーズをブチャッと掛けて、なおマスタードを塗って、ダメならその上にトマトケ チャップをブッ掛けて食らう、あのサンドイッチ。あれから逃れてパリへ来て、ナシオンの広場を眺めながら喰う幸せ。終わりに、カ ールスベルグの「生」をドゥミで一杯。MAX吉野さんと 2人で「あー、パリへ戻るスケジュールにしておいて、よかったねー」と顔を 見合わせた。

 でも、カンザスシィティーでの出来事は、本当に意義深いものでした。今回の訪問で、ボクが考えていた、最高の結果になりました。 ボクは、今まで40年間もチャーリー・パーカーを研究し愛して来ましたが、今は、世界の研究家との交流も進み、その上にカンザス のプロジェクトにも本格的に寄与出来ることになったのです。今回の旅の山はもう越えました。後は、パリでゆったりと休養したい と思います。出来れば、再度、あの夢のようなワインを飲みに、ミッシェル・ロスタンへ行き、今回の旅を締めくくりたいと、MAX 吉 野さんと相談しているところなのです。

 みなさんの声援ありがとうございました。5月のビール巡礼の旅と言い、今回の「カンザス」を中心とする忙しい旅と言い、ボクは旅 するごとに、沢山の体験を積み重ねて行きます。いつまで経っても旅は、人間を豊かにしてくれます。その上に、こうやって、沢山の 人達とネットの中で交流し、時には実際に会ったりしながらの旅が出来る。そんな素晴らしい時代に我々は生きているのです。

   from Paris "AGATE HOTEL" 辻バード

RE^2:4度目のパリ 96/07/22 02:08

>>カンザスでのお話、読んでいて感動していました。辻さんが、人生
>>の大きな目標を達成されたことに大きな刺激を受けています。

 はい、ありがとう。でもこれはまだ達成と言うものじゃなくて、ほんの道程です。ボクの夢は、世界のチャーリー・パーカー研究家と の交流を、もっともっと発展させることです。そして、彼の音楽を世界中で、もっと正当な地位へ付かせることです。幸い、今、その 動きが始りました。ボクはただ、それを支援しているだけです。

>>パリを存分にゆっくりと楽しんでくださいね。

 ええ、そうします。なにしろ、前回のパリの時には、オフ会が連続にあって、ユッタリとした気分になれなかったのです。それに、後 に大きな「仕事」を控えていましたし。それから、世界に一つしかない、パーカーの遺品を持って歩いていましたし。盗難にあったり、 紛失したりしたら、大変な事態になります。

 でも今は、とてもゆったりしていますよ。


辻 バード 【本名】 辻 真須彦
Masuhiko Tsuji    (TSUJI-Bird)

1932年10月23日 神戸生まれ
慶應義塾大学在学中の1952年から1965年まで、ジャズ・アルトサックス奏者。
  1986年「旅先通信」を提唱し、以来世界のどこでも、いつでもパソコンを持ち歩き通信を行う
日本チャーリー・パーカー協会会長
カンザス・シティー名誉市民
2000年11月25日(土)「SOMEDAY」にて-- パーカー生誕80年記念イベント--Bird 2000 開催。
2005年 3月13日(日)「SOMEDAY」にて〜チャーリー・パーカー没後50年の夕べ--Bird 50! 開催。
2007年 3月30日食道ガンにて死亡。享年74歳。
ここで紹介する文は、ニフティのパソコン通信によって、旅先からパティオ(PATIO)へ書き込みしたものです。 辻バードさんが、1994年9月にロンドンで開催された、オークション参加からカンザス・シティへ寄贈した経緯、等を 中心に、書き込み文を紹介します。


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上の8枚の写真は下の動画から抜き出したものです。

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ザ・カンザスシティ・スター April 3, 1996

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ザ・カンザスシティ・スター の記事 by MARK MORRIS
パーカーの遺品、KCジャズ・ミュージアムへ寄贈の 運びに.

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ザ・カンザスシティ・スター の記事 - Masuhiko Tsuji 囲み記事(拡大)

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ザ・カンザスシティ・スター の記事 --2 by MARK MORRIS
   July 1996    “辻バード”からKCへ。

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Lina Syephens Letter
May 22, 1996付けで送られてきた18th & Vine Project の Lina C Stephens からの手紙とプロジェクトのパンフレット

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