Dialdays

ダイアル デイズ パート 1
  ロス・ラッセルとの対話 / マーティン・ウィリアムズ

ダウンビート誌 1964年12月3日号及び17日号


dial Ross Russell

1940年代中頃、ロス・ラッセルは戦時商船員の職務から復員した。彼はジャズ・レコード専門のテンポ・ミュージック・シ ョップをカリフォルニアのハリウッドに開いた。

1945年の暮れ、ディジー・ガレスピーは、ジャズ・ファンにすごい論争を巻き起こしたバンド、つまり、チャーリー・パー カー、ミルト・ジャクソン、アル・ヘイグを含むセクステットを率いて、“ビリー・バーグ”での契約を果たすべくやって来た 。テンポ・ミュージック・ショップは若いロスアンゼルスのミュージシャンのたまり場になり、ラッセルはまもなく当時新しく て、最高に論議の的だった、ガレスピー〜パーカーと、その協力者の音楽の録音に心血をそそぎ、「ダイアル」と呼ばれるレコ ード・レーベルを続行しだした。

彼は1946年2月に最初のレコーディングをガレスピーと行い、2度目のレコーディングはパーカー自身の名前を冠したもの だった。ラッセルはパーカーと、他の初期モダニストたちと色々な録音をロスアンゼルスで、後にはニューヨークで行なった。 また、ラッセルはもっとも初期のモダン・ジャズについての本当のジャズ批評の幾つかを実行した。

彼はこういう活動で大抵反発されていた。30年代中頃のジャズで育ったラッセルは、彼と同世代の人たちと同じように、そ の音楽を真剣に受け止め、ジャズの過去を探求した。彼はジェリー・ロール・モートンとルイ・アームストロングを愛し、しば しば再刊されたジェームス・P・ジョンソンについてのエッセイを書いた。

ラッセルはよくパーカーとのことを追憶し、それはボブ・ライズナーの編集した「バード:チャーリー・パーカーの伝説」 に結果となって発表された。彼とパーカーの関係は、初期モダン・ジャズを扱ってフィクション化した小説「ザ・サウンド」 (日本語訳は未発売)の基礎を疑いもなく形作っていて、この本は読者から強い賛否両論の反応を受けた。

パーカー〜ラッセルの関係の一つを、ここであげておかねばなるまい。顛末は現在もジャズ仲間に通用していて、それは, ラッセルがパーカーをカマリロ州立病院から退院させるにあたり、パーカーがダイアル・レコードと再契約する場合についての み、それに同意するというものである。〜アルト奏者のロサンジェルスでの苦難の挫折ストーリーとして公認されていたのだが 〜。ラッセル側の話はライズナーの本に書かれている。

“バードがカマリロ病院に入院しているあいだに、ダイアル・レコードとの専属契約を1年延ばすかという、オプション決 定の時期に差掛かっていたということを言っておきたい。バードが退院してくる前に、私は彼とこの契約のことについて話し合 ったのだ。レコーディング・デイトは1回しか行なわず、非常に良い出来ばえのものは4曲しかできなかったことから考えても 、契約は1年継続させておくべきではないだろうかと、私はバードに言ってみた。彼は賛成してくれて、契約は1年延長された 。私がなにか悪だくみでも働いたように言っている人もいるし、あとになってバードも事実とは違ったことを言っていたようだ が、実際にはこういうことだったのだ。”

以後、ラッセルは彼とパーカーとの関係について一定の間隔を持つようになった。このインタヴューでは、40年代のラッセ ルの他の面の仕事についても触れている。

他の何人かのミュージシャンと働くのは、どんなだったか。大多数からは蔑まれ、一部の支持しかなかったモダン・ジャズ を録音するとは、どういうことだったか。全く予期しないで、幾つかの潜在的ヒット・レコードを手にするとは、どういうこと だったのか。何が「ダイアル」のような、芸術的に価値があるカタログを、その創始者は財政的に売らねばならなくさせられた か。それらの全てを約20年後の現在、どう見ているか。

必然的にパーカーのことが浮かびあがってくるのだ。

ウィリアムズ:

あなたはチャーリー・パーカー以外の人もダイアルに録音しましたね。エロール・ガーナー,ディ ジー・ガレスピーなど....。

ラッセル:

ファッツ・ナヴァロ、ハワード・マギー、デクスター・ゴードン、ワーデル・グレイなどです。

ウィリアムズ:

あなたの最初のレコーディングはバードとディジーだと予想されましたが、結果はディジー、ラッ キー・トンプソン、ミルト・ジャクソンたちで、バードなしでした。ボクは当時海軍にいたので、ロスアンゼルスに出入りして いましたが、テンポ・ミュージック・ショップにも出入りしていました。あの最初のレコーディングが終った朝、たくさんの若 いミュージシャンがどうだったかを聞きに待っていたのを覚えています。あなたは録音したアセテート盤を腕にしていて、ディ ジーがスタジオの天井が低くてホーンを持ち上げることさえ出来なかったとグチり続けたと言っていました。

ラッセル:

言っていたかは覚えていませんが、たしかに腕に抱えていました。グレンデール・スタジオはたしかに どちらかというと天井は低かったんです。だから、これは多分正確でしょう。私たちは、あのレコーディングのあと、色々ちが うスタジオで録音しました。例えば2回目のレコーディングではバードをフィーチュアしてラジオレコーダーズで“オーニソロ ジー”と“ア・ナイト・イン・チュニジア”を製作しました。3回目のレコーディングではずっと高い天井のスタジオをみつけ ましたよ。判るでしょうけど、いいレコーディングをするには一定の広さが必要だったし、エンジニアの支払いだけでなく、部 屋の特徴や広さにも、それに対する支払いが必要だったんです。

ウィリアムズ:

あなたが前におっしゃいましたが、2回目のレコーディングの“ア・ナイト・イン・チュニジア” ではパーカーを除いたサイドメンにはずいぶんトラブルがあったようですが?。

ラッセル:

あれにはずいぶん時間がかかりました。ですがピアノのドド・マーマローサは全てを実際にプレイでき ました。

ウィリアムズ:

今は皆が普通に出来るのに。だいぶ違いますね。全く。

ラッセル:

それから、あの曲のレコードとしてはボイド・レーバンのギルド盤“ア・ナイト・イン・チュニジア” 、〜“インタールード”とも言われていましたが〜、は全てのヒップなコレクターの必携盤でした。

ウィリアムズ:

そう思います。ところであなたが言っていたように、全く違うやり方でフレーズすることを学ぶ問 題ですが、それは違うリズムの基盤であり、誰もそれまでのジャズではやらなかったことですからね。あのレコードのラッキー・ トンプソンのフレージングは、多かれ少なかれベン・ウエブスターかドン・バイアスのやり方です。別にそれが悪いやり方ではな いですけれど。その違うリズム基盤こそが、バードがやっていた、あるところが違っていて、より簡明なメロディック・リズムの 作り方なのです。色々なミュージシャンが、ハーモニー的にこの音楽は、チャーリー・シェイヴァースとロイ・エルドリッジがこ ういうことを以前からしていたと言っていたのを聞いたことが思い出されます。もっとも、その構成はもっと浅いものでしたが。 ですが、肝心なのはリズム的にそのフレージングは、皆が以前から聴いていたものとは全然違うものです。

ラッセル:

ついでに言えば、それが何故人々がオーネット・コールマンなんかをこき下ろすか、ということだと思 います。多分、あなたはオーネット・コールマンについて色々批評するでしょうが、彼はリズム的に非常に強力ですし、私は彼が リズムの要素とジャズ・ランゲージに、多くの新しい興味をもたらしつつあると確信します。判るでしょうが、これは皆さんが買 うことも、学校で習うこともできないことなのです。

ウィリアムズ:

もうひとつ。あなたは何人かのミュージシャンの中に、尊敬すべきプレーヤーで、ジャズのある時 代に残る人がいると指摘しました。違ってはいてもハーモニー的にリズム的に素晴らしく、新しいことをこなして行くプレーヤー がいます。例えばコールマン・ホーキンスです。

ラッセル:

そう、私はコールマン・ホーキンスがリヴァーサイドでセロニアス・モンクと共演したレコードのこと を考えていました。そういう点でたいへん興味深いですね。両方のスタイルは、勿論、正解です。そういう興味深いコントラスト がモンクとコールマン・ホーキンスには有ります。

ウィリアムズ:

あなたは当時クラブで実際に演奏されていたモダンジャズを録音されました。もちろん、制限はあ りましたが。その一つとして、あなたのレコーディングは78回転レコードで、約3分という時間制限が存在しました。

ラッセル:

実際のリミットは約3分半だったでしょう。それで、ダイアル・レコードでもジュークボックス用とし ては普通3分半までで制作しました。ですが、ジュークボックスを置いている店と配給業者向けには、2分半を要望されました 。ご存じのように5セント玉(現在は10セント玉)には、そのほうが使いよかったのです。それでさえ、我々はジュークボック ス向けには作らないようにしたかったのですが、ジュークボックス産業の要求を飲まなければならないことも有りました。

ウィリアムズ:

5分半以上を録音するのはできにくかったですね。制作困難な12インチレコードにしなければなら なかったし...。

ラッセル:

流通のこともあるし、壊れ易いし、まあ色々と。

ウィリアムズ:

ボクが言いたいのは、あなたがクラブで演奏されていたように録音し続けたということです。あ なたはリーダーが望むサイドメンを雇いましたし....音楽監督として、ご自身の音楽アイデアを押し付けなかったことです。 後のチャーリー・パーカーには時々あったことですが。

ラッセル:

演劇の配役をするのと比べれば判りますよ。キャスティングを違えれば、全然違ったものになってしま います。例えば、イオネスコの“犀”を、ニューヨークでゼロ・モステルが演じるのと、パリで他の俳優がやるのとでは全く違い ますからね。

ウィリアムズ:

だけど、誰が“犀”のゼロ・モステルを配役するのですか?。作家ではないでしょう?。とはいう ものの、やはり作家、つまりリーダーがサイドメンを決めるのです。チャーリー・パーカーは自分自身でリズム・セクションを 決めました。

ラッセル:

その通りです。私のレコードを作る基本的なフィーリングは、まさに、そういう風にあなたが示唆する ものです。ミュージシャンこそが音楽を作る人だし、スタジオでの彼の役割を知っていて、メンバーがベストをつくせるのを知 っているのです。

Charlie Parker

私は幸運だったのかも知れません。というのは、その頃は技術的な音楽知識を持っていませんでしたから。私のジャズへの取 り組み方は単なるディレッタントとしてでしたし、ただの音楽愛好家でした。私はスタジオで彼等がどうすべきか、何小節やる か、終節はどうあるべきか、また、そういうことを書き留めるようにとかを、誰かに指示することはしませんでした。正しいリ ーダーを配置するようにしただけです。私はチャーリー・パーカーが最も有力で支配的なミュージシャンだと考え、彼がサイド メンをピックアップしたのです。

リーダーに何か違う提案をしたと思うのは、バードがエロール・ガーナー、ハロルド・ウェスト、レッド・カレンダーとやっ て、かなりの成果を挙げた時の一回だけです。

でも、本当に私がダイアル・レコードで純粋なレコードだと考えるのは、最後の3回のレコーディング・デイトだと思いま す。つまり、ニューヨークで作ったマックス・ローチ、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マイルス・デイヴィスとバ ードのものです。あれはバードの当時のレギュラー・クインテットでした。

ウィリアムズ:

チャーリー・パーカーのことを話し合っている限り、2,3の、質問をしなければならないことが あります。レコードでの彼の失敗のことですね。ボクが理解するには、彼は伝説的な“ラヴァー・マン”セッションでは、とて も悪い状態でした。それで、あの晩のあと、彼は逮捕されました。彼はダウンタウンのホテルのロビーに火をつけましたね。

ラッセル:

パートナーのマーヴィン・フリーマンと私は、逮捕の5日後くらいに、最終的な彼の居場所を掴みま した。ロスアンゼルス郡刑務所の精神病棟の鉄格子の中に隔離されていたんです。我々は彼の正気を証明するよう、スタンリー・ モスクの予審法廷に出廷するよう手配しました。モスクは啓発的でリベラルな人で、当時はカリフォルニア州判事でした。現在、 彼はカリフォルニア州司法長官です。ハワード・マギーと私は、バードの代理人として出席し、モスクが彼をカマリロ州立病院 に入れるよう提案するのに成功しました。カマリロには希望が有ったのです。バードは何年かを別のいい方法で隔離されること になったのです。

ウィリアムズ:

彼は釈放されましたね。

ラッセル:

六ヵ月か七ヵ月の滞在でした。それは私のせいでしてね。つまり、尊敬すべきビジネスマンと推定さ れ、小売り店のオーナーであり、録音分野のプロデューサーであるという〜こういうのが書類上どう見えるのは判るでしょうが 〜、そういう男が、彼のカリフォルニア滞在中の保証をする、というわけです。彼の釈放の時、何人か〜メイナード・スロート、 サンセット・レコードのエディー・ラグーナ、故人のチャーリー・エムジー(当時のハリウッドのダウン・ビート誌同人)と私 〜がAFM(全米ミュージシャン連合)の協賛でチャリティー・コンサートをやって、その利益を釈放後のバードのリハビリに役立 てるようにしました。

ウィリアムズ:

スタジオ・ビジネスに復帰するに当たって、ニューヨークの録音デイトのエンジニアはダグ・ホー キンスでしたね。彼は本当のミュージシャンでしたか?

ラッセル:

ダグ・ホーキンスはジュリアードの卒業生です。

ウィリアムズ:

それはとても役立ったでしょう。

ラッセル:

ええ、とてもね。後日、ダイアル・レコードは、かなり前衛的な12音階みたいなクラシック音楽を録音 しましたが、その時、ホーキンスを使いました。彼は譜面がよく読めて、とても助けになりました。

ウィリアムズ:

あなたは近代クラシック音楽を録音した最初期の一人です。ダイアル・レコードには多面的なキャ リアがありますね。

ラッセル:

私たちは最初のジャズLPも録音しました。全然売れませんでした。それは“バード・ブローズ・ザ・ブ ルース”でして、チャーリー・パーカーが全部ブルースをやるものです。

あれは1949年でしたが、あのLPはジャズ・レコードの配給業者とバイヤーには全く受け入れられませんでした。その後、LPが普 及し始めてからでも、10インチLPだけが受け入れられました。もちろん、その後、みんな12インチLPになって、みんな12インチ に切り替えねばならなくなりました。これがレコード・ビジネスというものです。

ウィリアムズ:

レコーディング・デイトにあたっての具体的進行順序について、伺いたいのですが。あなたのレコ ードでレコーディング・スタジオで希にしかキャッチできないようなミュージシャンの演奏の頂点を録音して、非常に成功をおさ めたものがあります。つまり,ワーデル・グレイとデクスター・ゴードンの“ザ・チェイス”です。あれはスタジオを越えたばか りでなく、クラブでさえも希な興奮性を持つレコードです。6分半の長さで78回転両面で発売されましたね。

ラッセル:

そう。制限無しで演奏して、レコード両面におさめたのです。

ウィリアムズ:

なぜ録音したのですか?。 あの連中が一緒にプレイするのを聞いたのですか?。

ラッセル:

デクスターとワーデルは、ほとんど毎晩ロスアンゼルスあたりで、音楽チェイスをやっていまして、そ れはもうすごい音楽的コメントを創造していました。それで彼らをスタジオに連れて来て録音すべきだと思ったのです。

ウィリアムズ:

“ザ・チェイス”のデイトはどういうふうに進行しましたか?

Dexter Gordon

ラッセル:

とても良好でした。彼らは前日の晩にも同じようにやっていたし、それ以前もそうしていましたから、 何の問題も有りませんでした。ですから、とても熱狂性がありました。写真を撮ったのを覚えています。馬鹿げた写真でして、ス タジオの中で二人の若者、のっぽのデクスターとやせたワーデルがサクソフォンを抱えて互いに追いかけているやつです。です が、レコーディング・デイトはすごく暖かみがあり、かつ熱狂的でした。ああいうデイトの中でも自然にできたものの一つです。

ウィリアムズ:

実際のところ、“ダイアル・レコード”のステータスとして、音楽的に非常に貴重なカタログは、 何処に行ってしまいましたか?

ラッセル:

いい質問です。私はダイアル・レコードを、1950年代中頃に“コンサートホール・レーベル”をやって いて、途中で“ジャズトーン”と呼ばれた、メールオーダーのレコード・クラブになったレーベルの人たちに売りました。暫くし て、〜多分、1,2年のうちに〜、彼らはダイアルを含む全部のカタログをクロムウェル・コリアー・カンパニーに売り渡したと判 りました...。ダイアル・レコードのいくつかはジャズトーンに行ったのです。

ウィリアムズ:

そこで彼らの何人かは、ジャズトーンにあった同じマスターを、悪い編集をして、“バロネット” というレーベルで出しました。ダイアル・マスターからはディジー、バード、ガーナーによるものが約4面有ります。

ラッセル:

“バロネット”の背後には誰がいたのですか?

ウィリアムズ:

知りません。然し、つい最近、チャーリー・パーカー・レコードが、ダイアルのマテリアルからLP を一つ発売しました。それから彼らは、貴方がダイアルのために買ったレッド・ノーヴォ、バード、ディジー、テディ・ウイル ソンなどのコメットに録音されたセッションを発売しました。ですが、不幸なことにパーカー・レコード・カンパニーは現在、活 動的でないように見えます。

前におっしゃったように、あなたは1946年にダイアルでエロール・ガーナーを録音しましたね。そして後日、貴方は誰かの家 で作った長い演奏で非公式な録音を発売しましたね。

ラッセル:

あれは1944年にニューヨークでティミー・ローゼンクランツにより作られました。私があれをレコード 化した最初の人間です。ですが、後に、他のものは“ブルーノート”から出ました。然し、もちろん、我々はエロールとのダイ アルのスタジオ・レコーディングを二つしました。一つは“ジス・イズ・オールウェイズ”と“クール・ブルース”がある、チ ャーリー・パーカー・セッションです。それに加えて、エロールのトリオ・セッションもやりました。どうしてそうなったかは、 はっきり思い出せませんが、わけとしては“クール・ブルース”をやったスタジオを、彼が気にいったからだと思います。素晴 らしいサウンドがそこで得られたのです。奇妙なことに、そこはとても大きな部屋でした。そう、倉庫みたいに思えましたね。 だけど、どいいうわけか、部屋の音響性は驚くべきピアノ・サウンドを生み出しました。

とにかく、エロールと私はレコーディング・デイトのために集まったのです。4面をカットしようとしたのですが、デイト が良好で、とても早く進行したので、記憶が正しければ、もう8面追加して終りました。彼は大いに喜んでいて、A&Rマンはただ 椅子に座ってアーティストの演奏を聴いていればいい、というような調子でした。彼は正にやりたい曲をプレイし、スタジオで 2,3曲を作りさえしましたし、やったことのないことをプレイしました。

ウィリアムズ:

知っているんですが、後にガーナーは大抵の場合、なんでもワン・テイクかツー・テイクで済ませ ましたし、すごいスピードで、少しは断ることもありましたが、大抵は受入れて、すごいレパートリーをプレイし通しました。

ラッセル:

まさにそういう風に、あのデイトも行きました。一つの曲にスリー・テイクづつ取ったのもあったし、 2曲はツー・テイク取りましたが、多くの曲はワン・テイクでした。彼は演奏し終えるとマイク越しに“これでいいんだ”といっ てました。そこでアセテート原盤をセットして,次へ行きました...。彼はプレイするのにどうすればよいかを判っているし、 幸運にも大抵そうでしたが、彼が正しいと感じて演奏したら、音楽は正に飛翔しました。


パート 1 終

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ダイアル デイズ パート 2

/ マーティン・ウィリアムズ


第二次世界大戦後、ロス・ラッセルはカリフォルニア州ハリウッドのジャズ・レコードショップのオーナーになり、まもなく レコード小売だけでなく、レコード・プロデユーサーになった。彼は当時、最新で物議をかもしたビ・バップを最初に録音したう ちの一人で、レーベル名は「ダイアル」と呼ばれた。パート1(DB、Dec'3)では、この多事多難な日々をマーティン・ウィリア ムズとロス・ラッセルがチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピー、デクスター・ゴードンとワーデル・グレイ、そしてエ ロール・ガーナーなどとのレコーディング・セッションについて回想し、同時にLP時代以前のレコーディングの困難さを物語っ た。対話は続く。

ラッセル:

「ダイアル」でやらなかったことを聞いたらどうですか?。ちょっと後悔しているので。「ダイアル」 がニューヨークに移転した後で、ご存じのように、契約に縛られていない一人のミュージシャンがいて、今でも録音しなかった のを悔やんでいます。それはセロニアス・モンクです。

ウィリアムズ:

どうして、しなかったんですか?

ラッセル:

ちょっと、思い出せません。現在、セロニアス・モンクは多分、最も精力的でジャズの伝統的な推進力 です。

ウィリアムズ:

あなたの奥さんに聞きましたが、あなたがギヴ・アップして会社を解散する前に、録音したかもし れないグループのことがあります。ミルト・ジャクソン、ジョン・ルイス、パーシー・ヒース、ケニー・クラークの「モダン・ ジャズ・カルテット」を録音できたのに。〜もっとも、当時は全くその名前は使っていませんでしたが〜。

ラッセル:

その通りです。ジョン・ルイスが、フレンドリーなジェスチュアで多少ともどうですか?と申し込んで 来ました。ところが私はノーと言いました。なぜならレコード・ビジネスから離れつつありましたからね。

ウィリアムズ:

あなたが1945年にモダン・ジャズを録音し始めた時というのは、ほんの少し過去のことで、それは 現在も論議の多い音楽です。それから、ビ・バップの最良のものは受け入れ始められたと言うのに、あなたはそれから離れていき ました。

ラッセル:

実際、私は大体1948年から後はジャズ・レコードを作っていません。我々はクラシックのほうに行きま した。前衛的なクラシックです。それから後は、フオーク・ミュージック、カリプソ、カリビアン・ミュージックとかをやりまし た。そして、アール・ハインズとロイ・エルドリッジがいくつかあって、それはヨーロッパのレーベルとの交換物で、「ダイア ル」のスタッフが出向しました。

ウィリアムズ:

他にとても奇妙なダイアル・レコードがあります..それは“オーニソロジー”のあるテイクで、 明瞭にチャーリー・パーカー・グループのもので、一人を除いては同じソロオーダーで、チャーリー・パーカーはソロを取りま せん。彼のソロの部分でドド・マーマローサがソロを取っています。何があったのですか?

ラッセル:

それは“オーニソロジー”の最初のテイクです。発売した時はチャーリー・パーカーのとしてではなか ったのは、ご存じの通りです。もっと後に使われたもので、ドド・マーマローサのLPを作ろうとした時のものです。

ウィリアムズ:

ですが、スタジオでは何が起きたんですか?。チャーリー・パーカーはソロを取らなかった。チャ ーリー・パーカーはソロをしなかったのに、どうやってやり終えたのですか?

ラッセル:

全然、知りません。バードは背を向けてあっちに行ってしまったのか、そんなものです。他の皆も行っ てしまって、ドドがバードがやったであろうパートで32小節プレイしました。

ウィリアムズ:

“オーニソロジー”は、最近浮上したチャーリー・パーカーの話を思い出させます。或る人たちは、 彼はけっして標準的なコード進行をとらなくて、彼が書いた新しいラインに彼自身のタイトルをつけたと言います。もちろん、 “オーニソロジー”は実際にはバードの古いジェイ・マクシャン時代のソロラインに基づいて“ハウ・ハイ・ザ・ムーン”のコ ードを拡張してあてはめたベニー・ハリスのヴァージョンです。しかし、話というのは、この種のことをした時、そのオリジナ ル曲名を結果として言っただろうということです。それで、このことは、ただレコード会社がスタンダード曲に高いロイヤリテ イーを払いたがらなかったためにタイトルを変えたからです。言い換えれば、そういう習慣で“ハウ・ハイ・ザ・ムーン”をこ う言っただろうということです。そうじゃありませんか?

ラッセル:

バードがそうしたかは知りませんが、あのレコードが作られた時には全てがそのように設定されていま した。そう“オーニソロジー”だったのです。バードは「これから“オーニソロジー”をやるぞ」と言ったし、そういうことで す。それが創られていたのは何の疑問も有りません。ベニー・ハリスと彼自身の共作クレジットがあるとはっきり言いました。 たくさんのケースで彼はタイトルを案出しました。“クラクトヴィーズドスティーン”はいい例です。そう、色んな事が有り得 ましたね。あの曲から16小節もってきて他から8小節もってくるなど。

ウィリアムズ:

ドド・マーマローサに戻りますが、ドド・マーマローサ・トリオのレコードをやりましたね。

ラッセル:

はい、私はいつもドドが最良のピアニストだと思っていました。とても好きでした。彼はジャズにクラ シックピアノのテクニックをたくさんもたらしましたが、混交ピアニストではありません。真のジャズ・ピアニストです。 も うひとつドドについて言えば、彼には素晴らしいタイム感覚があり、アップ・テンポをプレイする偉大な能力を持っていました。 彼の家にはよく行きましたが、その時間中、バッハのツーパート・インヴェンションを弾いていました。そうすることで、すご いジャズ・フィーリングを持ちながら素晴らしい運指能力につなげているのだと思いました。思い出しますが、3時か4時に ベッドに入る代わりに〜カルフォルニアのミュージシャンにはバーが2時に閉まるから、ごく普通でしたが〜夜明けまでと言 う途方もない時間までやり続けました。その理由というのは、前庭の芝生に出て鳥のさえずりを聞くためだったのです。彼は このことには真剣でしたね。それで街路に出て、教会の鐘の音とかの何かノイズを聞くと落ち着いたようです。ドドはサウンド の世界に生きていたと言えるでしょう。それはそれはとてもハイ・クォリティーなサウンドでした。

もうひとつ興味深いのは、彼は自分の手のサイズに制約されていると感じていたことです。或るグループとのレコーディン グの時、ドドが物凄くいいプレイをしていましたが、一方、レコーディング・デイトそのものは良くは進行していませんでした。 私はバンドと一緒にレコーディングするのを止め、すぐにリズムセクションを伴ったドド・マーマローサのソロ・レコードにし たのを思い出します。彼は涙ぐまんばかりでした。「うん、ボクはこれをやる手を持ってないよ。」「見てくれ、小さすぎるよ 。これじゃ、どうにもならない」と言いました。もちろん、出来上がったレコードはそれが嘘だということを証明しましたが。

ウィリアムズ:

時々、思ったのですが、今のニューヨークのミュージシャンにあるクロー・ジム(黒白逆差別) 傾向のことですが、パーカー、パウエル以後、40年代初期にモダンな連中とプレイしたピアニストは白人プレイヤーのほうが 多いですね。名前をあげると、多分ベスト・オブ・オールのアル・ヘイグ、ジョージ・ウォーリントン、ドド・マーマローサ なんか、また当時としてはジョン・ハンデイです。

ラッセル:

そういうアプローチなら、ジョー・オルバニーは当時もしかして偉大なプレイヤになり得たうちの一 人でしょう。実際にジョー・オルバニーとドド・マーマローサの両方とも似たような家庭の出です。音楽に対し偉大な愛を持ち、 特にクラシック音楽に尊敬の念を抱いている南ヨーロッパ生まれの両親がいます。ドドとジョー・オルバニーの二人とも優秀な ピアノ・トレーニングを受けていて、それが確かに彼等のプレイに反映しています。これは私にはとても興味深いです。そうい う文化を継承しているのです。

例えばその特徴的実例として、平均的イタリア系アメリカ人が持ち続ける生き方は、一人のイタリア系アメリカ人たろうと 欲していることです。彼は自分自身をアメリカ文化の中に埋没させようとします。それがジューク・ボックスとかであろうと何 であろうと。音楽への偉大な愛に生きる、この特有なバックグラウンド出身の全部の歌手とミュージシャンたちのひとつの知的 な生き方だけでなく、本当に庶民的な生き方だとしているのだと思います。

ウィリアムズ:

そういうのはジャズ・ミュージシャンの、少数民族集団及び全国民共通のバック・グラウンドにつ いての目録のようなものを作った社会学者でしょう。もちろん、ニグロが最初でした。そして次がユダヤ人、それからイタリア 人だと思います。もちろん、それが二つの排他的なカテゴリーではありませんが...その後、事態は希薄になってきたとは思 います...。

ラッセル:

今、ジュークボックス業界で起こっていることは興味深いです。私は2番目の小説を書いていますが、 それはレコード業界とワンマン会社との抜き差しならぬ関係と、また或るイタリア系アメリカ人の女性歌手のことです。私はた くさんのレーベルのジュークボックス・フエィヴァリッツを聴かされるのを余儀なくされてきましたが、私を打ちのめしたくら い決定的ななのは、20年前にあったのに比べると先入観はとても弱まっているということです。現在、ジュークボックスに10セ ント玉や25セント玉をほうりこんでいる中産階級白人の若い連中は先入観無しに無条件に、どんな人種的バックグラウンドの歌 手でも聴いています。たとえば、ポール・アンカだと思います。レイ・チャールスはただのアーバン・ニグロとしてでなく大衆 的です。

ウィリアムズ:

ボクは全体については確かではありません。もし黒人のガール・シンガーが数年前にレコーディン グしたものを白人歌手が他のレーベルでカヴァーしたとして、とてもよく似ていたとすると(これはご存じのように、ありまし たが)多分、白人歌手のレコードはより大きくヒットするでしょう。

ボクと同世代でスィング時代に育った二人のトラック運転手と話し合ったことを思い出します。彼等は誰でもそうだったよ うに、大体先入観を持っていなくて、敵意や優越感を持っているとは看破できませんでした。ボクもそうだったように、彼等は 全てのスィング・バンドを聴いたと言っていました。デューク・エリントンは好かないと言っていました。それはよく判ります ね。ボクはデューク・エリントンにとても影響された白人バンドのひとつを取り上げました。「チャーリー・バーネットは好 きかい?」と言うと、デューク・エリントンより、好きだと答えました。

色の違いで、そう言っているとは思いません。演奏の仕方が違っていると感じていて、チャーリー・バーネットの演奏ぶり のほうが、もっとアッピールしたんだと思います。それで、確かに二つのバンドの、アタックとエモーションは同じ曲でも明白 に違うと思うんです。こういうことは今でもあります。

ラッセル:

まったく、10年前も今も同じですね。

ウィリアムズ:

多分、そうでしょう。このことについて、或る日、友人の白人ミュージシャンが率直に話しまし た。彼は或るグループで働いていて、リーダーが黒人で、サイドメンの大部分も黒人でした。でも、トランペッターはとても 若い白人プレイヤーでした。

それで友人が言いました。このトランペッターは、彼が毎晩のよう話を聞いた後でさえ、彼は白人ミュージシャンだという ことを言えなかったのです。〜絶対に言わなかったのです〜 それで言うには、「僕が、このことに率直になろうとしたら、前 からいつも言っていたさ。トランペッターが言う...“ああ、俺の年頃の連中は皆そうさ。言うまでもないのさ”」とね。で すが、ボクのポイントは、もし差違があったなら、その差異は何か悪さの必然的なサインでは無いということです。

ラッセル:

はい、差違は必要だと思います...。欠くことのできない点は、文化的相違点があることで、それ が重要な点でして、つまり全てのグループはトータルな文化に何か貢献しているのです。

それで、このような貢献がアメリカ文化を豊かで、変化をもたらし、デモクラティックなものに出来るのです。

Dizzy Gillespie

ウィリアムズ:

ディジー・ガレスピーに戻りましょう。彼は偉大な改革者です...。あなたの最初のレコードで、 彼はスモール・グループのテーマ〜ソロ〜テーマの見本を示しています。今の彼をどう思いますか?。しばしばジョークを言い、 歌を唄い、おどけていますが...大衆にスタンダップ・コメディアンみたいに振る舞っている問題については?。

ラッセル:

ミュージシャンとして、生きるために演奏し、働き続けなければならないのです。これは大きな問題で す。そして、毎晩ベストというわけにはゆきません。

そういうことで、最近ディジーを聞きましたが、とても良いプレイをしていますが、世間の耳目を驚かせてはいません。6ヵ 月前に聞きましたが、以前よりずっと良かったです。確かにベスト・コンディションの時は現在プレイしているミュージシャン中 の、多分ベストでしょう。彼のトランペット表現はまさに素晴らしいものです。どうすれば良いかを正確に把握しています。とて も精力的で申し分のない調和的な人だと思いますよ。

ウィリアムズ:

全く、その通りです。ですが、またこういうことの論争になってしまいます。ディジーは何をして いますか?そう、彼はトランペッターです。もちろん彼は歌って道化ていますし、道化るのは彼にとって完璧に自然です... しかし、ジャズ奏者の大部分がそうのように、彼は一個の演奏者です...。ブリリアントなトランペット・プレイヤーなので す。これについてはどうですか?。

ラッセル:

まあ、いつでも明日は有るし、いつでも自分自身の生き方をして行かなくてはなりません。

もし、それがミュージシャンだったら、吹き続けることです。私はベストのセッティング状態で無い時のコールマン・ホー キンスを聞いたことがあります。しかし、それがプロというもので、彼はプレイし続けなければならないのです。また、ジェス・ ステーシーの場合、彼と話し合った最後はまあまあのタイプのレストラン・バーでレギュラー・ピアニストとして働いていて 、リクェストをこなしながら演奏していました。音楽は商取引になりました。そして一度流行が終ると、皆がそのように、創造 的な時代は消え去って、最良の技術者になるのですが...

ウィリアムズ:

ジャズ・ミュージシャンたちには、まだまだそういう伝統ができていないと思います。60歳になっ た時の小説家がどうするかは良く知っていますが、彼等は唯セルフコピーを繰り返すのです。

ラッセル:

または、弁護士は年とるにつれ高くなります。

だが、ジャズはより若い人の音楽です。そして、我々皆が知っている他の大きな問題は、ジャズ・ミュージシャンは商業的 枠組みの中にいる創造的芸術家だということです。多くのナイトクラブ・オーナーにとって、彼はただのトランペット・プレイ ヤーなのです。ディジー・ガレスピーだろうと、アル・ハートだろうと、他の誰でもかまわないのです。全く、その時の値打ち で買われたアトラクションのためのトランペット・プレイヤーに過ぎないのです。ですが、ジャズ・ミュージシャンたちは、こ の枠組みの中で創造的たろうとしていて、それが論争が起こる由縁です。

ウィリアムズ:

まあ、そういう状態の中でベストを追求しています。6晩ののうちの1晩くらいは、本当にクリエイ ティヴにやろうと、まだやり続けているわけです。それで、他の晩は自身を殺さずにベストを尽くして、聴衆を楽しませていま す...。

ラッセル:

アメリカの小説家〜または、どんな創造的人間〜も同じ問題を抱えています。サクセスフルな本を書 いて、それから出版社と、大衆にそう書くことを期待されます。〜または、そう誘惑されます〜。生活費を稼がなくてはならな いのです。どうであれ、人々はジャズ・ミュージシャンと同じ問題をわかち合っています。

                     


DOWN BEAT Dial Days, part1; December 3, 1964 p15-17
Dial Days, part2; December 17, 1964 p22-23


翻訳:小田弘一(日本チャーリー・パーカー協会)