ダイアル デイズ パート 1
ロス・ラッセルとの対話 / マーティン・ウィリアムズ
ダウンビート誌 1964年12月3日号及び17日号
1940年代中頃、ロス・ラッセルは戦時商船員の職務から復員した。彼はジャズ・レコード専門のテンポ・ミュージック・シ ョップをカリフォルニアのハリウッドに開いた。
1945年の暮れ、ディジー・ガレスピーは、ジャズ・ファンにすごい論争を巻き起こしたバンド、つまり、チャーリー・パー カー、ミルト・ジャクソン、アル・ヘイグを含むセクステットを率いて、“ビリー・バーグ”での契約を果たすべくやって来た 。テンポ・ミュージック・ショップは若いロスアンゼルスのミュージシャンのたまり場になり、ラッセルはまもなく当時新しく て、最高に論議の的だった、ガレスピー〜パーカーと、その協力者の音楽の録音に心血をそそぎ、「ダイアル」と呼ばれるレコ ード・レーベルを続行しだした。
彼は1946年2月に最初のレコーディングをガレスピーと行い、2度目のレコーディングはパーカー自身の名前を冠したもの だった。ラッセルはパーカーと、他の初期モダニストたちと色々な録音をロスアンゼルスで、後にはニューヨークで行なった。 また、ラッセルはもっとも初期のモダン・ジャズについての本当のジャズ批評の幾つかを実行した。
彼はこういう活動で大抵反発されていた。30年代中頃のジャズで育ったラッセルは、彼と同世代の人たちと同じように、そ の音楽を真剣に受け止め、ジャズの過去を探求した。彼はジェリー・ロール・モートンとルイ・アームストロングを愛し、しば しば再刊されたジェームス・P・ジョンソンについてのエッセイを書いた。
ラッセルはよくパーカーとのことを追憶し、それはボブ・ライズナーの編集した「バード:チャーリー・パーカーの伝説」 に結果となって発表された。彼とパーカーの関係は、初期モダン・ジャズを扱ってフィクション化した小説「ザ・サウンド」 (日本語訳は未発売)の基礎を疑いもなく形作っていて、この本は読者から強い賛否両論の反応を受けた。
パーカー〜ラッセルの関係の一つを、ここであげておかねばなるまい。顛末は現在もジャズ仲間に通用していて、それは, ラッセルがパーカーをカマリロ州立病院から退院させるにあたり、パーカーがダイアル・レコードと再契約する場合についての み、それに同意するというものである。〜アルト奏者のロサンジェルスでの苦難の挫折ストーリーとして公認されていたのだが 〜。ラッセル側の話はライズナーの本に書かれている。
“バードがカマリロ病院に入院しているあいだに、ダイアル・レコードとの専属契約を1年延ばすかという、オプション決 定の時期に差掛かっていたということを言っておきたい。バードが退院してくる前に、私は彼とこの契約のことについて話し合 ったのだ。レコーディング・デイトは1回しか行なわず、非常に良い出来ばえのものは4曲しかできなかったことから考えても 、契約は1年継続させておくべきではないだろうかと、私はバードに言ってみた。彼は賛成してくれて、契約は1年延長された 。私がなにか悪だくみでも働いたように言っている人もいるし、あとになってバードも事実とは違ったことを言っていたようだ が、実際にはこういうことだったのだ。”
以後、ラッセルは彼とパーカーとの関係について一定の間隔を持つようになった。このインタヴューでは、40年代のラッセ ルの他の面の仕事についても触れている。
他の何人かのミュージシャンと働くのは、どんなだったか。大多数からは蔑まれ、一部の支持しかなかったモダン・ジャズ を録音するとは、どういうことだったか。全く予期しないで、幾つかの潜在的ヒット・レコードを手にするとは、どういうこと だったのか。何が「ダイアル」のような、芸術的に価値があるカタログを、その創始者は財政的に売らねばならなくさせられた か。それらの全てを約20年後の現在、どう見ているか。
必然的にパーカーのことが浮かびあがってくるのだ。
ウィリアムズ:
あなたはチャーリー・パーカー以外の人もダイアルに録音しましたね。エロール・ガーナー,ディ ジー・ガレスピーなど....。
ラッセル:
ファッツ・ナヴァロ、ハワード・マギー、デクスター・ゴードン、ワーデル・グレイなどです。
ウィリアムズ:
あなたの最初のレコーディングはバードとディジーだと予想されましたが、結果はディジー、ラッ キー・トンプソン、ミルト・ジャクソンたちで、バードなしでした。ボクは当時海軍にいたので、ロスアンゼルスに出入りして いましたが、テンポ・ミュージック・ショップにも出入りしていました。あの最初のレコーディングが終った朝、たくさんの若 いミュージシャンがどうだったかを聞きに待っていたのを覚えています。あなたは録音したアセテート盤を腕にしていて、ディ ジーがスタジオの天井が低くてホーンを持ち上げることさえ出来なかったとグチり続けたと言っていました。
ラッセル:
言っていたかは覚えていませんが、たしかに腕に抱えていました。グレンデール・スタジオはたしかに どちらかというと天井は低かったんです。だから、これは多分正確でしょう。私たちは、あのレコーディングのあと、色々ちが うスタジオで録音しました。例えば2回目のレコーディングではバードをフィーチュアしてラジオレコーダーズで“オーニソロ ジー”と“ア・ナイト・イン・チュニジア”を製作しました。3回目のレコーディングではずっと高い天井のスタジオをみつけ ましたよ。判るでしょうけど、いいレコーディングをするには一定の広さが必要だったし、エンジニアの支払いだけでなく、部 屋の特徴や広さにも、それに対する支払いが必要だったんです。
ウィリアムズ:
あなたが前におっしゃいましたが、2回目のレコーディングの“ア・ナイト・イン・チュニジア” ではパーカーを除いたサイドメンにはずいぶんトラブルがあったようですが?。
ラッセル:
あれにはずいぶん時間がかかりました。ですがピアノのドド・マーマローサは全てを実際にプレイでき ました。
ウィリアムズ:
今は皆が普通に出来るのに。だいぶ違いますね。全く。
ラッセル:
それから、あの曲のレコードとしてはボイド・レーバンのギルド盤“ア・ナイト・イン・チュニジア” 、〜“インタールード”とも言われていましたが〜、は全てのヒップなコレクターの必携盤でした。
ウィリアムズ:
そう思います。ところであなたが言っていたように、全く違うやり方でフレーズすることを学ぶ問 題ですが、それは違うリズムの基盤であり、誰もそれまでのジャズではやらなかったことですからね。あのレコードのラッキー・ トンプソンのフレージングは、多かれ少なかれベン・ウエブスターかドン・バイアスのやり方です。別にそれが悪いやり方ではな いですけれど。その違うリズム基盤こそが、バードがやっていた、あるところが違っていて、より簡明なメロディック・リズムの 作り方なのです。色々なミュージシャンが、ハーモニー的にこの音楽は、チャーリー・シェイヴァースとロイ・エルドリッジがこ ういうことを以前からしていたと言っていたのを聞いたことが思い出されます。もっとも、その構成はもっと浅いものでしたが。 ですが、肝心なのはリズム的にそのフレージングは、皆が以前から聴いていたものとは全然違うものです。
ラッセル:
ついでに言えば、それが何故人々がオーネット・コールマンなんかをこき下ろすか、ということだと思 います。多分、あなたはオーネット・コールマンについて色々批評するでしょうが、彼はリズム的に非常に強力ですし、私は彼が リズムの要素とジャズ・ランゲージに、多くの新しい興味をもたらしつつあると確信します。判るでしょうが、これは皆さんが買 うことも、学校で習うこともできないことなのです。
ウィリアムズ:
もうひとつ。あなたは何人かのミュージシャンの中に、尊敬すべきプレーヤーで、ジャズのある時 代に残る人がいると指摘しました。違ってはいてもハーモニー的にリズム的に素晴らしく、新しいことをこなして行くプレーヤー がいます。例えばコールマン・ホーキンスです。
ラッセル:
そう、私はコールマン・ホーキンスがリヴァーサイドでセロニアス・モンクと共演したレコードのこと を考えていました。そういう点でたいへん興味深いですね。両方のスタイルは、勿論、正解です。そういう興味深いコントラスト がモンクとコールマン・ホーキンスには有ります。
ウィリアムズ:
あなたは当時クラブで実際に演奏されていたモダンジャズを録音されました。もちろん、制限はあ りましたが。その一つとして、あなたのレコーディングは78回転レコードで、約3分という時間制限が存在しました。
ラッセル:
実際のリミットは約3分半だったでしょう。それで、ダイアル・レコードでもジュークボックス用とし ては普通3分半までで制作しました。ですが、ジュークボックスを置いている店と配給業者向けには、2分半を要望されました 。ご存じのように5セント玉(現在は10セント玉)には、そのほうが使いよかったのです。それでさえ、我々はジュークボック ス向けには作らないようにしたかったのですが、ジュークボックス産業の要求を飲まなければならないことも有りました。
ウィリアムズ:
5分半以上を録音するのはできにくかったですね。制作困難な12インチレコードにしなければなら なかったし...。
ラッセル:
流通のこともあるし、壊れ易いし、まあ色々と。
ウィリアムズ:
ボクが言いたいのは、あなたがクラブで演奏されていたように録音し続けたということです。あ なたはリーダーが望むサイドメンを雇いましたし....音楽監督として、ご自身の音楽アイデアを押し付けなかったことです。 後のチャーリー・パーカーには時々あったことですが。
ラッセル:
演劇の配役をするのと比べれば判りますよ。キャスティングを違えれば、全然違ったものになってしま います。例えば、イオネスコの“犀”を、ニューヨークでゼロ・モステルが演じるのと、パリで他の俳優がやるのとでは全く違い ますからね。
ウィリアムズ:
だけど、誰が“犀”のゼロ・モステルを配役するのですか?。作家ではないでしょう?。とはいう ものの、やはり作家、つまりリーダーがサイドメンを決めるのです。チャーリー・パーカーは自分自身でリズム・セクションを 決めました。
ラッセル:
その通りです。私のレコードを作る基本的なフィーリングは、まさに、そういう風にあなたが示唆する ものです。ミュージシャンこそが音楽を作る人だし、スタジオでの彼の役割を知っていて、メンバーがベストをつくせるのを知 っているのです。
私は幸運だったのかも知れません。というのは、その頃は技術的な音楽知識を持っていませんでしたから。私のジャズへの取 り組み方は単なるディレッタントとしてでしたし、ただの音楽愛好家でした。私はスタジオで彼等がどうすべきか、何小節やる か、終節はどうあるべきか、また、そういうことを書き留めるようにとかを、誰かに指示することはしませんでした。正しいリ ーダーを配置するようにしただけです。私はチャーリー・パーカーが最も有力で支配的なミュージシャンだと考え、彼がサイド メンをピックアップしたのです。
リーダーに何か違う提案をしたと思うのは、バードがエロール・ガーナー、ハロルド・ウェスト、レッド・カレンダーとやっ て、かなりの成果を挙げた時の一回だけです。
でも、本当に私がダイアル・レコードで純粋なレコードだと考えるのは、最後の3回のレコーディング・デイトだと思いま す。つまり、ニューヨークで作ったマックス・ローチ、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マイルス・デイヴィスとバ ードのものです。あれはバードの当時のレギュラー・クインテットでした。
ウィリアムズ:
チャーリー・パーカーのことを話し合っている限り、2,3の、質問をしなければならないことが あります。レコードでの彼の失敗のことですね。ボクが理解するには、彼は伝説的な“ラヴァー・マン”セッションでは、とて も悪い状態でした。それで、あの晩のあと、彼は逮捕されました。彼はダウンタウンのホテルのロビーに火をつけましたね。
ラッセル:
パートナーのマーヴィン・フリーマンと私は、逮捕の5日後くらいに、最終的な彼の居場所を掴みま した。ロスアンゼルス郡刑務所の精神病棟の鉄格子の中に隔離されていたんです。我々は彼の正気を証明するよう、スタンリー・ モスクの予審法廷に出廷するよう手配しました。モスクは啓発的でリベラルな人で、当時はカリフォルニア州判事でした。現在、 彼はカリフォルニア州司法長官です。ハワード・マギーと私は、バードの代理人として出席し、モスクが彼をカマリロ州立病院 に入れるよう提案するのに成功しました。カマリロには希望が有ったのです。バードは何年かを別のいい方法で隔離されること になったのです。
ウィリアムズ:
彼は釈放されましたね。
ラッセル:
六ヵ月か七ヵ月の滞在でした。それは私のせいでしてね。つまり、尊敬すべきビジネスマンと推定さ れ、小売り店のオーナーであり、録音分野のプロデューサーであるという〜こういうのが書類上どう見えるのは判るでしょうが 〜、そういう男が、彼のカリフォルニア滞在中の保証をする、というわけです。彼の釈放の時、何人か〜メイナード・スロート、 サンセット・レコードのエディー・ラグーナ、故人のチャーリー・エムジー(当時のハリウッドのダウン・ビート誌同人)と私 〜がAFM(全米ミュージシャン連合)の協賛でチャリティー・コンサートをやって、その利益を釈放後のバードのリハビリに役立 てるようにしました。
ウィリアムズ:
スタジオ・ビジネスに復帰するに当たって、ニューヨークの録音デイトのエンジニアはダグ・ホー キンスでしたね。彼は本当のミュージシャンでしたか?
ラッセル:
ダグ・ホーキンスはジュリアードの卒業生です。
ウィリアムズ:
それはとても役立ったでしょう。
ラッセル:
ええ、とてもね。後日、ダイアル・レコードは、かなり前衛的な12音階みたいなクラシック音楽を録音 しましたが、その時、ホーキンスを使いました。彼は譜面がよく読めて、とても助けになりました。
ウィリアムズ:
あなたは近代クラシック音楽を録音した最初期の一人です。ダイアル・レコードには多面的なキャ リアがありますね。
ラッセル:
私たちは最初のジャズLPも録音しました。全然売れませんでした。それは“バード・ブローズ・ザ・ブ ルース”でして、チャーリー・パーカーが全部ブルースをやるものです。
あれは1949年でしたが、あのLPはジャズ・レコードの配給業者とバイヤーには全く受け入れられませんでした。その後、LPが普 及し始めてからでも、10インチLPだけが受け入れられました。もちろん、その後、みんな12インチLPになって、みんな12インチ に切り替えねばならなくなりました。これがレコード・ビジネスというものです。
ウィリアムズ:
レコーディング・デイトにあたっての具体的進行順序について、伺いたいのですが。あなたのレコ ードでレコーディング・スタジオで希にしかキャッチできないようなミュージシャンの演奏の頂点を録音して、非常に成功をおさ めたものがあります。つまり,ワーデル・グレイとデクスター・ゴードンの“ザ・チェイス”です。あれはスタジオを越えたばか りでなく、クラブでさえも希な興奮性を持つレコードです。6分半の長さで78回転両面で発売されましたね。
ラッセル:
そう。制限無しで演奏して、レコード両面におさめたのです。
ウィリアムズ:
なぜ録音したのですか?。 あの連中が一緒にプレイするのを聞いたのですか?。
ラッセル:
デクスターとワーデルは、ほとんど毎晩ロスアンゼルスあたりで、音楽チェイスをやっていまして、そ れはもうすごい音楽的コメントを創造していました。それで彼らをスタジオに連れて来て録音すべきだと思ったのです。
ウィリアムズ:
“ザ・チェイス”のデイトはどういうふうに進行しましたか?
ラッセル:
とても良好でした。彼らは前日の晩にも同じようにやっていたし、それ以前もそうしていましたから、 何の問題も有りませんでした。ですから、とても熱狂性がありました。写真を撮ったのを覚えています。馬鹿げた写真でして、ス タジオの中で二人の若者、のっぽのデクスターとやせたワーデルがサクソフォンを抱えて互いに追いかけているやつです。です が、レコーディング・デイトはすごく暖かみがあり、かつ熱狂的でした。ああいうデイトの中でも自然にできたものの一つです。
ウィリアムズ:
実際のところ、“ダイアル・レコード”のステータスとして、音楽的に非常に貴重なカタログは、 何処に行ってしまいましたか?
ラッセル:
いい質問です。私はダイアル・レコードを、1950年代中頃に“コンサートホール・レーベル”をやって いて、途中で“ジャズトーン”と呼ばれた、メールオーダーのレコード・クラブになったレーベルの人たちに売りました。暫くし て、〜多分、1,2年のうちに〜、彼らはダイアルを含む全部のカタログをクロムウェル・コリアー・カンパニーに売り渡したと判 りました...。ダイアル・レコードのいくつかはジャズトーンに行ったのです。
ウィリアムズ:
そこで彼らの何人かは、ジャズトーンにあった同じマスターを、悪い編集をして、“バロネット” というレーベルで出しました。ダイアル・マスターからはディジー、バード、ガーナーによるものが約4面有ります。
ラッセル:
“バロネット”の背後には誰がいたのですか?
ウィリアムズ:
知りません。然し、つい最近、チャーリー・パーカー・レコードが、ダイアルのマテリアルからLP を一つ発売しました。それから彼らは、貴方がダイアルのために買ったレッド・ノーヴォ、バード、ディジー、テディ・ウイル ソンなどのコメットに録音されたセッションを発売しました。ですが、不幸なことにパーカー・レコード・カンパニーは現在、活 動的でないように見えます。
前におっしゃったように、あなたは1946年にダイアルでエロール・ガーナーを録音しましたね。そして後日、貴方は誰かの家 で作った長い演奏で非公式な録音を発売しましたね。
ラッセル:
あれは1944年にニューヨークでティミー・ローゼンクランツにより作られました。私があれをレコード 化した最初の人間です。ですが、後に、他のものは“ブルーノート”から出ました。然し、もちろん、我々はエロールとのダイ アルのスタジオ・レコーディングを二つしました。一つは“ジス・イズ・オールウェイズ”と“クール・ブルース”がある、チ ャーリー・パーカー・セッションです。それに加えて、エロールのトリオ・セッションもやりました。どうしてそうなったかは、 はっきり思い出せませんが、わけとしては“クール・ブルース”をやったスタジオを、彼が気にいったからだと思います。素晴 らしいサウンドがそこで得られたのです。奇妙なことに、そこはとても大きな部屋でした。そう、倉庫みたいに思えましたね。 だけど、どいいうわけか、部屋の音響性は驚くべきピアノ・サウンドを生み出しました。
とにかく、エロールと私はレコーディング・デイトのために集まったのです。4面をカットしようとしたのですが、デイト が良好で、とても早く進行したので、記憶が正しければ、もう8面追加して終りました。彼は大いに喜んでいて、A&Rマンはただ 椅子に座ってアーティストの演奏を聴いていればいい、というような調子でした。彼は正にやりたい曲をプレイし、スタジオで 2,3曲を作りさえしましたし、やったことのないことをプレイしました。
ウィリアムズ:
知っているんですが、後にガーナーは大抵の場合、なんでもワン・テイクかツー・テイクで済ませ ましたし、すごいスピードで、少しは断ることもありましたが、大抵は受入れて、すごいレパートリーをプレイし通しました。
ラッセル:
まさにそういう風に、あのデイトも行きました。一つの曲にスリー・テイクづつ取ったのもあったし、 2曲はツー・テイク取りましたが、多くの曲はワン・テイクでした。彼は演奏し終えるとマイク越しに“これでいいんだ”といっ てました。そこでアセテート原盤をセットして,次へ行きました...。彼はプレイするのにどうすればよいかを判っているし、 幸運にも大抵そうでしたが、彼が正しいと感じて演奏したら、音楽は正に飛翔しました。
パート 1 終
topダイアル デイズ パート 2