Dial Story

1. ダイアルの創立 2. パーカーと正式契約 3. レーベル1本に専念 4. ニューヨーク移転後
5. ダイアル基本方針 6. そのカタログ整理 7. そのジャケットなど 8. ダイアルその後

【ダイアル・レコードの創立】

   ダイアル・レコードのオーナーは、 ロス・ラッセルといい、後年チャーリー・パーカーの伝記「Bird Lives」(1973)を書いたことでも有名な人です。パーカーより11歳年上で、キャディーをやったり、ゴルフ・クラブの製造をしたり、パルプ雑誌のライ ターをしたり色々な職業を経験したようです。第二次大戦で、商船軍団の無線士として徴用され、終戦と同時に復員、西海岸では数少なかったジャズ・レコード店を、ロスアンゼルスで開店した。それは1945年夏のことで、店の名を「テンポ・ミュージック・ショップ」と名付けた。中古レコードも扱い、彼自身が十年間で集めた、サッチモ、ビックス、キング・オリバー等を中心とした約八千枚のコ レクションも店頭に並べたという。このように、クラシック・ジャズのファンだったし、復員直後でもあり、東海岸で勃興した新しいジャズ、いわゆる「ビ・バップ」については、彼自身の知るところではなかった。やがて、ごく一部のファンからの情報 で彼が取り寄せたレコード、それらはコメット、ギルド、コンチネンタル、サヴォイ、アポロ、デラックスといったレーベル で、それにより知識が得られるようになる。しかしこの新しいジャズについて、理解したりその本質を掴み取るところまではい かなかった。勿論当時のジャズ・ジャーナリズムの世界でも同様だったという。こんな状況の中で非常にタイミングが良かった のは、開店した年の暮れ12月10日から、バップ・ムーブメントの先鋒となっていた、パーカー&ガレスピーのグループが、当地 のクラブ 「ビリー・バーグス」に出演したことだった。ニューヨークで流行していたジャズをナマで聴くことによって彼自身も、 またカリフォルニアのジャズファンも一気に「ビ・バップ」の虜になっていったものである。

   アルトサックスを吹いていたディーン・ベネデッティは、チャーリー・パーカーを聴いて以来アルトを捨て、パーカーのソロを 録音してあるくことを自分の生涯の仕事と決めたが、パーカーがニューヨークに登場後毎夜パーカーを聴いている。パーカー狂 のベネデッティが、この「テンポ・・」に顔を出していたことも、ロス・ラッセルに大きな影響を与えている。ベネデッティが 持ち込んでくる録音を何度も聴くうちに、パーカーの志向するものがラッセルに判ってくるのである。

   さらに、同じアルト奏者でウディ・イスベルというパーカー信者もいてベネデッティと共に、ラッセルにパーカー のレコードを制作させようとけしかけている。当時ニューヨークで有名だった「コモドア・ミュージック・ショップ」が、コモ ドア・レーベルを出し人気を博していた。ここの主ミルト・ゲイブラーに対抗したい気持ちも強く、ラッセルはダイアル・レコ ードの発足を決心する。「ダイアル」は当時有名な文学雑誌の名前で、ダイアル・レコードのために資金を出し共同経営者とな ったマーヴィン・フリーマン弁護士の愛読書であったことから命名されたものである。

   クラブ「ビリー・バーグス」に八週間の契約で雇われたパーカー&ガレスピー・コンボは翌46年2月3日で終了 する。これを機会にダイアル・レコードの最初のレコーディングは、このコンボで1月中に行われる計画だった。然し全くの素 人であるラッセルは、ボイド・レイバーン楽団のピアニスト兼アレンジャーのジョージ・ハンディをプロデューサーとして起用 する。パーカー、ガレスピーは既に同意しサイドメンの選定にかかるが、「ビリー・バーグス」でのメンバーを希望するラッセ ルに、ハンディは「ピアノは自分が」と言いだし、さらにレスター・ヤングを加える計画だった。当初の予定から二週間遅れ2 月5日がその記念すべき日となる。パーカー、ガレスピー、レスター・ヤング、ミルト・ジャクソン、レイ・ブラウン、スタン ・レヴイ、ジョージ・ハンディの7名、編曲はボイド・レイバーンとメンバーが決定していたが、レスターの代わりにラッキー ・トンプソンが、さらにミルトの代わりにギターのアーヴ・ギャリソンとなった。リハーサルも兼ねてグレンデールのエレクト ロ・ブロードキャスティング・スタジオに集合、しかし噂を聞きつけた多勢のファンが集まりラジオ局のスタジオ内に押し入っ て大騒ぎをし、結局面白がってパーカーがソロをとったリハーサル演奏の「ラヴァー」1曲を録音する。これは「ディギン・デ ィズ」となって発売される。(SP1004-LP207)

   さてその翌6日の本番の日の夜パーカーが行方不明となり、探し回ってくたびれ果てたジョージ・ハンディは、 降ろしてくれと言い出す始末。スタジオもおさえ、時間も迫っているため、急遽ラッセル自身がプロデュースするはめになりガ レスピーに相談し、パーカーを除いた「ビリー・バーグス」のメンバーに、ラッキー・トンプソンを加え(ピアノはアル・ヘイ グが入ることになる)、同スタジオ入りとなる。ラッセルの不手際で、やはりファンの騒ぎがあったものの、5曲録音する。ガ レスピーは、ギルドと契約していたため変名を使い「テンポ・ジャズメン・フィーチャリング・ガブリエル」として発売 (SP1001、1004、1005、1008 - LP212)。SP1001「ダイナモA」(テイク1003A)のレーベル面には、master A-1:55amと記入さ れており、実際には2月7日の録音ということになる。この最初のSP1001 番は、3月10日に発売された。この録音の2日後2 月8日一行はパーカー一人を残してニューヨークに帰っていったのである。

--続く--