【ニューヨーク移転後】
ニューヨークに戻ったパーカーはクラブ「スリー・デューセズ」に出演していた。マイルス・ディビス(tp)、デ
ューク・ジョーダン(p)、トミー・ポッター(b)、マックス・ローチ(ds)のパーカー・クインテットは、すっかり人気グループとな
っておりビリー・ショーのマネージメントのもとで各地のクラブに出演し新しいジャズの次元を高揚していった。
パーカーとダイアルの契約はカマリロ退院時に1年間の継続延長となっており、この年の秋ダイアル・レコー
ドは本拠地をニューヨークに移したのである。ところがパーカーがニューヨークに戻ってから、既にサヴォイ・レコードに2度の
レコーディングを行っていた。45年11月の「コ・コ」セッションのあと、8曲分の録音が残された契約となっていたもので、ダ
イアル、サヴォイ双方に手落ちが無かったことからユニオンでも介入を拒否し、うやむやな結末となった。
47年末から48年1月に第二次吹き込みストに入ることを予測したビリー・ショーは、パーカーにとってレコー
ドを出し続けて知名度を上げることが大切なことだとしてダイアル・レコードの吹き込みを促したのである。ニューヨークでの3
回にわたる録音はWORミューチャル・スタジオで行われた。ここにはジュリアードを卒業したダグ・ホーキンスという優秀な人間
が技術を担当しており、ラッセルはじめミュージシャン全員が求めていた優れたサウンドで録音できたという。第1回の10月28日
はスタジオ入りした直後、ラッセルに50ドルを無心し薬を打ったパーカーだったが、ダイアルのスタジオ日誌には「やる気充分だ
った」と記されていたという。SP6面分の録音は15のテイクで、しかも4時間で終了し密度の濃い演奏だった(SP1019、1024、
1032、1056 - LP203)。
第2回目は11月4日だった。またしてもダイアルのオフィスにやってきたパーカーはとても具合の悪い様子で、
150ドル借りた。その夜のスタジオ入りは1時間遅れたが、見違えるように溌剌として3曲のオリジナルと3曲のバラードを演奏、
そのうち「マイ・オールド・フレーム」と「ドント・ブレーム・ミー」はいずれもワン・テイクで終わっている (SP1021、1040、
1058 - LP203、207)。
第3回目は12月17日。二回目の録音が済んだ後デトロイトの「エル・シノ」に出演した際にいさかいがあり、
アルサックスを壊してしまい給料前借りで新しく買ったパリ・セルマーの最新型モデルを持ってのセッションだった。ラッセルは
J.J.ジョンソンを高く買っていて、このセッションに参加させたくなりパーカーも賛成して実現したもの。5曲のオリジナルと、
バラード1曲の録音。21テイクを3時間以内で完了している (SP1034、1040、1043、1055、1056 - LP203、207他)。
これらパーカーの3回のセッションの間に12月3日ハワード・マギー・セクステットのダイアル最後の録音が
WORスタジオで行われている。ジェームス・ムーディ(ts)、ミルト・ジャクソン(vib)、ハンク・ジョーンズ(p)、レイ・ブラウン
(b)、J.C.ハード(ds)のメンバーで9曲録音された(SP1027、1037、1039、1047 - LP209)。
同じ日、ロスではC.P.マクレガー・スタジオで、ラッセルが非常に好んでいたピアニスト、ドド・マーマロー
サ・トリオの録音 (SP752、1025、1050 - LP208)、翌日の4日は、デクスター・ゴードン・カルテットの2曲と、テディ・エドワ
ーズが加わってテナー・バトル「ザ・デュエル」他のセッションを行っている (SP1018、1028、1033、1042、1048 - LP204)。
パーカーの最後の録音から約1年のブランクがあり、48年11月29日ニューヨークのWORでファッツ・ナヴァロ・
クインテットと、このクインテットにアール・コールマンをフィーチュアしたセッションがある。このセッションでのコールマン
の歌で「アイ・ウイッシュド・オン・ザ・ムーン」は、ポピュラー・シリーズSP756として発売されたことになっているが、いま
だに発見されず多分発売されなかったのではとまで言われる幻の作品である (SP753、1033、1049 - LP212)。
これでダイアル・レコードの録音が全て終了している。
--続く--