Dial Story

1. ダイアルの創立 2. パーカーと正式契約 3. レーベル1本に専念 4. ニューヨーク移転後
5. ダイアル基本方針 6. そのカタログ整理 7. そのジャケットなど 8. ダイアルその後

【レーベル一本に専念】

   この年の秋テンポ・ミュージック・ショップを人手に渡し、ラッセルはダイアル・レコードの経営に専念するこ とになる。同時にマーヴィン・フリーマンも経営から手を引くことになり、マーヴィンが投資した金の返済は、店の売却と伸び始 めてきたレコードの売り上げで可能となった。

   ロス・ラッセルがパーカーの後見人となりカマリロから退院させたのが、翌47年1月末のことで、もちろん契約 延長を条件にしたことはいうまでもない。

   2月1日にはマギー、ショーティ・ロジャース、ラス・フリーマンらがチャック・コープリーのアパートに集 まり、パーカーの回復を祝うホーム・ジャムセッションが催された。この珍しい記録の内、「ホーム・クッキング1〜3」は LP905に収められ1953年に発売されている。なお1960年代末にロス・ラッセルのテープ保管所から「ヤードバード組曲」、「ララ バイ・イン・リズム」が発見され、さらに1970年代末にはノルウエー人コレクターから2曲のブルースの断片が発見されている。 この「ブルース・オン・ザ・ソファ」、「コープリー・プラザ・ブルース」はダビング時の音質劣化があり、音のバランスも悪 い。しかしパーカーの好調なプレイを聴いたラッセルは早く録音に入ろうと決め、企画はすぐまとまった。

   回復後の正式なレコーディング・セッションに対し、ラッセルはハワード・マギー(tp)、ワーデル・グレイ (ts)、ドド・マーマローサ(p)、バーニー・ケッセル(g)、レッド・カレンダー(b)、ドン・ラモンド(ds)を集め、準備が整った。 ところが録音の直前になり、パーカーはあるクラブで見つけた無名の歌手、ビリー・エクスタインばりの歌い方をするアール・ コールマンを使いたいと言い出した。ラッセルは気が進まず、別々の録音をする代案を出し、小編成でコールマンをフィーチュ アしたいと進言し、パーカーはこれに承知した。ラッセルはロスで遊んでいたエロール・ガーナーに、レッド・カレンダー、ハ ロルド“ドク”ウエストを組み合わせることにした。2月19日アール・コールマンは2曲のボーカルを4テイクずつ2時間がか りで、ようやく録り終えた。出来は良かった方だが、ラッセルは気に入らなかったようだ(SP1014、1015)。しかし後にラッセル が語っているがジュークボックス・レコードとしてだが、ダイアルのビッグセラーのひとつがこの「ジス・イズ・オールウエイ ズ」だったという (SP1019でも再発)。

   アールはもう歌える状態ではなかったため脇に退いた。パーカーは、残った30分間に準備もなしに2曲の新曲 を編み出した。ボーカル抜きのカルテットで7つのテイクを録った。この曲はコンセプトの違う両者であるが各々の個性が良く出 されたもの。特にパーカーのリラックスした確信に満ちたソロはさすがである(SP1014、1015 - LP202)。

   「クール・ブルース」は予想外のヒットで良く売れたレコード。1年後にフランスでも発売されディスク大賞 をとっている。この録音に引き続き、ガーナー・トリオによる2曲も録音、(SP1016)として発売された。

   さてロスアンゼルスにおける、パーカーのダイアル最後の録音は1週間後の2月26日に設定された。前日のリ ハーサルにはパーカーは二日酔いで、しかも1時間も遅刻し体調も良い状態ではなかった。4曲のオリジナルを作る約束にもかか わらず、タクシーの中で走り書きした1曲のみだった。その曲すら誰にも読めず、しかも皆が覚えるのに1時間以上もかかったと いう。さらに録音当日はスタジオに姿を見せず、マギーが探し回り、浴槽の中で眠りこけているパーカーを見つけ、ようやくスタ ジオに連れてくるという始末。しかしながらラッセルが当初組んだメンバーが揃っている中で、パーカーは前年3月28日のセッシ ョンの時のように責任感のあるリーダーの態度を取り戻している。タクシーの中で書いた12小節のブルースは「リラクシン・アッ ト・カマリロ」と名付けられ、最初に録音されるがパーカーの演奏は完璧であった。他のメンバーの調子が合わず、5回のテイク を重ねたが、パーカーはテイクが進むにつれアドリブが冴えてくる。マギーのオリジナル3曲も、テナーの新人ワーデル・グレイ がパーカーに迫る快演をしている。

   西海岸で最良のサイドメンを選んで録音したこの4曲は「チャーリー・パーカーズ・ニュー・スターズ」の名 前で発売された(SP1012、1013、1022)。数日後、慈善コンサートで得た金の残りを貰ってパーカーは仲間が活躍しているニューヨ ークへ発った。

   6月5日および12日には、ビバップの隆盛と共に実力をつけてきたデキスター・ゴードン・カルテット、そし てワーデル・グレイとのテナー・バトルの録音に入る。ロスの黒人街セントラル・アベニューに「バード・イン・ザ・バスケッ ト」という店があった(フライド・チキンがスペシャル・メニューで、パーカーとは関係ない)。この店にゴードンとグレイが出 演しており、二人は毎晩のように素晴らしいテナー・バトルを聴かせて好評を博していた。ある夜この二人がエキサイトして30分 以上も掛け合いを演じた様をラッセルが聴き、早速契約したものである。ゴードンのダイアル最初のセッションには女性トロン ボーン奏者メルバ・リストンを起用。2曲2テイクが残されている。

   6月12日「バード・イン・ザ・バスケット」にレギュラー出演しているリズムセクションと共に、C・P・マクレ ガー・スタジオで、この「ザ・チェース」を録音、6分44秒の演奏をSP両面に入れ彼等の第一作目として発売する(SP1017)。その 後グレイ抜きのカルテットで3曲録音する。6月5日の2曲はクインテットによるもので、SP1018、1038 (LP204) で発売。12日 のカルテットは、SP1022、1038 (LP204、210)に収録されている。

   そして6月10日には、春にパーカーと共演したエロール・ガーナーのソロ・ピアノを同スタジオで録音。当時 ガーナーはシングルの仕事が多く、またラッセルもその方が経済的と考えたのであろうか。2時間で8曲の録音。SP3枚(1026、 1031、1041)で発売、後10インチLP205で発売する。

--続く--